60(最終話) 祈り
目を開けたらそこは想像していた世界ではなかった。
一面に広がる花畑。青い空、光る太陽。
「あれ……? ここは」
白い雲が流れていく。地上で何度も見た空。天界にはない空。
「うーん、コッホン。えー、ここはの、天界ではない。天国じゃ」
わざとらしく咳払いをして現れたのは雲じいだった。
「……なんで、天国なの?」
じとっと見つめて低い声で問う。
「う……いや、その、ここならのぅ、隠れていられるかと思ってのぅ。……天界へ戻ってはしがらみに捕らわれてしまうから……」
雲じいがもじもじと言う。そうやって指と指をくっつけながら言うの止めてくれる? 可愛くないから。
「……そう」
「家も用意するぞ! ほい!」
わざとらしく大きく両手を振って振り下ろした先に、ぽんと小さな家が現れた。木製の……なんて言っただろうか、そう、ログハウスだ。子供たちと読んだ絵本の中に、あんな家が出てきたように思う。小人が住んでいそうな家だ。
「…………ありがと」
私がイライラしているのがわかっているのだろう、雲じいはしきりに視線を彷徨わせている。
「あとはえーと、うーんと、内装かのぅ、それから庭も……」
「あとは自分でやるからいい」
「そ、そうかのぅ、まぁここは天国じゃから、願えば願った通りになる……力は必要ないからなんでも……」
「わかってる」
「そ、そうか……」
つっけんどんな受け答えにタジタジな雲じい。
雲じいはきっと、強制送還されたことに私が怒っていると思っているのだろう。今度は申し訳なさそうに視線を落とし、次の一言を考えているようだ。
でも私は、別にそこには怒っていない。天界へ戻ることは了承していたのだから。
このまますべてが消えてしまうくらいなら、離れていても生きていてほしいと、栄が言ってくれて。その時に本当に納得できた。そして自分でも生きていたいと思えた。いつか会える日を信じて待つことを選んだ。
だから怒ってはいない。……そこに関しては。
私は家の周りに向けて、少し念を込めた。
ぽぽぽぽん……! と出現する見慣れた花。背の高い、ひまわりの花。
いつか栄と行った、ひまわり畑のようになって満足する。さすがに家の庭をひまわりだらけにできなかったしね。
「お~きれいじゃの~」
のんきに拍手する雲じい。いつまでここにいるつもりだろうか。
「雲じい。帰らないの? 天界に」
ぼそっと言ってみたら雲じいはシュンとして肩を落とした。
「そんな邪険にしなくてものー、わしだって久しぶりの娘と語らう時間くらいはのーあってものー」
ぶつぶつ呟きながらこちらをチラチラと見てくる雲じいを取り残し、私はできたばかりの小さな家へと歩いていく。
天国も構成自体は天界と同じようだ。呼吸するだけでほんの僅かずつだけど力が戻っていくのがわかる。
このまま、少しずつ、力を取り戻していければ。
「無視かのー、ひどいのーわしのせいなのかのー」
「知らないわよ」
ウザったいことは確かだった。そして人の気持ちに鈍感なところも相変わらずだ。
「……仕方がないか、神なんだし」
人間みたいに話をするけれど、雲じいもやっぱり神なのだ。かなり人間に近い思考をするようだけど、人間にはなれないのだから。
だから正しいタイミングを見極められないのも仕方がないのだろう。
私が怒っているのは、あの戻される瞬間に、まだ言いたいことがあったのに言えないままにされたことだった。
「あるしぇね~」
まだ何かを言っている。でも話す気にはなれない。
何を話したらいいのかもわからない。何よ、娘と語らう時間って。
小さな家のドアを開け、中に入った。後ろを振り向きもしないでドアを閉める。そのうち諦めて帰るだろう。
「ふー………」
……私は怒っているのよ。
栄に、言いたいことがあったのに。
「見事に空っぽね……何を置こうかしら」
家の中には何もなかった。壁も仕切りさえもない、ただの一部屋。ドアと窓があっただけマシというものか。部屋は増やそうと思えばいくらでも増やせるし、どうにでもなるのだけれど、やっぱり雲じいの仕事だからこんなものだ。
ふっと思い返した景色が再現されようとした。
毎日料理をした台所、みんなで一緒にご飯を食べた居間。子供たちのベッドがならんだ部屋、栄との寝室。
それらがぼんやりと形を作ろうとしたところで意識的に止めた。
……ダメだよ、あの世界は。あの家は、家族と一緒にいたからこそ楽しい場所。
どんなにそっくりに再現できたとしても、栄や子供たちが現れることがないなら。
いっそ全く違う家の方がいい。時々思い出して、みんなどうしてるかなって考える方がずっといい。
毎日泣いて暮らすわけにはいかないのだから。
「とりあえず……テーブルでしょ、椅子でしょ……」
手当たり次第に思い浮かべて、適当な部屋を作っていく。あ、雑誌で見た家具とか、テレビで見たのと似た部屋にするのも面白いかもね。
外にいた雲じいの気配がようやく消えた。……全く。次に会った時でもしゃべってなんかやらないんだから。
別に嫌いなわけじゃない。ずっと怒りが続くわけでもない。でも雲じいにはどうしてもけんか腰になってしまいそうだ。
だって父と娘の会話なんて、どんなものかわからないもの。
置いたばかりの椅子に座り、窓の外を眺める。青い空に白い雲、揺れるひまわりの花。完璧だけれども、欠陥だらけの空想の世界。永遠に変わることのない、作り物の世界。
父と娘って言えば……栄と亜希はどんな会話をしてたかな。亜希は「パパ」って呼んでたよね。いつも楽しそうにじゃれついて。……でもそんなのは無理、私には。
「今頃みんな……どうしてるかな」
子供たちは泣いていないだろうか。お別れも言えないで置いてきてしまったけれど、私のことを嫌いになってしまうのだろうか、忘れてしまうのだろうか。
死んだことにして別れるという栄の提案は正しかった。ただ母親が消えたというだけじゃ、羽留も奈津も亜希も納得しないものね。芙柚はまだわからないだろうけど、大きくなってから混乱するはずだし。いつ戻れるかわからない以上、仕方のないことだよね……。
「……はぁ……このまま……ひとりか……」
空っぽの家の中に家具が置かれても、寂しさは埋まらない。
仕方のない選択、一番いい選択をしたというのに、答えの見えない辛さがある。
ひとりぼっち。これが逃れようのない今で、いつまで続くかわからないから、孤独の中でどこまで耐えられるかわからない。
「そうだ、辛くなったら‟窓“をのぞきに行こう」
そう、私はまだみんなの姿が見えるんだから、いい方なんだ。大きくなっていく姿を見守ることができるんだから、まだ。
声は聞こえないし話もできないけれど、私にはみんなの姿が見えるのだ。
「あっちは五人だけど、こっちは一人なんだし、これくらいは許してくれるよね、栄……」
少しずるい気もしたけど、栄なら笑って許してくれそうな気がした。
優しい人なのだ。特に私には、甘すぎるほど優しい人だから。
「栄、今頃泣いてるかな……」
きっと泣いている。意外と泣き虫なのだ。あんなに体が大きくて、強そうなのに。心はとても繊細で。
「だから最後に言おうと思ってたのに、雲じいのバカ」
……私がいなくなっても、子供たちと笑って過ごしてねって。泣いてばかりいたらダメだよって。
なんとなく窓を開けて顔を出したら、ふわりと風が吹いてきた。向日葵の香りのする、暖かい風が。
この風が、世界を渡って届いたらいいのに。
「……泣いてばかりいたらダメだよ、栄。子供たちをよろしくね」
絶対に届かない伝言を、空に向かって呟いた。
同じように青い空が、吹き抜ける風が、あの優しい人を包み込んでくれるように祈りを込めて。
……いつか絶対に帰るから、あなたの元へ。
だからそれまで待っていて。
必ず、待っていて。
これにて『太陽の咲く庭で、君が』は完結となります。振り返れば最初の掲載日は2012年の1月。一体何年やってんの!?と自分でもツッコむほど長々続いてしまいました。途中何度も中断あり、最後は怒涛の勢いで更新と、あまりにひどい有様でありましたが、すべて読んでくださる皆さまがいたことが、作者の支えとなりました。
絶対に完結まで書きますと宣言し、自分のためにも書き切りたかった作品ですが、なんとか区切りのいいところまで紡ぐことができました。いろいろ拾いきれていない伏線もあるのですが(苦笑)それはまた別のお話の中で。
栄と葵の物語は最初からここをゴールと決めていました。もしかしたら番外編が上がるかもしれませんが、今のところはここまでということで……。
大変長いお話になりましたが、ここまでお付き合いいただきありがとうございました!!読んでくださったすべての皆様に感謝を捧げます。
2016.4.10 蔡鷲娟