57 仕方のない親友
カランカラン、と入り口のベルが鳴って、僕は背中を伸ばした。
「いらっしゃ……あれ、ハル?」
「洋一さん、こんにちは」
羽留が僕のところにやってきたのは、十二月も中ごろの、寒い土曜日の午後だった。
店は営業中だったから、やってきた羽留に無言でエプロンを渡した。羽留も何も言わずに頷いてエプロンを付け、切り花の枯れた葉なんかを取り除き始めた。店内にはBGMは流していない。静かな空間でガサゴソ作業する音だけがする。
「なんか……お父さん、変なんだ」
しばらく黙っていたと思ったら、羽留は急に話し始めた。どこから話したらいいかを迷っていたのだろう。
「へぇ? でも栄が変なことなんて、今に始まったことじゃない。どうした、急に」
ちょっと茶化して言うと、羽留は大きくため息をついてこちらを見た。
「お父さん、笑わなくなったんだ。たぶん笑ってるつもりで、声とかは『ははは』って言うんだけど、でも顔が全然動かなくって」
「…………」
「自分では気づいていないんじゃないかな。鏡で見ないとわからないけど、笑ってるときにわざわざ鏡見ないもんね」
それは、なんだか思っていたより重症だな、と思いつつ黙っていると、羽留は「まだあるんだ」と話を続けた。
「最近、タバコを吸うようになったんだ。家の中では吸わなくて、外で吸ってるんだけど。タバコのにおい、僕たち好きじゃないから吸ってほしくなくて、フユなんかそれが嫌でお父さんに抱っこされると泣くんだ。お父さんも悲しそうな顔をするんだけど、気づいてなくて。……本当は、僕が言えばいいんだけどね、タバコ吸わないでって。でも、お父さん……」
「タバコを吸うことで落ち着いてるんだったらやめろって言えない?」
羽留の言葉を引き継ぐと、羽留はこくりと頷いた。
「タバコって心を落ち着かせるような作用があるんでしょ。僕調べた。それから日曜日になるとふらっとどこか出かけて、食事の時間には戻ってきてご飯作ってくれるんだけど、どこに行っているかわからないし」
あーあーあ、何やってんの、栄。
「ナツもアキも心配しててさ、でも最近のお父さん、怖い顔ばっかりしてるから話しかけられなくて。夕飯の献立決めるときとか、お父さんから話しかけてくれるときは話せるんだけどさ、こっちからは話しかけにくいんだよね……」
「はーぁ、なんとなく状況はわかったよ。それで? 僕が行って栄と話してくればいいのかな? お前なにやってんだよーってぶん殴ってくればいい? しっかりしろよって叱咤激励すればいい?」
まだ中二の羽留には酷なことを言っているとわかっていながらそう問いかけた。
でもたぶん、賢い羽留ならわかっている。栄が今どうなっているのか、自分たちは今どうしたらいいのか。
羽留はブルブルと首を振った。……ほらね。
「違うんだ、お父さんが悪いんじゃない。僕たち……ちゃんと、わかってるんだ、お父さんが、お母さんが死んじゃってとてもとても悲しんでること。悲しくて、寂しくて、それで笑えなくなってることも、それでタバコを吸うんだってことも、どこかへ行っちゃうことも、ちゃんとわかってる。ただ……」
「……ただ?」
「お父さんには僕たちがいるんだって思い出してほしいんだ。お母さんがいなくても、僕らがそばにいるってこと、今のお父さんはきっと忘れちゃってるから」
羽留の目は涙を堪えて少し潤んでいた。僕は思わず近づいて、羽留の頭を撫でていた。羽留も何も言わずに撫でさせてくれた。いつもだったら「髪がぐちゃぐちゃになる」って怒るのに。
「こーんないい子供たちに囲まれてんのに、何やってるんだろうなー、栄は」
不器用な親友の顔を思い出す。葵さんの葬式以来、会っていなかった。葵さんがいなくなっても、四人も子供たちがいたら悲しんでるばっかりじゃいられないだろうと思っていたのだが、甘かったようだ。
本当に葵さん大好きだったからな。いや、違うか、今でもずっとあいつは葵さんのことが大好きで、待っているんだ。
子供たちには言えないままに、葵さんの帰りを、ひとりで待っているんだ。
だけど何のためにおれたちは葵さんの秘密を共有しているんだ? なぜ葵さんが向こうへ戻る前に、おれに連絡してきたんだ? お前ひとりで抱えてないで、少しは零したっていい。もう引き入れられちゃってるんだ、今更迷惑だなんて思わない。
それとも葵さんの思い出を抱えて、ひとりで浸っていたいなんていうのか? ……それは間違いだよ、栄。大人の支えが必要な子供たちを置いて、お前だけ悲しみ続けるなんてこと、許されるはずないだろう。
「んー、やっぱり蹴飛ばしに行こうかな。酒持ってさ」
羽留の頭を撫でながらぼそっと言うと、羽留は困ったように眉をひそめた。
「洋一さんが蹴飛ばしたら、お父さん大怪我しちゃうよ」
「だなー、栄は最近全然鍛えてないんだろう? そのうちお腹ブヨブヨになっちゃうぞって脅してやろう。……まぁ、それは置いておいて。ダメな親友が迷惑をかけてるから、僕から一つアドバイスをしてあげよう、ハル」
迷惑も何も、父親なんだけどなぁと羽留が笑うのに、また髪をぐしゃぐしゃにしてやった。本当にいい子だ。
「いいか、あのな……」
*
作戦会議を綿密に練って、羽留は帰っていった。ちょっとホッとしたような、でもどこか不安げな顔のままで。
「ったく、栄のやつ。どこまで行ってもお前はお前のままだな、まったく」
言いながら今晩は何の酒を持ってお邪魔しようかと頭の中で考えていた。
子供たちの作戦が決行されて、うまくいったとしても、あいつの中のドロドロを洗い流してくれるものが必要だろう。酒なんか、悲しい時に一人で飲んでも悲しくなるばっかりだし。
「さて、今日は早めに店終わらすか……」
僕は店内を見渡して、今日明日の算段を始めた。土曜日の午後だから不意のお客さんもあるかもしれないが、しょうがない。明日は配達だけにして、店はやらなくていいかな。そしたら洋二に任せておけば済むし。
結婚して子供もいる弟さえも巻き込むつもり満々で、あれこれ考える。
仕事はいつだって放り出せる。
仕方のない親友のためなら。
残り三話です