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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第二章
124/128

56 いない日々





 子供たちは学校に電話を掛けて呼び戻した。普通に学校が終わるのを待っていてもよかったが、いつも通り帰ってきて葵が死んだと聞かされるのも酷だと思ったし、お母さんに何かあったら学校を早退させるのは当然だと思い、そうした。

 何があったのかと緊張の面持ちで帰ってきた子供たちに、客間で横たわる葵と対面させた。

すぐに状況を把握して泣き出したのはやはり羽留だった。双子も羽留が泣き出してから何が起きたか分かったらしい。大きな目を見開いておれを振り返った後、葵にしがみついて泣いた。


 アンナさんの用意してくれた葵の人形は、ぎょっとするほど葵にそっくりだった。

 魔法みたいなものでやるにせよ、こんなもの作るの大変だっただろうと言ったら、「協力者がいたから、大丈夫」と肩をすくめた。それ以上何も話してはくれなかったが、とにかくそっくりすぎる葵の‟遺体“がそこにあるのがおれには耐えられなくて、葵の人形を寝かせた客間にはなかなか入れなかった。


 もう一、二か月前から体調の悪かった葵である。子供たちには詳しく説明しなかったが、葵が病死したということに納得してくれたらしい。目を真っ赤にして瞼を腫らしたまま、お通夜、そして葬儀に、静かに参列した。


 葵の人形を棺に納めるときも、その棺が火葬場の鉄の扉の向こうへ向かう時も、あまりのやりきれなさにおれは耐えることができなかった。顔がひどく歪むのがわかった。泣くのは間違っている、これは葵じゃない、そう思ったから涙は出さずに済んだが、冷たくてただ重いだけの人形に、本当に葵が死んでしまったような気がして、本当に葵を火で焼いているような気がして、叫びだしたくなる心を押さえつけるのに必死だった。

 それが周りからどう見えていたのかは知らない。葵の葬式には近所の人や商店街の人などが集まってくれたが、誰が来たかとかに割く余裕はなく、おれはただ無言でお辞儀を返すことしかできなかったから。

 火葬が終わり納骨の段になった時、さすがに人形の中身は骨まで再現していなかったらしく、灰しか残っていなかったのを係員の人に不審がられたが、即座にアンナさんが何かの術を掛け、係員さんの記憶を曖昧にしてくれた。おれたちは燃え残った少ない灰を骨壺に納めた。

 子供たちはこの場には立ち会わせなかった。もう疲れ果ててご飯を食べながらうとうとしていたくらいだったから。精神的なショックが大きかったのだろうと思う。まさか自分たちの母親が、こんなタイミングで死んでしまうと思いもしなかっただろうから。

 子供たちに葵とさよならを言わせなかったのはおれの判断だが、その結果がどうなのかはやっぱりまだわからない。

 何もかもを話してさよならさせてあげようかと思ったことも何度もあった。間違っているのかも、と。でも今それを考えても意味のないことだ。過ぎてしまったことは、もう取り戻せないのだから。


 ……そう、もう取り戻せない。


 朝起きて、隣を見る。猫のように丸まって眠っていた葵は、いない。おれより遅く起きた日は、ふにゃっと笑ってくれたのに。

 一階へ降りて台所に顔を出しても、「おはよう」の声は響かない。味噌汁のいい香りもしない。

 葵の作る朝ごはんも、お弁当も、もうない。全部自分で用意して、あまりうまくできなかったおいしくないおかずを口に突っ込んで。

 子供たちが自分で起きてきて、顔を洗ってご飯を食べる。文句も言わずに食べてくれる。そして各々学校へ向かう。

 時計とにらめっこしながら支度をして、洗濯物を干す。同じ洗剤を使ってるのに、どうしてあのいい匂いにはならないんだろうって首を傾げる。皺が寄っているのに気づいても、時間がないからもういいや、とそのままにして芙柚を連れて車に乗り込む。

 芙柚をお袋に預けて現場へ行く。現場はいつも通りだ。いつも通りに決められた通りに働く。仕事の時は、仕事のこと以外を考えなくて済むからいい。慣れているから体が勝手に動いてくれる。

 冷蔵庫の中身を思い出しながらスーパーへ寄って買い物をする。葵は毎日こんなことをしていたんだなと改めて思いながら、少ないレパートリーのどれにしようかと悩む。適当に肉や野菜があれば、亜希が何か作ってくれそうだ、なんて、まだ小学校四年生の娘の料理の腕に期待する。実家に寄って芙柚を引き取ろうとしたら、羽留が迎えに来ていたようだ。できる長男。

 玄関を開ける。「ただいま」と言う。「おかえりー」の声が三つか四つ、返ってくる。でも葵の声はしない。

 作業着を脱いで顔を洗い、夕飯を作ろうかと声を掛ける。亜希が料理の本をめくり、これがいいと選ぶ。チンジャオロースか、先に言ってくれ、ピーマンは買ってきてない。キャベツがあったので仕方なく隣のホイコーロ―を作ることに。味はたいして変わらないよ、たぶん。

 できたおかずをみんなでつつきながら、今日の出来事を話す。羽留は来週大会があるそうだ。シングルスで出るのか、すごいな。奈津は最近理科が好きらしい。実験が面白いとか。亜希は料理に夢中。明日こそチンジャオロースにすると意気込んでいる。わかったよ、ピーマン買ってくるから。芙柚はボロボロと机に零しながらも一生懸命食べている。おれの顔を見て、「ぱぱ、おいしい」と笑ってくれた。

 食事が終わったら後片付け。食器を流しに運ぶのは各自で。その後はおれが皿を洗う。洗った傍から羽留がふきんで拭いてくれて、奈津が食器棚にしまってくれる。いい連携だ。

 子供たちが宿題の残りを片付けたり、テレビを見ている間に、おれは風呂を洗う。本当は朝洗えればいいのだけれど、朝ごはんの支度に時間がかかったりして時間がなくなってしまったときは後回しだからだ。洗って、すぐにお湯を張って。子供たちはまだ入らないというので、おれが一番風呂をもらう。その後は羽留と芙柚、奈津と亜希とふたり一緒に入り、風呂は終わり。歯磨きをして、寝る準備をする。羽留はまだ予習が終わらないからとパジャマ姿のままで教科書を広げている。大変だな、中学生ともなると。おれは昔そんなに勉強してなかったけど、と口には出さないで思い、双子と芙柚を二階へ連れていく。芙柚は毎晩順番に三人のベッドに潜り込んでいるらしい。今日は亜希と一緒に眠るんだとか。布団に入って数分後には聞こえてきた寝息に笑いながら電気を消して下に降りる。羽留は勉強が終わったらしく、カバンの中に教科書をしまっていた。「もう寝るね」と言って去っていく背中に「おやすみ」と声を掛けた。

 ここからは大人の時間。……とは言っても何もすることがない。

 ひとりでは、何もしたいことなんてない。葵がいたときは本を読む葵の傍で、おれも引っ張り出した本を読んでみたり、葵の見ているドラマを一緒に見たりもしたけど、見たいテレビもなければ本も読みたい気分にならない。

 ただ、縁側に腰かけてしばらくの間空を見ている。月が出ている日は月を眺め、雲ばかりの日は雲を眺め。もう枯れてなくなってしまったひまわりが咲いていた辺りを見つめ、思う。


 葵が、いない。


 一日のどこにも、葵がいない。家のどこにも葵はいない。

 何日過ごしても、いくつの夜を超えても、ここには葵がいない。


 おれは一体いつまで、こうして一人の夜を過ごしていくんだろう。

 葵がいない寂しさを抱えていくんだろう。


 だっていつだって思い出してしまう。葵だったらこうした、こう言った、きっとこうする、こう言う。何をしてても何を見てても、葵がおれの中から消えてなくならない。ここにいないのに、いる気がして、でもいなくて、いてほしくて。


 葵を天界に送り出すことに、おれは納得したはずだった。おれがそうしろって言った。ちゃんと割り切った。


 ……割り切ったはずなのに。納得したはずなのに。

 悲しい、悲しい、寂しい。


 いつだって呼んでしまう。

 あおい、あおい、あおい。


 ……なぁ、おれは間違っていたのかな。


 間違いじゃないって、言ってくれよ、葵…………。




 それからおれは葵の墓を建てた。先祖代々の墓はあったけれど、葵個人の墓を建てたかった。墓石には「AOI HINATA」と刻まれているけど、これは葵の墓なんかじゃない。骨壺の中には灰しか入ってない。葵は欠片もここにはいない。

 それがわかっていて、墓を建てた。そして毎日ここへ来るようになった。ほかに行くところが見当たらなかった。ただ、葵を思い出していたかった。



 軽トラが車検になって、車検証を出そうとダッシュボードをごそごそしているときに、古びたタバコが出てきた。

 葵と出会った後、吸うのをやめようとここに投げ入れたタバコ。

 なんで葵がいなくなってから出てくるのかな。吸えってことなのかな、もう葵がいないから。

 そんなことあってたまるかよ、と思いながら、一緒に発見したライターで火をつけてみる。十年以上も放っておいたのに、ライターも使えたし、タバコも普通だった。


「っ、げほっ、ごほっ」


 十何年ぶりのタバコは、おれの肺にやっぱりなじまなかったみたいだ。変質ってことも考えられたが。

げほげほ言いながらも、なんだかちょっと落ち着く気がした。咳とともにちょっと出た涙も、煙が誤魔化してくれるような気がした。






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