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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第二章
123/128

55 その時


 それからの日々は、いたって普通に過ぎて行った。


 おれと親父は仕事に行かなければならなかったから、毎朝起きて仕事へ。子供たちも学校があるから学校へ。

 ただ違っていたのは、葵が起きてくる日と来ない日があって、起きてこない日にはおれが適当に朝ごはんを作って食べさせて、慌ただしく学校へ行かせるという点。おれの遅刻は親父が多めに見てくれたから、朝は子供たちのことを優先でき、なんとかすることができた。

 子供たちには、葵は病気だと伝えた。しばらくの間、家で療養するからと、起きられる日と起きられない日、体調がいい日とよくない日があるから、よく見てやってくれ、と言った。聡い子供たちは、毎朝葵の体調を尋ね、調子がいい日には話しかけ、寝ている時には起こさなかった。

 葵が寝ている日には芙柚をひとりで家においてはいけないので、実家に預けた。お袋が家へ来る日もあった。掃除や洗濯を手伝ってくれた。でも家事は子供たちが積極的に手伝ってくれたので、大した問題にはならなかった。葵も動ける時には動いてくれた。ただ、すぐに疲れてしまって座っている時の方が多かったけれど。

 夕飯の買い物は羽留が学校から帰ってから行くか、おれが仕事終わりにスーパーに寄るか、どちらかになった。羽留も部活に入っているので遅くなることもある。そういう時は携帯に電話を入れてくれて、指定された品物をおれが買って帰るのだ。夕飯を作るのは、葵と亜希の時もあったし、おれと亜希と奈津の時もあった。料理下手なおれをふたりが助けてくれて、なんとか様になったものをみんなで食べた。


 葵は、起きていられるときは以前と同じように、家事をしたりテレビを見たり、庭をいじったり、楽しそうに過ごした。

 日に日に弱っていく背中を見ながら、おれはおれにできることを探した。葵がしたいこと、見たいこと、聞きたいことをすべて叶えてやりたかった。

 毎日のように、「今日は何がしたい?」と尋ねていたが、葵は呆れて「毎日聞かれたってそんなにないわ」と笑うばかりだった。


 毎日が平凡に過ぎた。平凡な幸せを絵に描いたような生活だった。


 おれは自分の選択が本当に正解だったのか、答えを見いだせないままにその日を待った。もう、待つ他なかった。葵の言う、『お迎え』が来る日まで、この幸せを噛みしめて過ごすことしか。





 そして、その日は来てしまった。

 ずっと、永遠に来なくてもいいと願った、その日が。


 朝、珍しくおれより先に目を覚ましていた葵が、おれを待っていたように言った。


「さかえ……ごめんね、今日、だって。もう、待てないって」


 葵は涙を浮かべていた。葵に言わせたくなかったが、葵しか知らなかった。


「……ああ。わかった」


 それしか言えなかった。必死で涙をこらえることしかできなかった。




 

    *




 おれたちの計画はこうだ。

 葵はもう二度と戻ってこられない可能性が高い。だから、子供たちには葵は死んだことにする。

 そのために葬式を出して、変に思われないようにしなければいけない。


 うちの子供たちは自慢じゃないがみんな賢い。テストの点数もさることながら、おそらくIQのレベルで頭がいい。特に羽留なんて中学2年だし、ちょっとやそっとで誤魔化されてはくれない。はっきりと自分の目で見なければ、葵が死んだなどと言っても信じたりしないだろう。

 だから大人たちで画策した。葵も交えて。

 葵が限界になったら、天界に強制送還される。それは前もって知らされるようだったので、その時におれたち大人はお別れをする。子供たちには可哀想だが、仕方がない。ショックを与えてしまうだろうが、ちゃんと死んだと思ってもらわなければ、葵がいなくなることを説明できないのだ。

 葵はどこかのタイミングで天界に戻され、おれたちはアンナさんの術で作り出してもらった葵の人形を棺の中に入れ、通夜・葬式を行う。本物の葵はその時点でもういないのだが、徹底的にやらなければならないというのがみんなで一致した意見であった。




「アルちゃんが今日だって……!」


 電話から五分も経たないうちに、お袋が飛んできた。朝、子供たちを送り出してからお袋に電話をした。親父が後ろからやってきた。早いと思ったら車で来たのか。


「葵さんは?」


「お風呂に入ってる。最後に……入りたいんだって」


「ふふ、アルちゃんらしいわ」


 葵がお風呂好きなことを知っているお袋が、訳知り顔で笑った。そして、おれが抱っこしていた芙柚を奪うようにして抱き上げ、頬ずりをした。


「フユちゃーん、おばあちゃんですよー」


「おばーちゃん」


「うふふ、フユちゃんは可愛いですね~本当にね~」


 芙柚はお袋にあやされてきゃあきゃあ笑う。お袋も笑っていた。が、二秒後には泣いていた。


「……本当に、可哀想に」


 親父がお袋の肩を抱いて、一緒に目を閉じた。おれはそんな二人の様子をできるだけ視界に入れないように、そっぽを向く。

 見ていたらもらい泣きをしてしまいそうだから。

 そしてそのまま決壊して、堪えていた分が全部流れてしまいそうだから。


 葵はのんびりとした入浴を終えて、みんなの前に現れた。ただのんびりしていたわけじゃなくて、体が思うように動かなくて、ゆっくりになってしまったことは誰もがわかっていたことだったが。

 その時には電話で知らせていたアンナさんとおじいさんもやってきていて、葵が出てくるのを待っていた。


 葵は開口一番で言った。


「みなさん、長い間、お世話になりました」


 そして深々と頭を下げる。ふわりと香ったシャンプーの匂いと、清楚に揺れる青いワンピースが、あまりに場違いで悲しくなった。


「私、ここに来られて、みなさんと会えて、一緒に過ごせて、本当に幸せでした。……ありがとう」


 ありがとう、の言葉とともに、葵の顔がくしゃっとなって、堪えようとしていただろう涙が、ぽろっと落ちた。


「……ほん、とうに、ありがとう、ござい、ました……!」


 再び深々と頭を下げた葵を、攫うようにおれは抱きしめた。途端に葵はおれにしがみつき、嗚咽を零しながら泣いた。二人で崩れるようにして座り込んだ。

 おれは泣かないように必死だった。たぶんすごい表情をしていた。なりふり構っていられなくて、周りに誰がいるとか、そんなことをすべて忘れていた。

 葵をかき抱きながら、その残された温もりを、感触を、香りを、少しでもおれの記憶に留めようと思った。忘れようとしたって忘れられないことはもちろんわかっていたけれど、より鮮明に覚えていられるように。


「……アルちゃん、忘れないで。あなたはずっと私たちの娘よ。たとえ会えなくたって、それはずっと変わらないの」


 お袋が優しく言いながら葵の髪を撫でた。葵はぐしゃぐしゃの顔のままお袋を見上げ、「はい」と小さく言った。


「葵さん、帰れそうならいつだって帰ってきてくれ。おれたちはいつまでも待っているし、いつだって歓迎する」


 親父も葵の顔を覗き込むようにして言った。葵はまた「はい」と言って泣きながら笑った。


「葵さん、私はもうすぐ天国へ召されると思うんだが……天国では葵さんに会えるだろうか?」


「おじいさま……場所が違いますわ」


 本気かどうかわからないが、おじいさんが至極まじめな顔をしてそう言うのに、アンナさんが困ったように突っ込んだ。葵もそんな二人を見て、ほほ笑む。


「そうか、場所が違うのか、残念だ。……だが、天使ならば天国に来ることもあるかもしれないしね、そうなれば一番に再会できるのは私だね。そのときはまた、お茶でも飲んで話をしよう」


「……はいっ」


 葵は嬉しそうに笑った。涙が宝石のように煌いた。その顔を見ておじいさんも満足そうに微笑み、葵の頭を撫でた。

 次はアンナさんの番か、と思いながらアンナさんを見上げたが、アンナさんはほほ笑んで首を振った。


「もう散々話し合ったことなの。言うことなんて何もないわ」


「そう、か……」


 ちょっとさっぱりしすぎていないか、と思ったけれど、二人の間のことはちゃんと二人でわかっているのだろう。アンナさんもまた葵の頭を撫で、葵も嬉しそうに笑ってその手に触れた。それで十分なようだった。


「さかえっ、あおいさんっ!」


 そこへ大きな音を立てて走りこんできたのは洋一だった。洋一も葵が天使であることを知っている数少ない人間の一人だったから、さっき知らせたのだった。


「ちょっと栄、お前何なの? なんでこういう大切なことをさ、いっつもおれには直前になって言うの?」


 年に何度も見せないブチ切れモードだった。電話で要点だけ話したが、「葵が今日いなくなる」ってだけでは、そりゃキレるか。

 洋一は髪をぐしゃぐしゃと掻き乱しながらこちらへ寄ってきた。みんなの様子で大方の状況を把握したのだろう、視線だけでみんなに挨拶をし、おれと葵の前にしゃがみこんだ。


「あのさ、葵さん。おれ、いろいろ考えたんだけど」


 葵がきょとんと洋一を見た。


「別に結婚だけが、アンナさんを守るための手段じゃないと思うんだ。一緒にいて、自然とそういう気持ちになったら結婚するっていうのもありだと思うし……えっと、何が言いたいのかっていうと、つまり」


 洋一にしては珍しく、口ごもっている。洋一はちらりとアンナさんを見た後で、まっすぐ葵を見た。


「きみのお姉さんは僕がちゃんと守るから。だから安心して任せてよ」


 洋一の後ろでアンナさんが目をまんまるに見開いているのが見えた。葵にも見えたと思う。そして葵は笑いながら泣きながら、何度も頷いた。


「よろしくお願いします」


 洋一も葵の頭にポンポンと触れて笑った。なぜかみんな葵の頭を撫でたがる。今までよく頑張ったなって伝えたいのかもしれない。


「さて、じゃああとどのくらいの時間があるかわからないけど」


 お袋が涙を拭いながら立ち上がった。


「あとは二人にしてあげましょう」


 そう言って、芙柚を抱いて居間を出て行ってしまった。親父もそれに続き、おじいさんもアンナさんも洋一も出て行った。

 すっと障子が閉められ、葵と二人っきりになった。

 抱きしめあったまま、しばらくの間無言でいたけれど、これが本当に最後なら、ちゃんと言葉にして伝えておかなければいけないことがあると気づいて。おれは腕の力を緩め、葵の顔を真正面から見た。


「子供たちのことは、おれがちゃんと面倒みるから。大人になるまで、ちゃんと」


「……うん」


「おれ料理ダメだけど、アキとナツが上手だから、たぶん何とかなる。ハルも料理以外ならなんだってできるし、フユも優しい子に育つように、ちゃんとするから」


「……うん……」


「仕事も、ちゃんとやる。子供たちが大学行きたいって言ったら、行かせられるように頑張る」


「…………うん……」


 涙を大きな目いっぱいに溜めた葵が、頷きながらこちらに手を伸ばしてきた。頬に触れた細い指が、おれの目元を拭ったとき、初めて自分が泣いていることに気づいた。


「あれ……泣かないって、決めてたのにな、くそ、カッコ付かない」


 慌てて服の袖で目を擦った。


「ダメだよ、赤くなっちゃうよ」


 葵が呆れたように笑って、目元をなぞってくれる。その優しい感触にも泣けてくるというのに。


「さかえ」


「……ん?」


 不意に葵がおれを呼んだ。ふんわりと、優しい声で。


「さかえ……大好きだよ。ずっとずっと大好き」


「あおい……」


 やめてくれよ、涙が止まらなくなるだろ。泣きたくなんてないのに、葵の顔をこの目にちゃんと焼き付けておきたいから、よく見ていたいのに。涙が視界を邪魔して、ほら、ぼんやりとしか見えないじゃないか。葵、今、笑っているのか?


「元気でね、栄。笑って過ごしてね」


 その言葉が、最後の言葉のように聞こえて。会話を繋ぎたくて、繋ぎ止めて置きたくて、なんでもいいから思ったことを口にした。


「葵、また……会えるんだよな、葵が元気になったら、また」


 追いすがるように掛けた言葉にも、葵は笑って返事をしてくれた。


「うん、大丈夫。きっと戻ってくるわ、約束する」


「…………」


 その可能性が低いことを、誰よりもわかっていて、おれのために。

 おれのために、笑ってそう言ってくれるんだろう?


 もう嗚咽を堪えるのに必死で、声が出せなかった。鼻水を啜って何とか呼吸を整えて、涙を拭って葵を見る。


「……大丈夫よ、必ず戻るわ。私、何事にもあきらめが悪くなったの」


 葵はおれの髪を撫でながら強い口調で言った。まるで誰かに言い聞かせるように。宣言するように。


「どんな願いも、叶えたいと思い続ければ叶う日が来るって信じてるの。だって私がここにいることが既に奇跡でしょう? きっとこの願いも叶う」


 葵はもう泣いてはいなかった。ただ穏やかな笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。


「……いいえ、叶えてみせる。栄と子供たちが待っていてくれるんだもの、私、頑張るわ」


 言い切った瞬間、葵の体重が軽くなった。おれに掛かっていた重さがふわっとなくなるように。


 あ、と思った時がその時だった。


 葵の口が何かを言いかけたまま、葵の姿は空気に溶けるように消えた。



 消えてしまった。


 おれの目の前から。

 おれの腕の中から。



 状況を把握するのにたっぷり十秒ほどかけた後で、おれは突っ伏して泣いた。

 もう堪える必要のない涙が、滝のように落ちていくのに任せて泣いた。大声を出して思いっきり泣いていたから、状況を察したお袋が飛んで来てハンカチを差し出してくれた。


「アルちゃん、行っちゃったのね……」


 お袋がぽつりと呟いた。

 

 おれは無言で頷いた。






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