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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第二章
122/128

54 大人たちは

本日連投してます





 翌日、朝も明けない暗い道を、おれは一人で歩いていた。

 子供たちも葵もまだみんな眠っている。それを確かめてから、カギをしめて出てきたのだ。


 ゆうべ、子供たちが帰ってくるのを一人で迎えた。葵はあのまま眠っていたので寝室に寝かせてきて、見るわけでもないテレビをつけて、おれは子供たちの帰りを待っていた。

 暗くなってから、はしゃいでテンションの高いまま家に飛び込んできた子供たちは、何が面白かったとか何を食べたとか、何がすごかったかとか口々に報告してきた。久しぶりに明るい子供たちを見た気がして、親父とお袋に感謝した。夕飯は食べてきたというので、子供たちを順番に風呂に入れ、おれは台所でカップラーメンを啜った。

 こんなときでも腹は空いた。おれが病気なわけじゃないし、精神的ストレスでものが食えなくなったことは今まで一度もなかった。でもカップラーメン一個でもう何も食べる気がしなくなった。昼飯も食い逃して腹が空いているはずなのに、不思議と食べたくなくなった。

 自分も風呂に入って、戸締りを確認して二階へ上った。芙柚は葵の体調を気にして、自分から羽留と一緒に寝ると言い出していた。たった三歳なのに、母親の不調がわかるなんてな。この子も天才なのかななんて、また親馬鹿気味に思った。子供たちがそれぞれのベッドで眠っているのを確認して、寝室に入る。葵はまだ眠っていた。

 葵と話をしたい気持ちもあったが、何をどう話したらいいかもわからなかったので、ちょっとホッとして葵の隣に横になった。芙柚が羽留と一緒に寝ると言い出したとき、じゃあおれも別の方がいいかと尋ねたら、「大丈夫だから一緒にいて」と言われたのでそうしているが、葵と離れられないおれの葵への依存度は、たぶん芙柚以上だ。


 葵と離れるなんて想像できない。たとえ、違う部屋、違うベッドで眠るだけのことだと言われても渋るのに、世界が違う、もう会えないかもしれない、なんてどうやって受け入れたらいい?


 そうして横たわったまま悶々と考えた。ハッと気づいた時には時刻は四時過ぎだったから少しは眠れたのかもしれないけれど、意識が戻ってきてしまった以上眠ることもできなくて、外へ出てきたのだ。



 足は歩きなれたいつもの散歩コースをたどっていた。


 まだ真っ暗なうちに出てきたが、段々白んできて視界がよくなってきた。

 夜から朝へ。

 明けない夜なんてない。いつだって。誰かがそれを望まなくても、朝は必ず、来る。

 星が雲に隠されて、代わりに太陽の光が薄く差し込んできた。空は色を変えていく。藍から青へ、薄く薄く。


 ひとりで歩く道に、向こうから走ってくる人がいた。こんな朝っぱらからジョギングする人もいるんだな。すれ違う時に会釈をされて、こちらも会釈を返してその背中を見送った。

 白んでいく空。

 おれはじゃりじゃりと小石を踏んで、河原まで下りた。相変わらず歩きにくい砂利道。葵を見つけた川岸。


 ここに、白い羽を背負った天使がいた。


 そこからすべては始まった。

 おれにとっての初めての恋と、戸惑いと、試練と、今に続くいろいろなすべてが、ここから。


 幸せだった、ずっと。

 恥ずかしいことも、辛いことも、傷つくことも、悲しいことも、あったけれど。

 何よりも幸せが上回った。今振り返ってみると、手元にあるのは幸せな思い出ばかりだ。今だって幸せそのものだ。


 だけど今、葵のいる時間が終わろうとしている。

 ……なぁ、葵。おれといて、幸せだっただろうか。

 おれはきみに、幸せをあげられただろうか。幸せにしてあげられたんだろうか。


 結婚式の夜に誓ったな。死ぬまでずっと一緒だって。ひとりにしないって。


 でも葵はひとりになる。ひとりで天界へ帰って、ひとりで待つことになる。またここへ戻ってこられるのか、こられないのか、わからないままひとりで待たなければいけない。

 約束は、どうやったら守れるんだろう。葵をひとりにしないためには、おれはどうしたらいい?


「……ふっ……くっ……」


 涙は昨日の午後に出尽くしたと思っていた。でもまだまだ出る。出ないわけがない、おれの体は動いているし、おれの心は悲しんでいるのだから。


 葵を失いたくない、だから送り出す。

 でもそれは一緒にいられないということだ。どうしたって別れが来てしまう。


 離れたくない。

 どうしたらいい?

 どうしようもない。


 わかっているのに、どうしても涙が出てしまう。葵と離れなければならないことを、心が認めてくれない。嫌だと全力で声を上げている。


 立っていられなくなって蹲って泣いた。

 ただ、ただ、泣きたかった。


 葵や子供たちのいる家では泣けなかったから。

 それにずっと泣いてはいられないことも、頭ではわかっていた。泣いていても仕方がなく、立ち上がって前へ進んでいかなければならないこと、しっかりしなければならないこともわかっていたのだ。


 だから、これが最後。


 泣くのは、もう最後にする。だから、今だけは。

 葵を想って泣くことを許してほしい。

 ただただ感情のままに、泣きわめくことを。


「……うっ、くっ……ああ……あおい、うぅ……」




 しばらくの間そうして泣いて、空もすっかり明るくなってからおれは立ち上がった。

 尻ポケットに入れておいた携帯電話で、電話を掛ける。


 時刻は朝六時だった。電話の相手は数コールで出た。


「……もしもし、親父? ちょっと話があるんだけど」




    *




 おれは親父とお袋に、葵から聞いた話を正直に伝えた。会って正面向いて話すのは難しく思えたから、電話口でそのまま。

 そしてその後同じように、おじいさんに電話を掛けた。

 とりあえず、みんなで集まって話をしようということになり、早速その日の夜に実家に集まった。


「それで、栄……? 本当なの? アルちゃんの話……」


 口火を切ったのはお袋だった。ずっと確かめたかったに違いない。朝電話して親父から話を伝え聞いただけだから、信じられなかったのだろう。おれと親父はいつも通りに仕事に行って、そしてさっき帰ってきたのだから。


「本当だよ。こんな話、冗談でするはずないだろう?」


 おれはため息とともに首を振った。


「でも、でもあんまり急じゃない? 確かにアルちゃんは最近体調悪いようだったけど、これまでは病気のひとつもしなかったし、それこそ風邪も引かなかった健康体なのよ? 体が弱っているにしても、そんなこと……」


 お袋がおろおろとそういうと、おじいさんがアンナさんを見て言った。


「……アンナ? お前は何かを知っているんじゃないのかい?」


 アンナさんはここへ来て以来ずっと黙っていた。険しい顔のまま俯いていた。だからおれも声を掛けられなかったのだが、おじいさんに促されてゆっくりと視線を上げた。


「……アルの体のことは」


 今までに聞いたことがないくらい、か細く、震えるような声だった。


「アルの言っている通りです。もう……長くは持ちません」


 アンナさんの泣きそうな顔を見たのはたぶん二度目だ。おじいさんが一人でロシアに行くと言っていた時。そして今。泣くのを我慢して唇をかみしめているのがわかる。


「アンナさんは、このことを知っていたのか?」


 もしかして、と思って尋ねる。葵も、アンナさんになら相談していたかもしれない。

 アンナさんは渋い顔をしたままこくりと頷いた。……ああ、やっぱり。


「アルが自分で話すと言っていたから。だから私からは言えなかったの。もうしばらく前から、限界が近いことを私たちは知っていた……」


 スカートの裾をぎゅっと掴み、今にも涙を零しそうにするアンナさんに、お袋が声を掛ける。


「あら、アンナちゃんを責めてるわけじゃないのよ。それに私たちだって、前に知ってても今知っても、大して変わらなかったんじゃないかと思うし」


 おじいさんがアンナさんの肩に手を掛け、抱き寄せた。アンナさんは静かにおじいさんに寄りかかり、目を伏せた。

 親父が神妙な顔をして言う。


「そう、だな。栄の話を聞く限りじゃ、もうおれたちにできることはない。何をしたって葵さんの体調を回復させるすべがないっていうんなら、もう後は、気持ちよく送り出してやることくらいしか」


「ああ……それで、アルちゃん、バーベキューやりましょうなんて言ったのかしら……アルちゃんが関わってきた人ばかりだったものね、あの日集まったのは」


 ほとんど家族だったけど、確かに、洋一と洋二と、先輩。あの三人は葵がここへ来て最初のうちに出会って、それからずっとなんだかんだ交流を続けてきた人たちだった。なぜ先輩を呼びたいと言ったのかわからなかったけど、そういうことだったのかもしれない。


「思い出作り、だったのか……」


 親父がぽつりと呟く。しんみりとした雰囲気が室内を満たした。


「それで、一度その天界へ帰った後は、もう戻っては来られないのか?」


 親父はおれとアンナさんを交互に見た。おれも思わずアンナさんを見てしまったが、アンナさんはハンカチで目を覆ったまま何も答えなかった。


「……葵も、わからないって言ってた。力が回復するのが、何年後になるのか、何十年後になるのか……もう二度と戻ってこられない可能性もある……というか、高いんだと思う」


「うーん、そうか……。と、いうことはやっぱりこの先はできるだけ葵さんの思い出に残るようなことをしてやりたいな。泣きたくなる気持ちはわかるが、こうなった以上、何かできることを考えないと。出かけてなかったとこに行ったりとか、あー、ダメだ、ちょうど子供たちの夏休みが終わっちまう!」


 根がポジティブな親父が、沈んだ空気をかき混ぜるように、明るく言って大げさに頭を掻いた。こういう時、親父の性格が羨ましくなる。これがダメなら次、とすぐに思考を切り替えられるところだ。悲しみに沈みたくなるのを叱咤して、必死に立ち上がる。親父だって悲しんでいて、やりきれない思いを抱えていることなど明白だ。それでも先へ進もうとするのが親父の性格なのだ。

 そこへアンナさんが静かに手を挙げた。


「アルは……あの家を出ない方がいいと思います」


 おじいさんの肩に寄りかかっていたのから身を起こし、ハンカチを口元に当てながら言う。


「今、あの家には結界が張ってあります。ただの結界ではなく、私の天使としての力を少しずつ放出するような形で張りました。つまり、天界の空気の、ちょうど必要なエネルギーを空気中から摂取するような形を疑似的に作り出しています。おそらく、それが多少は効いていて、あの子はいまもまだ踏みとどまれています。だから、あの家を出ることは、あの子の残りの時間を……あの子がここにいられる時間を縮めることになると思います」


「まぁ、そうだったのね。あら~そういうことは早く言ってくれなきゃ~。知ってたらアルちゃんのこと、買い物に連れ出したりしなかったのに~」


 確かに、早く言ってほしかった。知っていたらおれだって、葵を散歩に連れ出そうと思わなかったし、毎日の買い物とか用事とか、おれが代わりに行ったのに。


「……それも、アルは気を遣われたくなかったんだと思います。本当に動けなくなるまでは、みんなとあちこちに行きたかったんだと思います。ダメなときはダメだと言う子ですから」


「その、結界っていうのはよ」


 今度は親父が手を挙げて、アンナさんに質問した。


「結界の中に居続ければ葵さんはずっとここにいられるってもんでもないのか? 今はなんとかなってるんだろう?」


 アンナさんは首を振った。


「それは、無理です。そうできたらよかったんですが、私の力ではなんとも。今うまくいっているのが運のいい状態で、本当はアルの力になるのかどうかもわからずに始めたことですから……」


「一時しのぎにしかならない、ということだね?」


 アンナさんの言葉をおじいさんが繋ぎ、アンナさんは頷いた。

 ……一時しのぎ。じゃあやっぱり葵がここからいなくなるというのは、どうやったって確定事項なんだな?


「どうしても、逃れられないってこと、だよな……」


 おれは、誰に問うでもなく呟いた。


「葵がいなくなってしまうことを前提に、話を進めなきゃならないってこと、だよな」


 視線を上げたら、みんながおれのことを見ていた。たぶん、みんな思っていたのは同じことだった。表情がみんな同じだった。


 やりきれなさを抱えて、先を見なければならない。

 葵がいなくなった先のことを、思い描かなければならない。


「悲しいことだけど……そうなのね」


「じゃあ……これからどうする? 葵さんには思い出をたくさん作ってあげたいが、あんまり変な行動をすると、子供たちが……って、栄、子供たちにはどうするんだ? 伝えるのか、このこと」


 親父の言葉に、おれはすぐ首を振った。伝えるつもりは、なかった。


「子供たちは、葵が天使だってことすら知らないんだ。今からそれを話しても、受け止められるほど成長できてはいないと思うし、きっと混乱する。だから……」


 おれは一度言葉を切った。そして、朝からずっと考え続けていたことを口に出した。



「子供たちには、葵は死んだことにして別れようと思う。それに、協力してほしいんだ」





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