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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第一章
12/128

10 小さな告白とおやすみのキス

 

 縁側に戻るとアルは体を丸めて何かをしていた。髪の毛を風で乾かそうとしているのか、束を持ち上げては手で仰いでいる様だ。唇を尖らせて全然乾かないと悩んでいて、その仕草と表情が可愛いすぎておれは吹き出してしまう。


「……っぷぷ、何してるの、アル」


「え、だって、早く乾かないかなって……」


「そんなんじゃいつまでたっても乾かないって、ほら、これ使うんだよ、ドライヤー」


 手で仰ぐなら自然乾燥と同じだと思う。おれみたいな短い髪は放っておいてもどうにでもなるが、アルの肩辺りまで伸びた髪は、なかなか乾きにくそうだ。

 おれは客間の隅のコンセントにコードを挿し、アルにドライヤーを渡した。


「スイッチは、ここ」


 教えながらカチッとスイッチを動かすと、ごーという音と共に温風が吹き出した。


「うわわっ、何これ!」


 アルは顔面に風を食らって顔を逸らした。そして風を吹き出し続けるドライヤーをできるだけ顔から離しておろおろし、助けを求める目線とともにおれに返してきた。

 おれはうるさく唸るドライヤーのスイッチを一旦切って、アルの様子を伺った。文明の利器とも呼べるものはさっきから目にしているしそんなにびっくりするほどのものではないはずだ。居間のテレビには驚いていなかったし、風呂ではシャワーも使えたはずだ。


「な、何で熱い風が出てくるの? 風だよ? 今暑くないのに何で?」


「いや、だってそういうものだから。熱い風で髪を早く乾かす道具なんだよ。……そんなに驚くこと?」


 ドライヤーをどう説明したものかと思ったが、おれはできるだけ簡単に用途のみを説明した。アルは当たり前な顔をしたおれを覗き込み、不満げに口を尖らせた。


「……だって……、シャワーは滝と同じでしょ? 温かいお湯がでたのはびっくりしたけど。……あ、それと同じこと? 温かい風をわざわざ出しているの?」


「あ、ああ、そういうことだな。ほら、分かったなら使ってみて。便利だから。あっという間に乾くぞ」


 シャワーと同じように、人間の生活に便利に作られた道具だと、アルが自分で納得してくれたので、おれは便乗してそれでいいことにした。ドライヤーがどうやって熱風を出しているのか、電熱線? などの仕組みを説明できる自信はない。


 再びアルにドライヤーを手渡そうとしたら、アルはちょっと体を引いていやいやと首を振った。ん? 今度は何だ?


「……アル? どうした?」


「わたし……使えない、それ。だって重くって、腕が持っていかれちゃうんだもの」


 そういえばさっき、顔から離して持っていたのは怖がっているのかと思ったが、風圧に腕が耐えられなかったのか。どれだけ筋力がないんだと思ったが、人の体と天使の体は違うんだろう、労働なんかも。見るからに筋肉のなさそうな細い腕を見て、おれはドライヤーのスイッチを入れた。


「……じゃあ、おれが持ってるから、こっち来て」


 おれは胡座をかいた自分の前のスペースをぽんと叩いた。アルが持てないならおれが持つしかない。おれが風を当てて、後はアルが自分で髪をいじればすぐに乾くだろう。

 ごうごうと唸るドライヤーの音を気にしながら、アルはおれの前にちょこんと座った。さっき教えた横座りをちゃんと覚えていて、今回も清楚に座っている。


「……風、当てるよ?」


 ひと言断ってからドライヤーの風をアルの頭に向けた。アルはおれがなんと言ったのか聞こえなかったようで、首を回しておれを見た。


「なにー? 何て言ったのー?」


「か・ぜ! 風当てるよって言ったの。今更だけど!」


 ふたりで大きな声を出しているが、やはり聞き取りづらい。アルは結局おれの言ったことが分からなかったのだろう、不満そうな顔をして首を傾げながら前に向き直った。口を尖らせたその顔は、またおれの笑いのつぼを刺激した。


 笑いながらアルの髪に風を当てていく。風に乗ってふわふわと浮く髪の毛は、たとえが悪いがトイプードルようで可愛らしい。右手に持っているから、右側はよく乾いてきた。けれども体勢的に左側に風が当てにくいし、髪の中心、根元まで風が入っていかないようだ。


「アルー? ちょっと髪持ち上げてくれるか?」


 おれはアルに声を掛けたのだけれど、アルはまっすぐ前を見たまま「なにー? 何か言った?」と言っただけだった。多分おれが風を当てているから、邪魔にならないよう動かずにいるのだろう。

 一度スイッチを切って、アルにどうしてほしいか伝えればいい。方法なんていくらでもある。しかしおれは、おれの指は、吸い寄せられるように彼女の髪に触れていた。


 アルの細く滑らかな髪を持ち上げ、下から風を送る。強い風に煽られて乱れていくが、重力に従って落ちてきた髪はすっと元通りの位置に戻っていく。ふわふわとうねる、柔らかな髪。


 冷静に考えたら、アルの髪に触れるのは初めてじゃない。最初に風呂に入れたときも触ったし、眠っているときにも触れた。ただ、こんな風に意識のある彼女の髪に積極的に触れるのは初めてで、緊張で指が震える。それなのに、触りたかった。触れたい、という衝動に逆らわずに。

 おれが髪を触っていても、アルは何も言わなかった。何も言わないのを了承の印と受け取って、おれは無言で触り続ける。


 小さな頭、細く柔らかい茶色の髪。髪は髪でもおれのように剛直な固いものではなく、どこまでも滑らかでずっと触っていたくなる手触り。下の方の髪を持ち上げたら、パジャマの襟元から白いうなじがちらりと見えた。思わずごくりと生唾を飲む。同じシャンプーを使っているはずなのに、立ち上がってくるのはまるで違った甘い香り。


「……アル」


 聞こえないようにそっと小声で呼びかけた。


 振り向いて欲しいからじゃなく、ただ、名前を呼びたくて。


 思ったとおり、おれの声は大きなドライヤーの音にかき消されて、アルには聞こえなかったようだ。アルはじっと、おれが髪を乾かし終わるのを待っている。もうほとんど乾いているというのに、おれはドライヤーのスイッチを切ることができなくて、この絶妙な距離感を崩したくなくて、しばらくアルの髪に触れ続けていた。


 ―可愛くて、時々子供みたいで、純粋で、そして美しい。いろんな表情を、もっと、見たい。


「……好きだ」


 零れ落ちるように想いが口をついて出て、おれはハッとアルを見たが、やはり彼女の耳には届かなかったようだ。反応のないアルの背中を見つめながら、よかったような情けないような、微妙な気持ちだった。


「……サカエ?」


 アルが少しだけ首を動かしておれの方を向いた。まさかさっきの呟きが聞こえていたのだろうか、とびくりとしてアルの表情を伺う。


「……な、何だ?」


 ドキドキしながら尋ねた。


「ううん、まだ、かな? と思って……」


 アルはただ、ずっと座っているのに飽きたらしい。そわそわしている彼女を見て、おれはほっと息を吐いてドライヤーを止めた。長い時間触っていたというのに、名残惜しくて放したくない。しかしそうも言ってられない。


「ん、ああ。もういいよ、ほら、乾いただろう?」


 もっともらしくそう言ってアルの頭をぽん、と叩くと彼女は嬉しそうに髪を撫でた。


「わぁ、本当だ、すごいのね、ドライヤー。サカエ、ありがとう!」


 ふわふわに乾いた髪を触って無邪気に笑う彼女におれは目を細めた。おれの下心に一切気づかない純真さがちょっと痛かったが、お袋の言葉を思い出して気にしないことにした。……まだまだ、これから、なのだ。




 すっかり乾いて軽くなった髪を風になびかせるようにはしゃいでいたアルは、傍らに置きっぱなしになっていたポカリの缶を見てからおれの方を見た。


「……サカエ、これ飲んでもいい?」


 それは先ほどアルが半分ほど飲んで残しておいたものだ。もちろんアルにあげたものだから飲んでしまっていい。おれのものはとっくになくなっているのだし。


「ああ、もちろんだ。それはアルにあげたものだから」


 そういうと、アルはにこっと笑って缶を手にとった。小さな手では持ち辛いようで、両手で挟むようにして傾ける。その姿も愛らしい。喉が渇いたのだろう、こくこくと数口飲んでから「ぷは」と口を離した。そして不思議そうに首を傾げて缶をしげしげと眺めている。……何だろう、何か気になることが?


「どうした、アル? あ、また漢字のことか?」


「ううん、文字のことじゃなくて……なんか、この甘いお水、前にも飲んだこと、あるかなって思って……」


 その言葉に血の気が引く思いがした。頭の先から血液がさーっと下がっていく冷たさを味わうのは人生で二度目だ。


 おれはアルの味覚が敏感すぎることに絶叫したくなった。確かにポカリは飲んだことがある。正確にいえば、『飲ませたこと』が、あるのだ。

 アルが首を傾げている様子を見ながらおれはまた、あの夜のことを思い出してしまった。あの、キスを。……少し尖らせた唇が、今桃色に艶めいている……。


 ―おれが口付けたのは、この小さな唇か


 ……じゃ、ないだろう!!!

 

 内心の葛藤は、ただの無表情ともいえるポーカーフェイスでアルには見えていないはずだ。なんとかしなければ、何とか。


「い、いや、ないんじゃ……ないかな? 気のせいだよ、アル」


 後から考えてみれば、『眠っているときに水分補給で飲ませたから』と、その“具体的方法”さえ言わなければ事実を伝えられた。しかしその時のおれは何とか誤魔化すことしか考えられなかった。


「うーん、そうかな、そうだよね。地上の飲み物なんて飲んだことあるはずないよね」


「そ、そうだよ。うん。……あ、そうだ、そろそろ寝るよな、歯磨きしよう、歯磨き」


 アルが誤魔化されてくれたため、それ以上この話題を続けることは危険だと、おれは歯磨きを提案した。思ったとおりアルは初めての歯磨きに興味を示し、ポカリの味のことはすっかりどうでもよくなったようだった。

 

 洗面所でふたり並んで歯磨きをして(アルは“歯を磨く”という発想自体に驚いていた。それもそうだろう、食べ物を食べないなら歯も磨かずに済む。と言うよりそれでは歯は必要ないんじゃ? と思ったが、おれは黙っていた)、さて寝るか、となった。


 ……難は去った、とおれは盛大なため息とともにほっとした。しかし、この夜は更なる受難が待ち受けていた。



 客間に戻り座椅子を脇に避け、敷きっぱなしになっている布団を整え、おれは縁側の窓を閉めに行った。

 アルがここで寝ている以上、きっちり窓を閉めておかないと不安でおれが眠れない。本格的に暑くなってきたら冷房をつけようか、いやいやつけてあげたいけどちょっと値段が高過ぎるか、それなら扇風機で……と考えていたら、アルがとことことおれの隣にやってきた。


「サカエ……明日も仕事?」


「ん? ああ明日は土曜だから……仕事だけど半日で終わる。昼過ぎには帰って来るよ」


「わぁ、そうなんだ、じゃあ帰ってきたらまたいろいろ教えてね?」


「ああ、わかった。……ほら、布団入って、電気消すから」


 おれが早く帰ってくることを喜んでいるアルが本当に微笑ましい。本当は仕事に行きたくない気持ちもあるが、社会人としてはそうもいかない。アルが待っていてくれることを励みにして、明日の半日を乗り切ろうと思った。

 なかなか寝ようとしないアルを促して客間に入る。アルが布団に入ったら電気を消そうと照明の紐を握って待つが、アルは何かを考えているようで、横になってくれない。


「アル? 何考えてるんだ?」


 布団の上に座って何かを思い出そうとしているようだ。寝る間際にまで忙しいな、と苦笑しつつおれはアルの横にしゃがんだ。


「……アル? 考え事は明日でもいいだろう? 今日はもう寝て……」


「あっ! 思い出した、確かこう……」


 ……ちゅ。


 

 一瞬、何が起きたのか分からなかった。


 アルは「思い出した」と言ってすっきりした表情でおれを見ると、すぐに両腕をおれの首に回してきた。そしてあまりに素早い動作についていけていないおれの頬に、唇を押し付けてきたのだ。


 『ちゅっ』と小さく音を鳴らして離れた唇。その柔らかさと音におれの頭は真っ白になった。


「……な、なに……?」


 目を大きく見開いて何が起きたのかとアルを見ると、彼女はにこにこ満面の笑みでおれにこう言った。


「前にね、地上の様子を覗き見したときに、見たの。寝る前にこうするんでしょ?」


 褒めて褒めて、と言わんばかりのその笑顔に、『それは欧米の風習です!』とも言えず、おれは真っ赤になった顔を隠そうと、さっと立ち上がり電気を消した。


「あ、ああ、そうだな! ……じゃ、じゃあまた明日! おやすみ!」


 いきなり真っ暗になった部屋に、アルは不満だったようだ。その声から口を尖らせている表情が浮かんだ。


「……変なサカエ。……おやすみなさい」


 それでももぞもぞと布団ももぐりこんだ音が聞こえ、おれはほっとため息をついてもう一度言った。


「……おやすみ」


 すっと障子を閉めて、深呼吸をした。



 それから忍者のような足運びで音を立てず、しかし猛烈な勢いで二階に上がり自室を目指した。部屋のドアをパタンと閉め、止めていた息を吐き出す。


「はぁ~~~~」


 そのままずるずるとドアに凭れ掛かるように下がっていく。床に尻がついて、体を丸めた。


「……っつもう、誰だよ、アルに変なこと教えたのは!!」


 不可抗力だと分かっている。でも自分の心臓に与えられた衝撃は大きい。いつもは聞こえない脈動が、どくどくと派手に鳴り響き、脳を揺さぶっている。風呂上りのときよりも火照った顔を手で仰ぐ。絶対に真っ赤になっているだろう、すごく熱い。特に触れられた左の頬が。


 『ちゅ』と耳元に響いた小さな音が、何度も何度も頭の中で再生され、鼓動が跳ねる。


「ああっ、おれ、どうしたらっ……!」


 どうにも苦しくて短い髪をワシワシとかきむしり、両手を握った。じたばたしたくて仕方がない。もてあました熱と湧き上がってくるような力が、体の中で暴れている。


 ―ああ、二階に来ないで外へ出て思いっきり走ってくるんだった……。


 唇にキスまでしているというのに、彼女から与えられた小さな温もりと柔らかい感触がどうにも心をかき乱し、その晩おれは再び眠れない夜になることを覚悟した。


 電気もつけずにうずくまった暗い部屋の外、窓から覗き込むように光る月と星星が、情けないおれをキラキラ笑っているかのようだった。



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