49 指輪
最近季節が過ぎていくのがとても早いように感じる。年を取ると早いって聞くけど、やっぱりおれも年とってきたんだな。えっと、今年は……うーん、三十八か。もうすぐ四十になるのか、おれも。
「兄貴~それ取ってくれっす~。あ、でもやっぱいいっす、投げないで、兄貴!」
洋二が取れというので、近くにあった金づちを手に取った。でも投げようとしたのを察知した洋二が、瞬時に取り消してきた。……最初から頼むなよ。
「洋二、お前いくつになった?」
気になって尋ねてみると、洋二は一度首を傾げて、指を折って数えだした。おいおい。
「えーっと……今年……あれ、何歳、おれ?」
「お前おれたちの四つ下だったろ。……聞くまでもなかったな、三十四だ。なんで自分の年齢知らないんだよ」
よくよく思い出してみればそう、四つ下だった。おれがチョップをかまそうとすると、洋二はさっと逃げた。昔から逃げるのは得意な奴だ。
「あ~三十過ぎたあたりから興味なくなったっす。誰かがお祝いしてくれるわけでもないし……」
「だってお前奥さんは? 誕生日くらい祝ってくれるもんじゃないのか?」
驚くべきことに、洋二は二十八の時に結婚していた。お相手は中学校時代の同級生とのことで、おれも結婚式には出席した。雰囲気的には嫁さんに捕まった、って感じだった。どう見てもあっちの方が洋二にべたぼれだった。
「奥さんは子供に夢中っす。おれの誕生日なんて忘れてるっすよ、結婚記念日だってガン無視だし」
「あ~女のひとの方がそういうの忘れるって聞いたこともあるな。子供何歳だっけ、三歳と一歳?」
「そうっす。手がかかるのはわかるんすけどね~ちょっとはおれにもかまってほしいっていうか」
洋二は頬を膨らませて言った。ちょっと三十四で二児の父親とは思えない態度と言動ではあるが、そこは仕方がない。洋二だから。
「かまってほしいなら自分からちゃんと言うしかないだろうな。夫婦なら分かり合えるとはいっても、限度がある」
先に結婚したという先輩風を吹かせ、もっともらしいことを言ってみる。すると洋二はジト目で切り返してきた。
「兄貴んとこはちゃんとお祝いしてもらってるっすか? 葵さん、ケーキとか焼いてくれんすよね。ハルが前に言ってたっす」
「うちは……そうだな」
基本的には子供たちの誕生日はケーキを焼いてお祝いしている。ただ、家族の人数が多いので、誕生日が毎回盛大だと家計を圧迫するため、ちょっと豪華目な普通の食卓プラスケーキといった感じだ。
誕生日の内訳はこうだ。羽留が一月、その次はおれが五月、葵が七月、奈津と亜希も七月。そして芙柚が十二月だ。
葵と双子の誕生日は同じ七月なので合同とし、羽留と芙柚の誕生日も近いので、最近は一緒にお祝いしてしまっている(ときにクリスマスすら合同になる)。こうなると、おれの誕生日がぽつりと浮いてしまって、かといって一人だけひとりお祝いされるのもどうかなと思うので、特に何も言わずに過ごすことにしている。おれも三十後半になって、誕生日だ~なんて浮かれている歳でもないし、祝われなくてもなんてことない。子供たちももしかしたら、お互いの誕生日は覚えていても、おれの誕生日は忘れているかもしれない。でもそれでもいい。ケーキも何もないが、葵だけは毎年、プレゼントを用意してくれるのだ。それは帽子だったり、シャツだったりいろいろだが、葵がはにかみながら渡してくれるその瞬間が一番のプレゼントだと思っている。そして結婚記念日に関しては、おれの方から毎年花を渡すことにしている。たぶん葵は、結婚記念日を花をもらう日だと思い込んでいると思う。
そんなことをかいつまんで話すと、洋二は首を振って溜息をついた。
「はぁ~……兄貴なのに、兄貴なのに~。おれより恋愛音痴だったはずの兄貴なのに~! ちゃんと葵さんに誕生日お祝いしてもらってる~! なんで!?」
言われた瞬間に、ごん、と拳骨を落とした。
「いってぇ~!」
涙目で洋二が走り出すのを溜息とともに見送って、作業に戻った。
おれだって知らないよ、ただ葵が優しくて気を遣ってくれるから、おれも注意しておこうと思うだけだ。葵の誕生日(ということにしている葵を最初に見つけた日)には、毎年悩むけどちゃんとプレゼントを送っているし、洋二も自分から行動してみたら変わってくるんじゃないだろうか。
材木を所定の位置に運びながら、ふっと視線を上げたら、視線の先で桜の木が葉桜に変わって緑の葉を茂らせていた。桜が散るのは早いな、この間咲いて職人みんなでちょっとした花見をしたのに、もう葉桜か。
ああ、今年はそんなだったから、葵と桜を見に行きそびったな。毎年川沿いの桜並木を散歩してたのに。葉桜じゃつまんないか? それとも散ったばかりならまだ咲いているのもあるかもな。明日土曜日だから、午後に散歩に誘ってみるかな、うん、そうしよう。
考えがまとまったところで作業を再開した。遠くで親父が洋二を怒鳴っている声が聞こえた。あーあ、また何をやったんだか。
平和な午後が過ぎていった。
*
葵を散歩に誘ったら嬉しそうに頷いてくれたので、芙柚の面倒は羽留に任せて二人で家を出てきた。
芙柚はもう三歳、だいぶ大きくなって手がかからなくなってきたし、芙柚なんてもう中二だ。奈津と亜希も小学校四年生、みんな自分の面倒は自分で見られるし、留守番だってできるようになった。数時間くらいなら葵と二人で家を空けられるようになって、こうしてたまに散歩にでたり買い物に行ったりするのだが、今回桜が満開の時に来られなかったのは痛い失敗だったな。
「やっぱりかなり散っちゃってる。今年は咲いてから散るまでが早かったな」
「雨も降ったしね。でも少し残ってるよ、ほら」
「本当だ。よかったな」
「うん」
のんびり歩きながら、他愛のない話をする。いつもよく来る散歩コースなので、特に目新しいものはない。桜並木を眺めては、あっちの木は大きいのにこっちの木は今にも倒れそうなくらい細いね、なんでかな、とか、土手の向こうの方を見ながらあの鳥は何だろう、とか、川の水が増えてるね、とか。
空は青く晴れていて、ぽつぽつと浮かんだ白い雲がゆったりと流れていく。その青空を見ながらふと、空港で見た葵の横顔を思い出した。物悲しい表情がなんだか引っかかった、あの時。もう二年以上も前の話だった。
「そういえばさ、葵」
「なに?」
「アンナさんとおじいさんをさ、空港に送った時のこと、覚えてるか? あの時さ、葵、空を見てたよな。きれいだって」
「空港? ……ああ、空港ね、うん」
葵は一瞬考える表情を浮かべた後で、思い出したように頷いた。
「葵はあの時……何を思っていたんだ?」
悲しそうな顔をしていた。少なくともおれにはそう見えた。だからなんだか引っかかって、二年経った今でも覚えているのだ。
葵はおれの顔を見た。なぜそんなことを聞くのかと問うような目だった。でもすぐに口元に笑みを浮かべ、視線を落とした。
「青い空がね、好きなの。あの時はなんだか、いつもより空が青く見えて、抜けるようで、ああいいなぁってそう思っていたのよ」
「じゃあ今も、今日の空もいいなぁって思うのか?」
田んぼの上にぽっかりと開けた空は、遮るものもなくただ真っ青に広がっている。
「そうだね、いつもいいなぁって思ってるよ」
にこっと笑った顔は、笑っていないように見えた。さっきもそうだったけど、本心から笑っている顔じゃない気がした。
いつのまに葵は、そういう顔を覚えたのだろう。出会ったばかりの頃は、葵は自分の感情をそのまま素直に表情に出していたのに。
「……そっか。あー、そういえば」
ふと脳裏に蘇ったもっと昔の記憶。あの時と同じ場所に来たからかもしれない。あの話をしたのは、ちょうどこの先の河原だ。
「天界の空は灰色だって、葵言ってたな」
すると葵は驚いた顔をしておれを見上げてきた。
「栄、覚えてたの?」
「いや、今思い出した。あー、だからか? 青い空が好きなのって」
納得がいってひとりうんうん頷いていると、葵がふっと笑って口を開いた。
「……うん、そうなの。天界の空はいつも灰色で変わらなくて。つまんないの」
苦笑いで呟いた葵は、また視線を上げて空を見つめた。その横顔に、忘れていた十年以上も前の記憶が蘇ってくる。
一番最初に葵とここへ来たとき。それは谷中先輩に葵を連れ去られて、救出してきた後だった。おれは全然自分に自信がなくて、葵に選んでもらえる自信もないのに、葵を手放そうとしていた。こんなおれが好きになっちゃってごめんとか、わけわからないことばかり考えて、自分を卑下して。
若気の至りというか、思い出したくない類の、過去の嫌な自分。とはいっても、もはや懐かしい話である。今となってはただ当時の自分を情けなく思うだけだ。
そんなことをつらつらと考えていたら、葵が立ち止まって、何かを呟いた。
「……だな」
「え? 何?」
おれもすぐに止まって振り向いたけど、あまりに小さな声だったので聞き取れなかった。ちょうどふわっと風が吹いてきて、耳をふさいだのもあった。
吹き抜ける風が落ち着くのを待つ間、葵はおれの目をじっと見つめてきた。見慣れた緑がかった茶色の目が、何か言いたげでどきっとした。
「……嫌だなって言ったの。天界に戻るのは」
「…………え?」
何を言っているのかがわからなくて、返答が遅れた。
葵は今、なんと言った? 天界に戻るのは、嫌だな?
「あ、葵? ど、ど、どういうことだ? 天界に戻るって……」
葵は唇を噛むようにして押し黙った。
また一陣の風が吹いてきて、葵から声を奪った。おれの耳から音を奪った。ただ風が吹き抜ける音だけが擦れるように抜けていく。おれはただひたすら葵を見つめ、風が止むのを待った。
冷や汗が背中に浮いてきたのがわかった。心臓の鼓動がやけにうるさい。……おれの聞き間違いでなかったら、おれの考え違いでないなら。今の言葉は。
風が通り過ぎる間閉じられていた葵の目が、ゆっくりと開かれた。気づいたらうるさかった風はいつの間にか止んでいた。
葵はふっと笑って言った。
「……いつかよ、いつかの話。私だっていつか死んだら天界に戻るんだなって思っただけ」
肩をすくめたその仕草は、冗談だよって言っているようだった。葵はまた歩き出した。午後の太陽に向かって。
おれは慌てて追いかけた。
「死んだらって、葵も……そうだよな、天使だからって不死じゃないんだろうな。だよな」
追いついたおれを横目で見上げてきた葵は、そうだよというように笑った。
「でもいつかってずっと先のことだよな、おれより先に死んだりしないよな」
なんだか急に不安になって、葵の左手を握った。
おれより先に死なないで、なんて、わがままな言い分なのはわかっているけど。
葵は天使だからずっとこのままなんだって、老けないまま衰えないまま、ずっと一緒にいるものだって、なんとなく思っていたから。葵の口から「死ぬ」なんて言葉が出てきて、すごく驚いた。その可能性を全く考えていなかった。
一拍置いて、葵はその瞳に空の青を映して言った。
「……死ぬまで、一緒だよ。死んでからだって、ずっと一緒。……約束したでしょ?」
気が付いたら葵の手を握るのも久しぶりだった。触れた左手の薬指に当たり前にはまった結婚指輪。そうだ、この指輪を渡すときに、お互い誓い合った。ずっと傍にいる、と。
「ああ」
握り返してきてくれた葵の指を、しっかりと絡めとって繋ぎなおす。葵がにっこり笑顔になった。それは陰りのない笑みで、おれもほっとして笑った。
それから道の続くまま、ぶらぶらと歩いていたが、傾いてきた太陽が葵の頬を照らすのに気づいて、そろそろ帰ろうか、と言った。葵もうん、と頷いて、帰路についた。
繋いだ手は離さなかった。これからは時々、こうして手を繋いで散歩しようと思った。
家の前までそのままで、玄関に入るときに手を離した。そのとき葵の指からするりと指輪が抜け、落ちてしまった。
「あっ」
コロコロと転がる指輪を捕まえて、葵の指に戻した。
「あれ、ちょっと緩くなったか?」
前はぴったりはまっていたのに。指輪のサイズは変わるわけもないんだから、変わったとすればそれは葵の指。
「ちょっとね、でも大丈夫よ。普段は外れたりしないから」
それを証明するように、左手を振って見せる葵。確かに、指輪は抜けなかったが。
おれが黙っているうちに、葵は玄関の扉を開けて、中へ入っていってしまう。
「ただいまー」
即座に帰ってくる子供たちの声。
「「「おかえりなさーい」」」
みんな仲良くしていたようだ。どたどたと足音を立ててこちらへ向かってくる。
それを聞きながら、おれは玄関の中に入れず、立ち尽くしていた。
……なぁ、葵。この言いようのない不安感は何だ?
指が痩せるっていうのは、そう簡単なことじゃないんじゃないか?
そう思ってみれば、どこか一回り小さくなった気がする、葵の体。
……気のせいか? 気のせいなのか?
「お父さーん? どうしたのー?」
羽留の声にハッとなって、おれも家に入った。
「ああ、ただいま」
何も変わらない、いつもと同じ家族がいた。仲良しで、笑顔があふれる家族が。
……なぁ、葵。おれが心配しすぎているだけか?
いつかっていうのは、本当にいつかなんだよな。遠い先の話なんだよな。そうだよな、葵……?
聞きたくて聞けないセリフは、おれの心の中でぐるぐると回った。子供たちと一緒に楽しそうに笑う葵に、問いかけることはできなかった。