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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第二章
111/128

43 たったひとりの友達



 おじいさんとアンナさんはその後、二か月ほど経ってからロシアに旅立った。

 アンナさんの退職にあたって少し揉めたらしく(あまりに急な話だったので後任がおらず、留任を求められたらしい。仕方ない話だが)、しばらくの間アンナさんは相当イライラしていたけれど、旅立ちのその日にはすっきりした顔をして挨拶に来た。

 おれはアンナさんとおじいさんを空港まで車で送り、もちろんくっついてきた子供たちと葵とともに、ゲートの向こうへ消えていく二人の背中を見送った。

 寄り添って歩くその姿は、誰が見ても仲の良いおじいちゃんと孫の姿だった。


「アンナさんとラフじいちゃん、いつ帰ってくるのー?」


 見送ったばかりだというのにそう尋ねてくる亜希に、羽留が苦笑しながら言う。

 

「半年から一年って言ってたけど……そのうち帰ってくるよ」


「おみやげ楽しみだな~。ロシアって何がゆうめいなの?」


 無邪気な奈津の問いかけに、おれも苦笑して返す。


「うーん、マトリョーシカとかか? お父さんもよく知らないから、今度図書館へ行って調べようか」


「うん!」


 初めて来た空港に興奮気味の子供たちの傍で、芙柚を抱いた葵は飛行機の飛び去って行く空をどこか遠い目で見つめていた。


「葵? どうかしたか?」


 車で二時間以上のドライブだったので疲れたのかと尋ねてみると、葵はなんでもないように首を振った。


「ううん、空が、きれいだなと思って」


 快晴で抜けるような青空は確かにきれいだったが。

 空を見上げるその瞳が、なんだか悲しげに見える気がして。


 青い空なんてもう何度も見てきているのに。今更特別な景色でもなんでもないのに。

 なんだか妙に引っかかったけれども、もう一度問いかけることもできなかった。


「お父さん、お腹空いたよ」


 不意に羽留がお腹を押さえて訴えてきた。それを聞いた双子のお腹も同時に鳴った。


「帰りにどこか寄ってご飯食べよう、栄」


 ほほ笑んでおれを振り返った葵の表情に、もう陰りはなかった。


「ああ、そうだな」


 言いながらも少しぼんやりしてしまっていたら、動かないおれの両手を奈津と亜希にがっしりつかまれた。


「おとうさーん、早く!」


「わかったから!」


 双子に両手を引っ張られて、引きずられるように移動していく。

 きゃあきゃあ笑いながらみんなで歩いていく間に、葵も楽しそうに笑い出したから、さっきまでの引っかかりは気のせいだったのだと思うことにした。

 そうだよ、本当にただ、青い空がきれいに見えただけ……。そうだよな? 葵……。



   *




 漆黒の空間に舞う無数の白い花びら。

 実体も質量も持たないままに、ただ舞い散るそのものの正体は、眠る人々の意識の欠片。生まれては消え、消えた傍からまた出現する。


 世界と世界の狭間にある、この空間に入れる人間がいるのかどうか。そんなことを私は知らないけれど、どちらだってかまわない。天使や神にとっては、一枚のドアをくぐって廊下を歩いてくるのと大差ない行為であり、自分にとってそれが可能かだけがわかっていれば十分なのだから。


「アル」


 音も匂いもない空間に、聞き知った声が響いて自分を呼んだ。そして姿が現れる。漆黒の闇にも艶めく濃紺の髪。


「アーレリー。……いよいよ明日ね、準備はできたの?」


 足を動かさなくても一気に近づいた距離で見えたアーレリーの表情は、どこか疲れていたが、嬉しそうでもあった。


「ええ、なんとかね。おじいさまが結局急いて航空券を買ってしまったものだから、家の片付けが終わっていないのだけれど……。別に大丈夫っておばさまが言ってくれてるから、家のものは好きに使ってくださいってお願いしてきちゃった。私たちの旅行の荷物は、特に服くらいしか必要ないしね」


「ふふ、いいわね、飛行機に乗って旅行に行くなんて……」


 テレビで見た飛行機の姿を思い浮かべて言う。あんなに大きな機械が、空に浮くなんて。あの中に何百人もの人が乗って移動していくなんて。


「ええ、本当に。人間になった気分よ。最近はずっとそうね」


 以前よりもずっと豊かになった表情で、アーレリーは言う。天界にいたころは笑うことなどなかったけれど、今となってはあの頃のアーレリーがどんな顔だったかを思い出す方が難しい。すっかり人間の世界に溶け込んで、いろんな感情を覚えたアーレリーは、戸惑いながらも自分の中から生まれる感情を楽しんでいるようだ。


「でも寂しいな、アーレリーがいなくなったら……私、友達っていうのがいないから」


 栄も子供たちも、お父さんもお母さんもいるけれど、私には友達はいない。アーレリーが唯一の友達と呼べる存在だった。


「そうねぇ、それは仕方のないことだとは思うわ。私にだって同僚はいるけど、友達だとは思ってないもの。向こうだって同じでしょうけど」


 仕方のないこと、私もそう思う。一歩踏み込むことができない、いつも。

 商店街にいって買い物をしながら、年が近いお店の人や買い物している人に声を掛けてもらって話すことはあるけれど、その後お家に行って話すとか喫茶店に行くとかそういう風になったことはない。何を話したらいいかわからないのだ。何が話していいことで、何が話してはいけないことなのかわからない。普通の人間は友達同士で何を話すのか、それがわからない。

 みんな口を開くと子供がやんちゃで大変だとか、夫が手伝ってくれなくてとか両親が、とか文句のようなことばかりを言うけれど、私は子供たちにも栄にもお父さんお母さんにも困ったことはないし、文句もない。だから「そうなんですね」って返すばかりで自分には似たような話がないから、それで会話が終わってしまうのだ。きっとみんな私と話すのは楽しくないんだと思う。笑顔で声はかけてくれるけど、たくさん話したことは今までないから。


「でもあなたには優しい旦那さんも可愛い子供たちもいるんだから、寂しいことなんてないでしょう。別に何も変わらないわ。私とだってこうして夢の中で会えるのだし」


 アーレリーはにっこり笑って肩をすくめた。今私たちが言葉を交わしている空間そのものも、そこにいるという事実も、人間にとっての常識とかけ離れていることをお互い理解した上で、便利に使おうとしているからだ。人間のように友達が欲しいと言いながら、人間とは違ったことをする。矛盾ってこういうことだよね、と思いながら、私も笑って頷いた。


「アーレリーも何か困ったことがあったら呼んでね? お手紙書くよりこっちの方が早いでしょう」


「そうね、ふふ」


 私たちは秘密を隠すように目を合わせて笑った。上下も左右もつかめない、ただ真っ黒な空間なのだけれど、こんな風に手軽に会うことができるのだから悪くない。視界を常に彷徨う白いひらひらも、春に舞い散る桜の花びらのようできれいだ。


「……あら……?」


 ふと、アーレリーが視線をあげ、後ろを振り返った。

 どこまでも続く黒い空間の中から、溶け出すように現れた人影。


「あれは」


 ひょこひょこと歩いてくる小さな背丈。歩くたびに揺れる白い髭。ふわふわの白髪。


「……アーレリー、知ってたの?」


 あなたが呼んだの、と尋ねようとして、アーレリーの横顔に驚いた様子が伺えたので聞くのをやめた。

 きっと雲じいはどこかで見ていたのかもしれない、私たちがこうして会っているのを。


「やぁ……いい夜じゃね、お嬢さん方」


 近づいてきた小さな老人が、片手をあげてそう言った。


「ここはいつでも真っ暗ですよ、雲じい。天界にも夜はないですし」


 気を利かせたはずのセリフを真っ向から否定したアーレリーと、口には出さなかったが私も同じ気持ちであった。


「いやまぁ……そうじゃがな。挨拶というものがあるじゃろうが、風流というものを最近わしも学んでな」


 もごもごと言い訳のようなものをつぶやく雲じいに対し、もやもやした感情がこみ上げてきた。怒りか落胆か、それともなんなのだろう。わかったことはただ一つだった。……会いたくない。

 突然現れるなんて、勝手すぎる。自然と眉が寄って、私は踵を返していた。


「私、戻るね」


 一言言いおいて、消えようとした。しかし雲じいの切羽詰まったような声が背中にかかった。


「アルシェネ!」


 あまりに大きく響いた声に、一応立ち止まった。……なぜだろう、雲じいに対してこんな風に振る舞いたくなるのは。

 何を言われようとも無視してしまいたい。話なんてせずに立ち去りたい。顔も見たくない。

 雲じいが何を話したいかなんてわかっている。でもそれに応えるつもりもないから。


「……戻らないわ、天界には」


 半身だけ振り返って、雲じいの顔を見ないまま言った。


「なんと言おうと、戻らないから」


 なぜ、苛々するの? 雲じいは悪くないはず。私を大天使として作り出してくれたから、栄と出会えた後で子供が産めたのに。子供たちと引き離されそうになっているのは、あの神のせいであって雲じいのせいではないのに。


「アルシェネ……そうは言ってものう、お前自身わかってるじゃろうが、限界は近いぞ」


「アル……」


 二人の不安そうな声がそれぞれ聞こえた。見ていないけれど、どんな顔をしているのかはわかる。……わかっている、心配されていることは。でも。


「わかっているわ、でも戻らない。まだ時間はある。まだなんとかなる。……だから、帰らない」


 これ以上の話は無駄だと、私はすぐに姿を消した。言い逃げというのはこういうものだと思った。




 夢の世界から意識を急浮上させ、目を開けた。

 温かいベッドの上、栄と芙柚の寝息が聞こえる。最近寒くなってきたから一緒のベッドで眠っている。以前は芙柚が小さすぎて、眠っている間につぶしてしまわないかと栄が怯えていたからベビーベッドだったけれど、だいぶ大きくなって芙柚も自己主張するようになったため、二人の間で寝かせることにしたのだった。

 すーすーと一定のリズムで刻まれる呼吸音。薄闇の中で見える栄と芙柚の寝顔にほっと溜息をついた。

 そして子供部屋で眠っている羽留、奈津、亜希の顔を思い浮かべる。

 奈津も亜希も小学校に入って毎日楽しそうにしてる。友達も多いみたいだし、よかった。羽留は最近背が伸びだしたみたい。栄が「おれを越しちゃうかも」って不安がってたけど、どうなのかしら、越すのかしら。


 ……私が天界に戻るということは、この幸せを置いていくってことでしょう?

 そんなの、認められない。絶対に、嫌。


 心の奥からふつふつと怒りの感情が沸き起こってきた。


 本当に、神ってみんな自分勝手すぎるのよ。力があるからってあれもこれも自由にやっていいわけないじゃない。

 なによ、心のある天使なんか作って。辛かったんだから、ずっと。

 なによ、私の子供たちを勝手に世界の運命なんかに巻き込んで。知らないわよ、そんなこと。世界が滅ぶ前にそっちでなんとかしてよ、力があるんだから。


 どんどん湧き出してくる感情と言葉に身を任せながら、目から涙が溢れてきた。


 どうして、私をここに置いておいてはくれないの?

 どうして、離れなければならないの?

 どうして?


 やり場のない悲しみと怒りが、胸の中で渦巻いて、涙になって頬を伝っていった。

 誰にも気づかれないまま泣いて、眠らないまま朝が来た。


 ああ、今日はアーレリーとおじいさまが出発の日だから、朝のうちに挨拶にきて、送っていくんだったよね。

 栄が起きて気づかれる前に、顔を洗っておかないと。


 鏡を見てみないとわからないけど、瞼は確実に熱を持って腫れてしまっている。カーテン越しに朝日を感じながら、私はゆっくりと静かに体を起こした。






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