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太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第二章
110/128

42 変わらないということ




 おじいさんがロシアに一時帰国をする、と話をしてきたのは、それから一月後のことだった。

 老年のお姉さんと弟さんに会ってくるということを、おれは親父から聞いて、そうかと思っていただけだったが。

 ある晩、突然日向の実家に呼び出されて行ってみると、そこにいたのは困り顔のおじいさんと怒った顔のアンナさんだった。


「ど、どうしたっていうんですか……?」


 居間のテーブルを囲んで座った、同じく困惑顔のお袋と親父に視線を送りつつおじいさんにそう尋ねると、おじいさんは困った顔のまま笑いながら、状況を話してくれた。


「いやぁそれが。私はひとりで大丈夫だと言ったんだが、アンナが心配して一緒についてきてくれると。でも半年くらいはのんびりしてこようと思っていてね、そうするとアンナには仕事があるだろう? だから……」


「仕事なんてどうにでもなりますから。辞めたっていいんです、私はおじいさまに付いていきます」


「……と、こうなんだよ……。頑として譲らなくてね、どうにかならないかと思って今日はお邪魔したんだ」


 ツンと顎をあげてそっぽを向くアンナさんと、眉の下がったおじいさん。こりゃ相当けんかしたんだろうなぁと思いながら、おれは親父の顔を見た。親父はおれの視線に気づくと、目で合図を送ってくる。


 ……いや、だから親父から言ってくれって。

 は? おれ? おれなの!?

 ……わかったよ、言うからうまくいかなかったら助けてくれよ?


 ここまで数秒間のアイコンタクト。お互い渋い顔で意思疎通をし、うん、と頷いておれは口を開いた。


「えっと、おじいさん、アンナさんがついていくのに反対する理由は、アンナさんの仕事だけ、ですか?」


 どこから話をしたものか、と思いながらもとりあえず主だったところをつついてみる。


「ああ、そうだね。なにしろアンナの今の仕事はとても安定しているし、アンナに合ったいい仕事だ。だが一度辞めてしまったらもう一度同じ仕事に就くことは難しいだろう。だから辞めない方がいいと言っているんだが……」


「ですからおじいさま。私は今の仕事がどうしても続けたいわけではないですし、もっと条件のいい仕事だって必ず見つかります。先のことなどどうだってかまわないし、どうにでもなります。おじいさまがおっしゃるなら、私は帰ってきてから年収を今までの二倍以上にしてみせます」


 おじいさんの言葉がすべて終わらないうちに、アンナさんは勢いよく被せてくる。うーん、ここはアンナさん優勢だなぁ。年収二倍とか、アンナさんならやってのけそうだななんて、具体的なビジョンは何もないというのに、妙な迫力がある。


「えっと……じゃあ、アンナさん。アンナさんがおじいさんにどうしてもついていきたい理由は?」


「理由なんてひとつです、心配だからです」


 アンナさんがすぱっと言い切ると、今度はおじいさんが即座に反応した。


「アンナが心配することなんて何もないよ。私は持病があるわけでもないし、まだまだ元気だ。ちょっと故郷に戻って兄弟に会ったり、友達に会ったりするだけなんだよ? 何も心配なんてないさ」


 出されていたお茶の湯飲みを手にしたおじいさんは、もう湯気も出ていない、冷めてしまったお茶をずずっと飲んで、肩をすくめた。

 その様子を見ていたアンナさんは、胡乱げな顔で切り返す。


「持病がないなんて、おじいさま。私が知らないとでも思ってるんでしょう、お医者様からのお薬飲んでいますよね、高血圧の。それに最近は杖をつかずに歩くことも少なくなっているでしょう? 足が辛いのではないのですか」


 おじいさんは穏やかな笑みを浮かべていたが、その顔には『バレていたか』 とはっきり書かれていた。どう返そうか、悩んでいる表情だ。


「……まぁ、確かに高血圧の薬は飲んでいるがね。でもそのくらい、この年になったら当たり前ですよね、日向さん」


 いきなり話題を振られた親父は、一瞬びくっと飛び上がって、曖昧な笑みを浮かべた。


「え、そ、そうですねぇ、まぁみんな薬の一つや二つは飲んでますよね」


 とは言っているが、実は親父は何の薬も飲んでいない。健康一家の筆頭なのだ。さらに言うなら親父とお袋は今年五八歳、おじいさんは七十五歳なので、実は世代がちょっと違う。


「おじさまはまだお若いのです。一緒にしてはいけません」


 おっと、やはりアンナさんには気づかれていたか。ちょっと苦しいな、とは思っていたけれど。


「何を言おうとおじいさまがもう高齢で、介助が必要なことは明白なんです。私だってこんなことは言いたくありませんが、おじいさま。おじいさまは今回の帰国を、人生で最後のものと思っていますね? もうすぐ……死んでしまうかもしれないと覚悟しての旅行ですよね?」


 アンナさんの纏う空気が、途中から変わった。

 目が潤んでいる。ああ、アンナさんも泣くんだな、なんて変なことを思った。


「アンナ……」


 おじいさんがアンナさんの頭に手を伸ばし、その髪を撫でた。しかし言葉は続かない。アンナさんの言う通りである、と沈黙のうちに語ってしまっていた。


「おじいさまのことは、私が一番わかっています。今まで、ずっと一緒にいたんですから。だから体の不調も、心境の変化も、わかってるつもりです。おじいさまが何を思ってロシアに帰ろうとしているかなんて、お見通しなんです」


 言いながらぽろりと、大粒の滴が頬を伝っていった。


「お姉さんの具合がよくないんですよね? だから傍にいて、看病してあげたいと思っている。そのために滞在が長くなるかもしれない。もしかしたら半年どころじゃなく、一年、二年と続いてしまうかもしれない。その中で自分も体調を崩して、そのまま、という可能性だって、おじいさまは……」


 言葉の途中でアンナさんは手で顔を覆ってしまい、あとは嗚咽の声がくぐもって響いた。

 おじいさんは心配そうにアンナさんの背中をさすり、テーブルの向かい側でお袋がもらい泣きをして、ハンカチをぐちゃぐちゃに握りしめていた。


「……私を、おいていかないでください。おじいさまの傍にいることだけが、私がここにいる意味なのです。たとえおじいさまの人生が終わる時がきても、その時も一緒にいさせてください……」


「アンナ……」


 おじいさんもアンナさんも、もう何も言えないようだった。アンナさんはきっと今まで言うに言えなかったことを吐き出したのだろう、抱きしめているおじいさんの腕の中でただひたすらに泣いていた。

 おじいさんがすぐに死んでしまうなんてことは、アンナさんの心配しすぎだとおれは思う。何しろ七十五にしては背筋もピンとしてるし、顔色もいいし肌も若い。高血圧のことは確かにそうなんだろうが、普通に過ごすだけならそんなに過敏になる必要もないだろう。ひとえにアンナさんのおじいさんへの愛情というか、気持ちの表れだ。なにしろずっと一緒に過ごしてきたんだもんな、おれと葵が出会うより前からずっと。そりゃ固い絆ができていて当然だ。

 これはもう、一緒にいくこと決定だろうな、と親父とお袋を見ると、ふたりも同じ結論に達したのだろう、こちらを向いて頷いた。お袋は目を真っ赤にして、親父も少し目を潤ませながら。


「悪かった、アンナ。私はそんなに早く死ぬつもりはないが、お前にそんなに泣かれてしまってはお手上げだ……。一緒に行こう。いや、一緒に来てくれないか?」


 うーん、なんだかすごいラブストーリーの告白シーンを見ているような気分だ。カップルの年齢にちょっと差があるが。まぁそんなことはどうでもいい。

 おじいさんの腕の中でアンナさんが頷くのが見えた。……よしよし、これでこの問題は解決だな。


 どうなることか、と思ったが、うまく結論にたどり着いたようなので、おれはほっとして体の力を抜いた。

 ん? ……ということは、おじいさんとアンナさんはしばらく不在になるわけだな。あの家の管理はどうするんだろうか。まぁやるとしたらおれたちか。たまに家に行って換気したり掃除したり、庭の草木の手入れをしたらいいのかな。いや、庭木の手入れなら洋一に……ん? 洋一? あれ、おじいさんって洋一とアンナさんをくっつけようとしてなかったっけ? よく考えたらもしかして……


「このために洋一と?」

 

 ついぽろっと声に出してしまってからはっと口を押えた。が、おじいさんには聞こえてしまったようで、苦笑いを返された。

 ああ、やっぱりそうなのか。おじいさん、置いていくアンナさんが一人なのが心配で、それで手ごろなところにいた洋一とくっつけようとしていたんだな。ところが洋一もアンナさんも頑固で全く意のままにはならなかった、と。

 うーん、洋一はこのこと知ってるのかなぁ……。



 もやもやと考えている間に、アンナさんの涙も引っ込み、おじいさんとアンナさんは親父とお袋の前で照れくさそうにしながら礼を言い、今後の計画についてを話していた。アンナさんの退職手続きが済んで、飛行機のチケットを取ったら行くらしい。その間の家の管理は任せてくれと、お袋が胸をたたいて請け負っていた。そう言うだろうとは思ったけれど。

 そうこうするうちに二人が帰ることになり、おれも帰らなきゃと、一緒に玄関を出てきた。アンナさんがお袋に呼び止められて何やら話をしている間に、おれはおじいさんに合図されて外に出た。


「栄くん、洋一君のこと、君にもわかってしまっているようだね。でも私は何も、ただアンナを一人で残すのが心配だから、洋一君と一緒にさせようと思っていたわけではないのだよ」


「え、そうなんですか……?」


 どういうことだろう、と思いながら先の言葉を待っていると、おじいさんは少し遠くを見て言った。


「アンナは、あの子は天使だろう? もう十年以上一緒にいるが、全く老けないんだ。栄くんも気づいているだろう? 葵さんだって同じなのだから。……でも、変わらないことを、若さを周囲が羨ましがるのにはそろそろ限界が来ているんじゃないかと私は思うんだ」


 この言葉に、おれは強い衝撃を受けた。


「同じ場所にいれば、あの子が全く変わらないことに気が付く人間がそろそろ出てくるだろう。遅かれ早かれ私が死んでしまうことは確かなのだし、その前にあの子の居場所を別に作ってやりたいと、そう思っていてね……洋一君ならあの子が人間じゃないことを知っているのだし、守ってくれるのではないかと勝手な期待をしてね。……ふふ、うまくいかないもんだ」


 変わらないことに、気づく人間。

 変わらない、アンナさんも葵も、変わらない。老けない。

 ああ、確かに。葵は出会ってからずっと、十何年経っているのにずっと、全然老けたりなんてしてない。おれはこの十年で確かに少しずつ、自分の年齢を感じてきているのに。


「そ、それって……まずいことですかね。葵が変わらないことに誰かが気づけば……問題になりますか?」


 あまりの衝撃に冷や汗をかきながら、おれはおじいさんに尋ねた。

 考えたこともなかった、そんなことは。よく考えてみれば当たり前のことだったのに。


「そうだね……人間は違っているものに敏感に反応する生き物だからね……。今はまだ若い奥さんでいいわね、で済むかもしれないが、もう十年、二十年を過ぎて、それでもあの二十代の容貌のままだったら、さすがに変に思うだろう。……どうしたらいいのかは、私にもわからないが」


 そ、そうだよな、絶対変だもんな。年が五十でシワもシミもないなんて、そんなのありえないもんな。お袋が頑張っていろんな美容法試してるのにやっぱり肌が~なんて言っているのと、普通の人間は同じだもんな。なんの努力もしないで外見が変わらないなんて、異常以外のなんでもないはずだ。


「アンナは私がいなくなったら独りぼっちだ。葵さんと栄くんがいることはもちろんわかっているが、でも君たち夫婦の間にアンナを押し込むわけにもいかないだろう? それでいろいろ考えていたんだよ。……まぁ、洋一くんには改めて事情を話してみるとしよう。とりあえずはアンナは私とロシアに行くから、その間にゆっくり考えてもらうことにしよう」


「は、はい、そうですね……」


 ということは結局おじいさんは洋一とアンナさんをくっつけるのを諦めていないってことだな、と頭の隅で思いながら、おれは葵のことで思考のほとんどを費やしていた。

 アンナさんはアンナさんで心配だけど……葵は、葵はどうしたらいいんだ? 引っ越しか、引っ越しすればいいのか? あんな大きな家も建てたのに?

 考え込んでいるうちにアンナさんが家から出てきて、ちょうどやってきたタクシーに乗って、二人は去っていった。おれは心ここにあらずの状態で手を振り、家に向かって歩き出した。車は明日取りに来ればいい。どうせ歩いて十五分くらいの距離だし。それより今運転なんかしたら、その辺の電柱にぶつけかねない。


 考えているようで全く働かない頭のままで、おれはいつの間にか家に着いていた。

 窓からこぼれる明かり。小さく聞こえてくる子供たちの声。なにかテレビを見て騒いでいるようだ。それにかぶさるように聞こえる葵の声。「お風呂入っちゃいなさい!」なんて、あんな大きな声、葵にも出せたんだな。


「変わらないことを、気づく人間がいる……?」


 ああ、いるかもしれないな。もしかしたらもう気づいている人がいるかもしれない、口には出さないだけで。

 気づいたら、その人たちは何を思うんだろう。葵になんと言うだろう、何をするだろう。……何か危害を与えてくるのだろうか。

 怖い想像に鳥肌が立って、慌てて頭を振った。

 ……いやいや、まだ大丈夫だ。葵は三十六になったところだ、設定上では。よく考えてみると天使である葵が本当はいくつなのかなんて知らないけれど、結婚した時にそう決めた。三十六であの顔なら、まだ話は通るだろう。いや四十まではいけるな、最近の化粧品はすごいみたいだしな、若く振る舞ってる人もいっぱいいるし、そうだ、エステに通ってるってことにしたらどうだろうか、ある程度まではいけそうだ。うん、そうだな、その線で行こう。もし何か聞いてくる人がいたら、エステに行ってるってことにしよう。もともと童顔だし、肌もきれいなんだけど、それに磨きをかけてるってことにすれば……


「お父さん? なにしてるの?」


 玄関の前でぐるぐると考えていたら、居間の窓から羽留がひょっこり顔をのぞかせて、不思議そうにこちらを見ていた。


「あ、いや、なんでもない。ただいま」


 たぶん顔が引きつっているだろうと思ったけれども、それだけ言って玄関の扉を開けた。いかんいかん、不審人物になっていた。


「変なの。……お母さん、お父さん帰ってきたよー」


 羽留が中で葵を呼ぶのを、玄関で靴を脱ぎながら聞いた。葵のスリッパの音が近づいてくる。


「おかえり、栄。おじいさまたち、何の話だったの?」


 お風呂の方から歩いてきたということは、双子を風呂に入れたところだったのだろう。きょとんと首を傾げたその様子は、ああ、確かに、出会ったころと何も変わらない。可愛くて、美人で、大好きな葵のまま。


「……ただいま。いや、それが、まぁ」


 どこから話したらいいかわからないで適当に濁していると、葵は踵を返しながらおれに言った。


「お茶入れるからこっちで話しましょ。今ナツとアキがお風呂に入ってるから、その後栄ね。フユをお風呂に入れてくれる? 今日はまだなの」


「あ、ああ。わかった」


 葵は軽快な音を立てて去っていく。その背中に手を伸ばしたくなって、でも次の瞬間に、どうしたらいいかわからなくなった。

 ……とにかく今はおじいさんとアンナさんがロシアに行くっていう話をしよう。葵だってその間寂しくなるし、その前にアンナさんに会っておきたいだろうし。

 うん、と勝手に自己完結して、不穏な問題は隅のほうに無理やり追いやった。

 居間に入ったらつかまり立ちをしていた芙柚がかわいくて、考えていたことをすべて吹き飛ばして羽留と一緒に応援した。


 ……考えないことにした。わざと、向き合わないことに、した。


 考えてしまえば、答えの出ない迷宮に迷い込んでしまいそうだったから。





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