9 言葉と文字
おれは風呂上りのアルを客間まで連れて行き、「髪を乾かせよ」とだけ言い置いて、すたこらと風呂場に逃げた。お袋との会話はおそらく聞かれていないだろう、上手く誤魔化せているといいんだけどな……と思いながら服を脱いで風呂場に入った。
「うわ、泡だらけだ」
見慣れた風呂場はそここに泡が飛び散っていて、おれは思わず声をあげた。アルの苦戦の結果だろう、とくすくす笑いながらシャワーの湯を壁に向けて泡を流していく。思いつく限りは説明しておいたが、多分アレコレ大変だったに違いない。
後で感想を聞いてみようと思いつつ壁を流し、その後普通に髪と体を洗い、さてお湯に浸かるかなと思ったところで、はた、と気づいた。
……さっきまで、ここにアルが……
入浴剤で乳白色に濁ったお湯を見ているうちに、いかがわしい妄想で鼻血が出そうになって慌てて冷水を被った。……なんてこった、こんなところにも精神攻撃が待ち受けていたとは。おれは必死で考えないようにしながら、そっと足を湯船にいれた。
最速記録ではなかろうか、というスピードで風呂から上がったおれは(何でそんなに急いだのかは想像にお任せします)、台所を覗き、もうお袋が居ないことを確認してポカリの缶を二本手に持った。もちろん一本はアルのためだ。湯上りの水分補給は必須だろう。
タオルを首にかけたまま客間へ向かうと、彼女は縁側に腰を下ろして庭を眺めていた。うちの庭はお袋の趣味で様々な植物が植えられているが、そんなに面白みはないと思う。近くまで行ってもおれに気づかないくらいぼんやりしているアルの目の前に、青い缶をかざした。
「……はい。喉渇かないか?」
いきなり視界に入ってきた鮮やかな色に驚いたのだろう、アルは肩を上下させて驚いた後、おれを見上げてきた。
「わっ! ……サカエ、“いじわる”?」
意図しない上目遣い攻撃と、『いじわる』という台詞は、おれの心臓に直撃した。……何をしているんだ、おれ。こんなことをやっていたら本当に心臓が持たないぞ!
おれはこっそり深呼吸をしてなんでもないかのように振舞った。
「ごめん、いじわるじゃない。……飲んだ方がいい、ほら」
丸い缶の飲み口を開けてやってからアルに手渡す。アルは不思議そうに缶を眺め、おれがもう一本を飲み始めたら真似して一口飲んだ。
「……おいしい、……甘い?」
「うん、スポーツドリンクだからな。汗をいっぱいかいたときに飲むんだ。普通の水よりずっと甘いな」
「……スポーツドリンク」
アルはおれの言った言葉を復唱してから再び缶に口をつけた。ごくごくとおいしそうに飲んでいく。おれは普通に飲めていることに安心して自分の分を一気に飲み干した。
「……サカエ? 地上のものは何でもおいしいのね」
ある程度飲んで缶から口を離したアルは、おれが飲み干すのを待ってそういった。『おいしい』という感覚もきっと初めてなのだろう。きらきらと輝くような瞳が眩しかった。
「はは、そうだな、おいしいものはたくさんだな。……たくさん食べさせてあげる、いろんなもの」
「本当? 嬉しい!……あ、そうだ、サカエ! 聞きたいことがあるの!」
アルの体が食べ物に慣れたら、いろんなところのいろんなものを食べさせてあげたい。デパートには今いろいろなものが売っているし。おれがそう言ったらアルは手を叩いて喜んで、はっと気づいたように客間に入り、なにやら雑誌を持ってきた。
「ね、これ、おいしい? これは、何? 食べ物?」
アルが持ってきたのは料理雑誌だった。お袋が好きで読んでいるものだが、アルの暇つぶしに何を与えたらいいかわからずにとりあえず渡したのだろう。アルはつるつるした雑誌のページをめくり、写真を指差しながらおれに問う。
「これは……海鮮のトマトスパゲティか、お袋作れるかな? こっちはアレだ、食材じゃない、料理作るときの道具。混ぜるヤツ。電気使うから早くできる」
アルの指し示したものを一つ一つ説明しているうちに、おれはあることに気づいた。
「……なぁ、アル? アルはこの字、読めないのか? 話はできるのに?」
無邪気に笑っておれの話を聞いていたアルは、きょとんとしておれの目を見た。
「あれ、そういえば、なんでだろう。字は読めないの、一個も。でも話は分かる、サカエが何て言ってるか分かる」
「おれもアルが何言ってるのか分かるよ」
考えてみたらアルの言葉遣いは変だ。先ほど夕飯のときに親父とお袋に対して流暢に敬語を使っていた。違和感のないほどに正確に。しかし今おれと話しているときのアルは、少し子供っぽいような。だが意識して使い分けている様子もない。
そして二人でしばらくうーんと考えてみたが、結局言葉が自由で文字が不自由な理由は考えつかなかった。そもそもおれは考えたって分かるはずもない、天使の事情とかは全く知らないのだから。アルが分からないのなら考えても仕方がない、何はともあれ言葉が通じるだけ良かったじゃないかとおれは思った。
アルはどう思っているのか顎に手を当てて、雑誌の文字とにらめっこしていたが、不意に顔を上げておれを見た。
「……私、勉強する。この文字、読めるようになりたい」
「え?」
「サカエ、分かるでしょ? 私に教えて、文字! ね、お願い!」
なぜアルがそういう考えに至ったのか、おれには全くわからなかったが、アルのキラキラとした瞳を見て断ることもできず(もっとも最初から、おれにアルの頼みを断るという選択肢もないが)、了承した。
「あ、ああ、わかった」
「わーい、やった! この文字難しい、面白い。ふふ、ね、これって何て読むの?」
子供のようにはしゃいだのも一瞬、もう授業は始まったようだ。アルは雑誌の上の大きな文字を指差す。おれはその白い指が指差す字を目で追った。
「はいはい、えっと、『家庭でできる!プロの技!』だな」
「違う、これ、この文字!」
読み上げた部分は、アルが知りたかったものではないらしい。アルが知りたいのは漢字の読みのようだ。
「ん? 漢字か、これは『家』だ、『いえ』。『うち』とも『か』とも読むな。つまりここ、おれ達が今いる場所が『家』だし、『家族』を表す意味もあるな」
「い、え、家か。……ああ、そういうことなの? この文字一字で意味を説明できるのね? すごいわ」
「そ、そうだな。漢字なんて当たり前すぎて考えたことなかったけど……結構すごいよな、そう考えると」
アルに言われて考えてみれば、漢字はたった一文字でものの意味を説明できる有能な文字だ。『家』という一字をとってもそれは『家屋』の意味でもあり『家族』を表すこともある。読み方はひとつの漢字につきたくさんあるから面倒なときもあるが、字を見るだけでひとつのイメージを共有しているのだから、ちょっと他の国の言語とは違う。
そんな風に思ったことをアルに話してみたら、彼女は更に瞳を輝かせた。緑がかった茶色の目は、まるで希少な宝石のように光を宿している。
「かんじ……素敵! 私、漢字を勉強するわ!」
アルは興奮して体を上下させた。すると彼女の髪も一緒に上下して、雑誌を覗き込んでいたおれの頬に当たった。
「いたっ、アル、髪乾かしてないのか?」
びしっと当たった髪に触ってみたら、くるくると巻く髪は見た目乾いているようだったが、そうではなかった。水分を溜め込みしっとり重い。
「あ、ごめんなさい。大丈夫?」
「あ~、全然、平気。ちょっと待ってて、ドライヤー持って来る」
おれの言葉が非難に聞こえたのだろう、すぐに申し訳なさそうにしゅんとしたアルに、ひらひらと手を振って、おれは洗面所にドライヤーを取りに行った。そういえばさっきアルを客間に押し込んだとき、髪を乾かせとは言ったけど、ドライヤーまで教えてはいなかった。
引き出しからドライヤーを取り出しながら、ころころ変わるアルの表情を思い浮かべて思わず笑っていた。本当に何にでも興味を示す、無垢な子供みたいだ。アルが漢字を勉強したいというなら、おれが勉強し直さないとな。高校を卒業して以来取り出してもいない漢字辞典と国語辞典の在り処を頭で考えながら、おれは来た道を引き返した。