41 夏のある日―夜 side葵―
夏の夜の空気は、どこかしっとりと艶めいていた。
真夜中、私はふと目を覚まして、何もない天井を見つめた。
隣で眠る栄の呼吸の音。体温。それを感じながら、妙に冴えてしまった頭で、昼間のことを思い出す。
昨日は本当に楽しい一日だったよね。あ、カメラ持っていくの忘れちゃった。せっかくの楽しいバーベキューだったのに、写真に残せばよかった。子供たちはみんなはしゃいで、おじいさまも、アーレリーも、栄も洋一さんもみんな楽しそうに笑って。芙柚だって背中でずっとご機嫌にしていた。毎日楽しいけれど、昨日は特別キラキラしていた。
……そう、夜も栄といろんな話をした。考えてみればあんな風にのんびり話をしたのって、子供たちが生まれてからあまりなかったなぁ。子供たちについての話はいろいろするけど、自分たちの話はなかったかも。ふふ、ふたりして子供たちばかりに気を取られていたのかもしれないね。でもたまにはああやって、取り留めのない話をするのもいいものだね……。
「……ん~……」
栄が寝返りを打って、返事のように唸った。それが可笑しくて、私は起こさないように注意しながら、くすくす笑った。
……栄。私の夫。大好きな人。
出会ってから地上の時間で十二年。ああ、本当に、長かったようなあっという間だったような。
あの日、天界の橋の上で雲じいとけんかをして、そして川に落ちた日。直接の転換点はあの時だった。
【叶えてあげよう、キミの願いを。キミの運命を変えてあげるね】
川に落ちる直前に聞こえた声は、あの神。
確かに私は天界に居場所を見つけられずに、どこか違う場所へ行きたいと願っていた。そしてあの神はそれを叶えてくれたといえる。でも。
一体どこまで計算していたのだろう。あの神の狙いは私と栄の間に生まれる子供たちだった。だけど普通は、天使が地上に存在することも、ましてや人間との間に子供ともうけるなんてことも想像したりしない。全く前例のない、一種の賭けだ。
たまたま私が強い力を与えられた大天使で、生殖機能を作り出せたから可能だった話で、あの神の計画は失敗に終わる可能性だってあったはずだ。……わからない、果たして私が作られた時からの企みだったのかどうかは。
でもとにかく私は地上に移され、栄と出会った。最初は私の願いが叶ったかのように、私の記憶を留めたまま、私を喜ばせた。私は家族に触れ、感激して感謝した。ところが体の機能を作り変えている間、あの神は私の記憶を隠した。雲じいに関する記憶や、橋の上での記憶を。おそらくは私が地上にいること自体に違和感を持たせないため。疑問を持たずに人として生活すれば、子供ができる可能性が高くなると考えたのだろう。きっと記憶だけでなく、私の思考にも介入して、深く物を考えさせないようにしていたのだと思う。思い返してみればあの頃は、思考がひどく単純だったから。考えるというより、感情で行動していたような感覚だったから。
「……ふー……」
あまりの理不尽さに思わずため息をついてしまった。……別に構わない。私は私の感情に従って栄を好きになり、結婚して子供を産んだ。そのことには納得しているし、自分の選択だと思っている。でもその全てが神の手の上で転がされているだけであって、神を喜ばせるためのものだったと思うとうんざりする。
一体どこからどこまでを計画しているというのだろう。
もう何度も会ってあの独特の強い圧力を受け、抗うことはできないとわかっているけれど。
おそらくきっと、あの神にとっての最後までを描き切っているのだろうけれど。
そしてそれがどんなものなのか、子供たちがどうなるのか、私には見当もつかないけれど。
今、私が望むことはただ一つ。
≪……アル……アルシェネ……≫
遠く夢の領域から、時々聞こえてくる小さな声。
呼ばれている、少し前から、毎晩のように。
≪アルシェネ……わしの声が聞こえるか……≫
聞こえている、本当は。
雲じい。もうすべてを思い出したから。
≪……アルシェネ……≫
聞こえているけれど、返事をしない。雲じいの話が何なのか、私にはわかっているから。
布団の中から右手を出して、頭上にかざす。私の手。夜の暗さの中、ぼんやりと白く光る手。
……大丈夫、まだ存在している。
まだ、ここにいられる。
目を閉じて、残された力の量を確認する。……大丈夫、あと、少し。
不意に思いついて、少し力を行使した。空中に、四枚の羽根を浮かび上がらせる。
「これを庭の四隅に……」
意思だけで操作して、四枚の羽根をそれぞれ、庭の四隅に放った。羽根は地面に溶け、四枚が連動して家を取り囲むような結界となる。
「弱い結界だけど……ないよりはましよね……」
子供たちを、栄を、守るために。今でないと、もう後になったら結界すら張れなくなるから。
自分の力のなさにがっかりしながら、再び目を閉じた。雲じいの声はもう聞こえない。
……雲じい、わかってるんだよ。もう帰らなければならないこと。
帰らなければ、この体が消えてしまうこと。わかってる。
でも今望むことはたった一つなの。
もう少し、もう少しだけ、ここで、みんなと一緒に……
「……あ、おい……ん~」
寝言で私を呼びながら、栄が寝返りを打ちこちらを向いた。私は泣きそうになりながら、その大きな体に擦り寄った。すると自然と背中に回される、腕の重みと温かさ。
……栄、どんな夢を見ているの? そこに私がいるの?
「あおい~……すきだ……」
「ふふっ……」
笑いながら涙が出た。
本当にもう、どんな夢を見ているの?
愛されている、それを感じるだけで、私の心は幸せに満たされる。
「私も、好きだよ、さかえ……」
呟いて栄のパジャマに顔をくっつけた。布が涙を吸い込んで、笑みだけが残った。
大好きなひとの体温、感触、匂い。ここにいられるだけで、幸せ。
……ああ、いつまで、こうしていられるだろうか。
不穏な考えが頭をよぎったけれど、考えないようにしてただ栄に抱きついた。このまま眠ってしまえば私も栄の夢を見られるかもしれない、そんなことを思いながら、ぎゅっと抱きしめ返してくれる腕の力強さを頼もしく感じていた。