35 夏のある日―朝―
「じゃあ、いってくるな」
「うん、いってらっしゃい。気を付けてね」
「……あ~ぁ~」
玄関先で出かける挨拶をすると、葵に抱かれた芙柚が真似してしゃべるようになった。まだまだ何を言っているかはっきりはしないが、芙柚は生後半年を過ぎた。手を懸命にフリフリしているのが本当に可愛らしく、デレッとしてしまう。
そんな芙柚のふわふわな髪を撫でてから弁当を持ち、玄関扉に手を掛けると、後ろからまた声が響く。
「あ、お父さんいってらっしゃい」
「おー、おはようハル。ハルも遅刻するなよ」
廊下をスタスタと横切りながら声を掛けてくれたのは羽留だった。羽留も四月で五年生になり、さらに奈津と亜希が小学校に進学したこともあって、お兄ちゃん度がぐっと増した。
「大丈夫だよ。ちゃんと二人も連れてくし」
にこっと爽やかに笑った羽留の後ろを、子ガモよろしく、眠そうな目を擦りながら奈津と亜希が付いていく。
「ふわぁ……まだ眠いや」
「あ~おとうさん~いってらっしゃ~い」
あくびをして半分眠ったような顔でふらふら歩く奈津と、同じく半分しか開いていない目でひらひらと手を振った亜希が洗面所へ向かっていくのを見送って、笑いながら葵が言う。
「ふふっ、毎朝面白いわね」
「ああ、ほんとだな。……おっと、いってくるな!」
微笑ましいコントを見ているようで実に面白いのだが、忙しい朝だということをすっかり忘れてしまっていた。玄関脇の時計がかちりと動くのを見て、時間を思い出したおれは慌てて玄関を飛び出す。
「気を付けてね~」
葵の声を背に、今日も一日頑張ろうと気合を入れる。一家の大黒柱なのだ。稼いでこないとな。
*
芙柚の出産の後、しばらく眠っていた葵だったが、本人も言う通り、起き出した後はすこぶる元気で、以前と変わらぬ……いや、以前以上に元気に過ごすようになった。
少しやつれていた感のあった身体はあまり変わりないものの、よくご飯を食べているのでそのうち元に戻るだろう。痩せてはいるが、ガリガリで骨ばっかりという感じでもないので大丈夫だと思う。
朝から精力的に家事をこなしていく姿は、お袋以上にパワフルで頼もしい。要領よく洗濯と朝食の準備を同時進行し、朝ご飯も昼のお弁当も毎日しっかり作ってくれる。たまに起きてこない子供たちを起こすために大声を上げたりして(一体どこでそんなサザエさん的行動を覚えてきたのだろうかと思ったが)、元気なお母さんをやっている。
平日はおれを送り出した後、子供たち三人を学校へ送り出し、その後芙柚の面倒を見ながら洗濯物を干し、家じゅうの掃除をするらしい。午後になったら芙柚と一緒にちょっと昼寝もするみたいだけれど、基本的には起きていて漢字の勉強とか植物の育て方の本などを読んでいるようだ(これは羽留の目撃談)。夕方になれば夕飯の買い出しに出かけ、帰って夕飯の準備。
子供たちが帰ってくると、宿題をやるのを監督しているそうだ。実際、羽留は一人でできるし、奈津と亜希のわからない部分も羽留が教えているのだが、葵が近くで見守ってくれているのが三人とも嬉しいらしく。ランドセルを置くとすぐに宿題を出してテーブルに広げ、我先にと始めるのだという。いやはや、我が家にはカツオくんはいないらしい。まぁひとえに真面目な羽留が筆頭になって勉強をするから、お兄ちゃんの背中を見て双子は自然と勉強しているのだろうが、本当に立派なことだ。
そんな子供たちであるが、葵が目覚めた後急に大人びてきて、家の手伝いを積極的になるようになった。これは葵が眠っている間から始まった行動ではあったけれど、お母さんばかりに負担を掛けてはいけないと思ってくれているのだろう、羽留は学校から帰ると芙柚の面倒を見てくれるし(おんぶしながら宿題をやっていたりする)、奈津と亜希は宿題の後で洗濯物を畳んだり、葵と一緒に夕食を作ったりしてくれる。
実に微笑ましいなぁと思いながら、帰ってくると一通りの家事が終了しているため、できることのないおれは、とにかくみんなが不自由しないように稼ぐことだよな、と思い直し、仕事に精を出している、といったところで。
相変わらずの毎日が平穏に過ぎていく、その幸せを噛みしめながら日々を過ごしていた。
*
そんな初夏のある日。日曜日の朝のことである。
電話の音が鳴ってるな、と洗面所で髭を剃りながら思っていたが、誰かが電話を取ったようだ。
「おとうさーん、ラフじいちゃんから電話!」
受けたのは羽留だった。大声で呼ばれたけど、おれは髭剃りの途中で顔中泡だらけだ。
「ハルー、悪いけど用件聞いてくれ! 今出られないー!」
と、こちらも大声で返しながら、別に電話のところまで行くことはできるな、と泡だらけの顔で剃刀を持ったまま移動する。
『ラフじいちゃん』とはアンナさんのおじいさんのこと。ラフマニコフ・ドミンスキーという名前から、羽留が呼びだしたあだ名だ。おれの親父との区別をつけるためで、親父のことはただの「おじいちゃん」と呼ぶ。正確に言えばアンナさんのおじいさんは羽留たちにとっては曾おじいさんに当たるので、ひいじいちゃんでもよかった気がするのだが、呼び名に関してはおじいさんも納得している。むしろ、ひいじいちゃんと呼ばれるとすごく年寄りな感じがして嫌なのだとか。
玄関脇に置かれた電話で、羽留が楽しそうな様子で話をしていた。
「うんうん、そうだよー。ふふ、とっくに終わったって! ……え? うん、今日? ちょっと待って、お父さんに聞いてみるね」
羽留は驚いたような声を上げ、近くにいたおれをみてから受話器を下した。
「……お父さん。あのね、ラフじいちゃんが今日、家の野菜を収穫に来ないかって。たくさん出来すぎちゃって食べきれないから取りに来てくれると嬉しいって」
「おー、そうか。じゃあみんなで行こう。予定なかったよな?」
「うん、何もないよね。……もしもし? ラフじいちゃん? えっと、そしたらみんなで行くね。……うん、みんな。今日はお父さんも休みだし、みんないるよー」
羽留が話をしているうちに、葵も近くに寄って来ていた。
「なぁに? ラフおじいちゃん?」
「そう、野菜収穫に来ないかって。せっかくだからみんなでお邪魔しようかと思ってるんだけど」
「ふふ、いいわね」
葵が笑ったところで羽留の声のトーンが変わった。
「……え? お昼? ……うん、うん、わかった、聞いてみるね。……あ、お母さん、あのね」
顔を上げた羽留が葵を認めて話しかける。
「みんなで来るんならお昼も一緒に食べないかって。お昼ちょっと前に来て収穫して、その後みんなでご飯を作って食べようって。おじいちゃん、特製のスープの準備しておくってさ」
話を聞いた葵は苦笑した。
「ふふっ、もしかしてもう準備してあるんじゃないかしら。……ハル、ちょっと替わって?」
「うん」
受話器を受け取った葵は軽快に話し出す。
「もしもし、おじいさま? 葵です。スープはお任せしますけど、他の料理はどうしますか? ……△□**○、×□●◎#▽▽……◎◎○、△▲**×……」
途中からロシア語を話し始めたようで、内容は分からなくなってしまった。葵がおじいさんと話すとき、よくこうなるのですっかり慣れてしまった。おじいさんも葵とロシア語で話すのが楽しいらしく、ふたりの時はほとんどロシア語だ。
羽留も最初こそびっくりしていたが、葵がロシア語を話せると分かってからは澄ました顔で会話が終わるのを待っている。会話が終わったら内容を聞けばいいのだと、おれと同じ結論に達したらしい。
「△□、××○●」
「じゃあ、また」とでも言ったのだろうか。和やかな様子で会話は終了し、葵は受話器を置いた。
「で、どうなったんだ?」
昼ごはんの相談だろうなと検討はついていたが、一応確認する。隣の羽留も興味津々の様子で葵を見ている。
「えっとね、お昼ご飯は収穫した野菜とお肉でバーベキューしましょって。お肉は行く途中で買っていくことにしたわ。谷中さんのスーパーに寄りましょ、栄」
谷中先輩。久しぶりに聞いたな、その名前。と、思っていたら。
「たっくんのスーパーね! よし、たっくんと遊ぼうっと」
隣で話を聞いていた羽留が、楽しそうな様子でにやりと笑った。……たっくん?
「おい、ハル。お前谷中先輩のこと知ってるのか?」
ただスーパーに買い物に行くだけでは、谷中先輩のことなど知る由もないだろう。あのスーパーが先輩の親が経営してることも、そもそもあそこにおれの先輩がいることも、羽留にとっては知らないはずの情報なのに。
「んー? 前にお母さんと一緒に行った時に話したから。それに洋一さんと洋二さんにも聞いたことあったし。ナンパがうまい先輩なんだよね~?」
羽留はらしくない黒い笑みを浮かべて話を続ける。
「でも昔お父さんのこといじめてたみたいだし、お母さんのことも狙ってるみたいだったから、僕が代わりにからかってあげようと思って。たっくんって呼ぶと怒るんだよね~、それは女の子専用のあだ名なの! って。今じゃ僕の方にお姉さんたちが寄っていっちゃうって苦笑いしてるよ、いつも」
「わー、なんだその話。ははは……」
おれは乾いた笑みで誤魔化すしかできなかった。……ちょっと、羽留さん? キミは昔のおれの話を知りすぎてはいないかな?
大体谷中先輩がおれのことをいじめてたとか、まぁ嫌がらせのように女の子を紹介されていた時もあったけど、別にいじめられてるとは思ってなかったしな。正直付き合うのにめんどくさいタイプではあるけど、基本的には人好きないい先輩だと思ってたんだけど……。……洋一か、洋一だな。無駄な入れ知恵をして羽留で遊んでいるのは。
後で洋一をとっちめなければ、と考えていると、羽留は話は終わったとばかりに、まだ寝ている奈津と亜希を起こしに二階へ向かって行ってしまった。
「んー、お昼がたくさんになりそうだから、朝ご飯は軽めにしておいた方がいいのかなぁ」
などと呟きながら葵も台所へ消えていく。
はた、と自分の顔が泡だらけだったことを思い出し、おれも慌てて洗面所に戻った。鏡で顔を確認すると、溶けだした泡が今にも垂れ落ちそうだった。危なかった、と思いつつさっさと髭を剃りながら、今日の日が楽しくなりそうな予感で胸がいっぱいになっていく。
「谷中先輩かぁ~。そういえばフユが生まれたって報告してなかったっけ。見せつけてやろう、フユの可愛さを!」
ひとりにやにやと呟いて顔を洗う。……おじいさんの家でのバーベキューも久しぶりで楽しみだ。子供たち三人ははしゃぎそうだな……。本当に、今日も楽しくなりそうだ。