表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
太陽の咲く庭で、君が  作者: 蔡鷲娟
第一章
10/128

ちょっと横道② はじめてのお風呂



「えっと……右からシャンプー、リンス……だったよね、髪の毛を洗うものよね確か」


 二つ並んだ入れ物をじっと見て恐る恐る頭の部分を押した。ぬるっと出てきた白いものに鼻を近づけてみたら、花のようないい香りがした。“シャンプー”を手のひらに載せたまま、目の前の棚においてあるいろいろなものを観察した。


「これで髪を洗うのよね、それからこの四角いのが石鹸で、こっちが体用で、あと顔も? うーん、面倒だなぁ……」


 人間は毎日こんなことを繰り返しているのか。


 サカエに教えられた通り、手に取った“シャンプー”を髪に載せ、擦ってみた。うーん、すごく泡立つってサカエは言っていたけど、そんなことないなぁ、変だ。


「あ、そういえば先に濡らしてからって言ってたっけ?」


 ぶつぶつ独り言を言いながら目の前の、太くて長いひもの先に何か穴のあいた丸いものがついた道具を見つめた。……これが“シャワー”、水浴びの道具ね、知っているわ。“資料”に載っていたものね。


「えっと手前のここを……? 右にひねる……」


 サカエの言葉を思い出してそのとおりに動かしたら、上のほうからお湯が水滴になって落ちてきて思わず後ずさった。しかし雨どころの水量ではない、これでは滝だ。


「これがシャワーなのね、すごい、温かい滝みたい」


 髪を濡らした後でもう一度頭を擦ってみたら、もこもこした泡がたくさん出てきた。いいにおいが膨らむように浴室に充満する。


「わぁ、こういうことかぁ。シャンプー面白いな」


 ごしごしと髪の間で指を動かしてみると、想像していたより気持ちがいい。洗うってこんな感じか、とニヤニヤしていたら、泡が目にかかってきた。


「わ、わ、泡が……痛いっ!」


 両手が泡まみれになった状態で、どうしたらいいのか分からない。痛いのに触れなくてどうしたらと思ってきょろきょろ顔を動かしたら、出しっぱなしになっていた温かい滝に当たって頭の上から泡を流していってくれた。

 そうか、泡はお湯で洗い流すってことなのねと合点がいって、痛む目を上に向けて開いて洗った。……よかった、痛みが引いたわ。


「え、と……次は二番目の“リンス”ね、髪につけて……流すと」


 真ん中の容器の頭を押したらシャンプーと同じようなぬるりとしたものが出てきた。サカエの手振りを思い出しながら髪につけてみると、不思議なくらい髪がするっと滑らかになって驚いた。くるくると巻くくせっ毛だから、よく絡まってしまう自分の髪が今までにないほど滑らかな指どおりで感動してしまった。


 ……流すのがもったいないな、すごい。流さずにこのままでいようかな。


 しばらく考えた後で、流れるままになっているシャワーに頭を向けた。『ちゃんといちいち洗うんだぞ』とサカエに言われたし、後で彼に怒られたくない。


「……できるだけ迷惑はかけないようにしないとね」


 うんうん、と自分の台詞に頷いて、さて次はと固形の“石鹸”を見る。『つるしてあるタオルに包んで擦ると泡が出るから、それで体を擦る』って言ってたっけ。その通りに実行するともこもことたくさん泡が立ってまたいい匂いがたくさんした。楽しくなって体を擦り始めたのだけれど、シャワーの水がせっかくの泡を流していってしまう。


「なんでー? 流れていっちゃう!」


 シャワーのお湯を避けるように後ろに下がって体を洗い、またシャワーに近づいて全部の泡を流した。洗い終わったところでほとんど無意識にシャワーを止めて、あ、と思った。


「……止めればよかったのね、さっきも」





 生まれて初めて“お風呂”に浸かった。

 今まで泉で水浴びして泳いだことはあったけど、汗をかいたりしない天使はもちろん代謝もなくて、常に清潔な状態に保たれているから“お湯に浸かる”なんてしようとしたこともなかった。何でも面白がる一部の神は専用のお風呂を持っているという話は聞いたことあったけれど、こんな気持ちのいいものだとは思わなかった。


 人間は面白いものを作るなぁと湯船に浸かりながら思う。シャンプーも石鹸も不思議なくらい泡立ちがいいし、この白く濁ったお湯もへんてこだ。水もお湯も無色透明のはずなのに、何かを混ぜているのだろうか。何の為に? 分からないことは多いけどやっぱり面白い。


 熱めのお湯が全身に染みるようで、気持ちよくなってぐいっと背中と足を伸ばしたら、水面が大きく揺れてお湯が零れてしまった。


「わぁっ! ごめんなさい!」


 慌ててかき集めようとしたけれど、もちろん掴むことなどできなくて零れたお湯が排水溝に吸い込まれていく。それをなすすべなく眺めた私は、申し訳なさでため息をついた。

 申し訳ないといえば、さっきの夕飯のときも、皆さんの前で大泣きしてしまって雰囲気を壊してしまったと思う。ご飯を食べているのが珍しすぎてじろじろ見つめてしまったことも。


「……本当に、私、ここにいていいのかなぁ」


 湯気でもやもやする視界の中、ポツリと呟くと声がわんわん反響した。


 言葉は少ないけれど、優しい眼差しのお父さん。私のためにスープを作ってくれるお母さん。昼間もいろいろと教えてくれたし、体が楽でいられるよう椅子を持ってきてくれたりと便宜を図ってくれた。

 そして、サカエ。涙を流すことさえ初めてで、どうしたら止まるのか戸惑っていることに彼は気づいていたのだと思う。優しく拭ってくれた指の感覚を思い出し、私はぶくぶくと息を吐きながら鼻の上まで湯に沈んだ。


(何でわかったんだろう? 何もかもが初めてだって)


 アーレリーはそんなことまで彼に教えたのだろうか? いや、まさか。天使の生態のアレコレを説明するアーレリーなんて想像できない。彼女は基本的に面倒くさがりだったし。


「……優しい、ひと」


 私の間違いも怒らずに優しく訂正してくれる。ひとつひとつ、小さなことも教えてくれる、優しいサカエ。それを見守っていてくれるお父さん、お母さん。


 ……本当に優しい、この家族は。天使である私を、驚くでもなく警戒するでもなく、笑って受け入れてくれた。しかも自分たちの子供になってほしいとまで言ってくれた。


「……っ!」


 また涙が出そうになって、目をきつく閉じてお湯に顔をつけた。……嬉しい、本当に。

 涙は悲しいときに人間が流すものだと“資料”で読んだのだけれど、違うみたいだ。あの情報も間違うことがあるのね。


「……本当に、いいのかなぁ……」


 天界と地上。本来行き来することが難しい、隔たれた世界。


 どうしてあの川から流されてこの地上の川岸にたどり着いたのかわからない。ひょっとしたらあの川に世界を繋ぐ穴が開いているのかもしれないし、偶然かもしれない。私の知る限り、神は世界を移動する力を持っているけれど、わざわざそんなことをする酔狂な神はいない。もちろん天使にはそんな力は与えられていないから、地上に行くことは誰にも言えない密かな願いだったのに。


「そういえばアーレリーは何故ここに?」


 分からないことが多すぎる。最近会ってないななんて思っていたけれど、まさか地上にいたなんて。私を人間の体にしたのなら、アーレリーは私がここに留まるのがいいと思っているのだろう。でも……。


 ぶくぶくと顔の半分くらいをお湯につけながら考える。空気が泡になって水面で弾けるのが面白い。 

 大きく息を吸ってぐっと潜ってみた。熱いお湯が肌を刺激して目は開けられないけど、しばらく潜っていようと思った。でもすぐに苦しくなって水面に顔を出す。


「ぷはっ」


 “息が苦しい”ってこういうことかとぜーはーしながら笑った。体に負担をかけるような行動をしたことがなかったのだ。髪の毛からぽたぽたと垂れてくる雫が肩を濡らして寒くなり、深くお湯に浸かり直した。

 今度は目を開けたままもう一度潜ろうかと好奇心が湧いたのだけれど、お風呂に入る前にサカエに言われたことを思い出して潜るのはやめた。“のぼせる”、とはこういうことだろうかと、熱くなってきた頬に手を当てて思う。指先もいつの間にかしわしわになっているが、元に戻るのだろうか? 


 私はお湯に浸かるのに慣れていないから、のぼせないうちに出た方がいいと注意してくれた。……サカエは、不思議だ。小さなことに気がついて、気が配れる人だ。


 ……もっと、話をしてみたい


 お湯を零さないようにそっと湯船から出て、サカエに言われた通り、最後にまたシャワーを浴びてからお風呂を出た。



 バスタオルで水気を拭いて、新しい下着と真新しいパジャマを手に取る。昼間お母さんが買いに行ってくれたものだ。


「……私の、服」


 下着はこんなものを身に着けるのかと小さな布地をしげしげ眺め、破らないようにとそっと穿いた。ぴったりとお尻に沿うようで手触りも気持ちいい。

 もうひとつ、胸の辺りを覆うものだと言われて渡されたものを、あっちこっち引っ張ってなんとか着けてみた。胸が収まったので多分、着け方はあっていると思う。あんまり大きくない胸だけど、人間になってからは柔らかくなったような……気がする。

 お母さんは『ちゃんとしたブラジャーは、測ったほうがいいから後で一緒に買いに行きましょうね』と言っていた。今つけているのだってちゃんと胸のお肉を収めていると思うのに、ちゃんとしたのってどんな風だろう。

 パジャマは白地にピンクの小花が散った上下分かれたタイプのものだった。裾にはレースがついている。『寝るときにこんなに可愛い服を着るの?』と聞いたら、お母さんは笑っていたっけ。


「ふふ、私の服かぁ……」


 可愛い花のボタンがついた胸元をつまみあげて思わずにまにましてしまった。自分のために用意された服、可愛い色、さらりとした着心地。昼間のうちにお母さんにお礼は言ったが、もう一度言いたい。




 脱衣所を出たら台所の方からサカエの声がしたので行ってみると、なにやらお母さんと話し合いをしているようだった。


「頑張るぞー!」


 と気合を入れて腕を上げたので、


「何を?」


 と聞いてみたら、


「なんでもないんだ」


 と誤魔化されてしまった。……なんだったのだろう?



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ