1 死体=天使…嫁?
それはいつもと何も変わらない、夕暮れの帰り道。土手沿いの道を軽快に走る軽トラを道の脇に止めた。
落ちていく太陽が地平線の縁で粘り強く光を放つ。赤からオレンジ、そして紫の何ともいえない絶妙なグラデーション。空が美しすぎて車の窓から横目で見るだけでは満足できずに、いつも車を止めて魅入ってしまう。
エアコンをかけずに全開にしていた窓に両腕を置いて身を乗り出すようにする。こうやって仕事帰りに車を止めて一服するのが日課だ。ヘビースモーカーではないけれども、ゆったりとした川の流れを眺めながら一息つくのが気持ちいいからそうしている。早く帰っても、さっきまで現場で一緒だった親父とまた会うだけだし、夕飯までまだ時間がある。
タバコに火をつけて深く息を吸う。チリチリという小さな音が、風のない静かな土手の上で耳に届く。ふう、と白い煙を吐き出して、ただ下流に向かって流れていく水の流れをぼんやりと眺める。空をオレンジに染めながら眩しいほどの光を四方に放ってただゆっくりと沈んでいく太陽に目を細めたおれは、ふと川辺に何かが流れ着いているのを見つけた。何か、大きな白い塊がごろごろ丸い石の溜まった川辺にうち上がっているようだ。
「なんだろう」
ただの好奇心でもって、タバコを咥えたままでトラックを降りた。
土手から続く急斜面を滑るように下り、ザクザクと音を立てて砂利道を進む。川に半分浸かったままの白い塊に近づいて、しげしげとそれを見つめる。
おれはしばらくの間、咥えていたタバコを落としたことも気付かずに口をあけていた。
白い塊から伸びる白い腕。
――人だ。
すぐさま頭を過ぎったのは死体かもしれないという発想。川辺に打ち上げられた人間など、溺れて上から流されて来たのだと想像するのは簡単だ。
おれはおっかなびっくりしながら更に近づいてもっとちゃんと確認しようとした。が、その人間の腕が伸びている塊が何故か白い羽で覆われているのを見て、首を傾げてしまった。
――羽?
白い羽は大きな翼だった。いくつも重なるように折りたたまれた翼が、全身を覆っているようだ。その証拠に翼の山の先にこれまた白い二本の足が伸びている。顔は見えないけれども、腕と足の感じから言って倒れているのは女性だ。
その人ををおれは呆然と見つめていた。やはり上流から流されてきたのだ、身に着けている青いワンピースはところどころ切れてしまっていて、未だ半分以上川に浸かったままの体は、死体のように青白かった。何で翼が、と思ったけれど、何か演劇の最中とかで羽を背負ったまま川に落ちたのかもしれない。……うん。
「……あー、と、……死んでる、の、か」
反応を確かめるように声に出してみたが、反応はない。おれはどうしたものかと、短髪をがしがしと掻いてため息をついた後、うつ伏せのその体をとりあえず仰向けにしようと腕に触れた。
案の定、体は氷のように冷たかった。背中に背負った羽のせいで完全には仰向けにはできずに、とにかく上体は上向きになった。ようやく見えた顔には、やはり岩にぶつけたとおぼしきあざや傷が顔中についていてとても痛ましい。肩くらいまでの茶色の髪、傷だらけでなければきっと美人なのだろう鼻筋の通ったシャープな輪郭。長い睫毛。
眉をひそめながら、よく刑事ドラマで見るように脈を確かめた。細い手首をそっと掴んで血流を探ってみたが、やはり期待した脈動はなかった。
――可哀想に、何だって川なんかで
事故か自殺か分からないままとりあえず警察か、と思いきょろきょろと公衆電話を探す。しかしここはだだっ広い川原、電話はおろか人っ子ひとりいない。……うーん、どうしたものか。
「ちょっと待って!!」
誰かを呼ぼうにも人影もない、と思っていたがキキーという盛大なブレーキ音とともに、大きな声が聞こえておれは顔を上げた。おれはおれに声を掛けられたのかも分からずに声と音のした方向を見遣ると、一台の自転車が土手の上のおれの軽トラの隣に停まり、ひとりの女性がその長い黒髪を振り乱しながらこちらへ向かっておりてくるところだった。
「ひとを呼ぶのは待って! 警察に、電話するのもダメよ! したって、身元不明に、なっちゃう、だけ、だから!」
はぁはぁ、と息を乱しながらおれのいるところまで下りてきた女性は、肩を大きく上下させながら苦しそうにそういった。そして物言いたげなおれの表情に気づいたのか、『ちょっと待て』という様に左手をおれに向かって伸ばし、大きく呼吸をした。
女性は気だるげに長い髪を掻き揚げた。太陽の光の残滓に照らされた顔は、切れ長の黒い瞳の相当な美人だった。おれは女性の発言に内心で首を傾げながらも、何も言わずに彼女が何かを言い出すのを待った。……人と話すのは元々そんなに得意じゃない。ましてこんな美人な女性と会話したことなどない。『枯れてるなぁ』と他でもない親父に言われたときは正直ちょっとへこんだが、そういう性格なのだ、仕方がないだろう。
黒髪の女性はおれの内心の葛藤には気づきもせず、ようやく息が整ったのか大きなため息をついて、川辺で痛々しい姿のまま横たわる女性を見つめて呟いた。
「……アル。なんでこんなところに」
そういって女性は悲しそうに目を細めた。泣くのか、と思ったけれども、涙が零れることはなく、女性はしばらくそのまま目を閉じていた。どうやら知り合いのようだ。
――アル。そういう名前なのか
おれは茶色の髪の翼を背負った女性を眺めた。小さな体、小さな手。羽を背負ったまま横たわる彼女は、まるで小さい頃に絵本で見た天使のようだ。見れば見るほどリアルなその羽。翼はなんと三対、六枚もついていて、どんな風に着けているのやらきっと重いんだろう。
その翼が本当に羽ばたくことのできるものなら、彼女は川に落ちることなどなかったに違いない。おれは もう二度と開くことのない瞳がどうにも悲しく、初対面の知らない人だというのに胸をぎゅうっとつかまれたような思いを味わった。
ふと、傍らにいた黒髪の不思議な女性が、おれのことをじっと見ているのに気づいてたじろいだ。慌てて体の向きを変えて横目で女性の視線を伺う。こういう美人はどうも苦手だ、男をからかうのが上手いと思うから。
「……ねぇ、あなた独身、よね?」
やっぱり美人の考えていることは分からない。質問の意図は読めないが、碌な話ではないような気がする。しかし嘘をつくのもあれなので、おれはゆっくりと頷くことで肯定した。
「恋人は、いるのかしら?」
尚も続く不可解な質問。死体の傍でお誘いされているのだろうか、おれは。この女性は一体何を考えているのか。
「……いない。それが、どうした?」
今度は低い声を響かせて答えた。同僚曰く、地獄の底から響いてくるような恐ろしい声とのことなので、このわけの分からない美人も怯むだろうと思った。
しかしおれの意に反して、女性はにっこりと満足げに笑ってパンと、両手を打ち合わせて喜んだ。どこまで図太い女なのかと一瞬あきれ返ったところで、女性は更に意味不明な言葉をおれに投げてきた。
「あら、ラッキー、ちょうど良かったわ。あのね、その子、お嫁にもらってやってくれる?」
「…………は?」
おれはたっぷり間を空けて、間抜けな返事をした。言葉が頭の中をぐるぐると回っていて掴めない。……その子、とはどの子か。自分自身の為のお誘いではないのか。……は? 嫁? ……よ、め?
混乱し絶句したおれを見て、女性はこともなげに傍らの死体となった女性を指差す。
「この子よ、この子。大丈夫、すぐに蘇生するから」
女性の指の指す方向を辿っていって、やはり彼女の言っている『この子』が、翼を背負った女性であることを確認し、おれは何をどういったらいいかわからなかった。
……もう死んでいるんですけど、蘇生ってどういうことですか。聞きたい言葉が声にならず、ただ目をぱちぱちさせて、目の前の女性に視線を戻した。
「あのね、この子って人間じゃないの。気づかなかった? 羽、生えてるじゃない」
そう言われておれは再び視線を下に戻した。羽が、生えている……? 作り物じゃなくて?
「まぁ普通はそうは思わないかもね。んー、乗りかかった船だと思って巻き込まれて頂戴、こうしてアルを見てしまったことだし」
なんでもない風にひらひらと右手を動かし、笑顔で言う美人。巻き込まれるって、おれが、か?
「……この子は、天使よ、天使。だからこの程度では死なないし、死んでないから、気がついたら介抱してやって欲しいのよ」
再び投げ込まれた爆弾。“天使”?……なんともいえないトンデモ話におれは気を遠くした。このままここで倒れてしまって、その後で目を覚ましたい。そうしたらきっとこの死体だろうと黒髪の美人だろうと目の前からいなくなっていて、ああ夢だったと安心できるだろう。
「……信じてないようね。まぁいいわ。私の言うとおりにして頂戴。まずこの子をあなたのトラックに乗せて家に連れて行って。そしてお風呂の準備をするのよ。温めがいいわ。いい? 大切なことだからね?」
気絶したいおれを置き去りにして、黒髪の美人はもうおれが死体で天使な彼女を受け入れる話を進めている。……だから美人は嫌なんだ、なんだか自分に絶対の自信を持っているから。
「背中の羽が消えたら息を吹き返すから、そしたら少しずつ温めてあげて。人間と同じ状態になれば低体温はまずいから、ちゃんと様子を見ながら温めるのよ。それからしばらくは安静に。多分動けないだろうから寝かせててあげてね。……まぁこんなところかしらね、注意事項は」
流れるように言いたいことを言った美人は、完全におれを置いてきぼりにしたままで先に進む。「おれは受け入れるなんて一言も言っていないぞ!」 と大声で言ってやりたいが、言葉にならずに口が開いただけだ。……何故言えないんだ、この口下手が。
おれが自分自身を罵っている間に、黒髪の美人は彼女曰く天使である茶髪の女性の前にしゃがみこんだ。そして傷だらけの女性の額にそっとキスを落とす。そして小声で何かを呟いているようだったが、おれの耳には届かなかった。
「あ……の、おれ……」
ようやく口に出た言葉は役立たずの呟きで、それでも黒髪の美人の注意を引けた。しゃがんだままでおれの方を見上げ、首を傾げる美人に、勇気を振り絞っておれは言った。
「……天使、とか、信じられないし、死んでる、し。……それに、よ、嫁って、なんで」
途切れ途切れなのは勘弁して欲しい。おれは本当に口下手なんだ。
「ああ、それは身分が必要だからよ、この子に。結婚して守ってもらうのが手っ取り早いからそう言ったの。だってあなた、独身で恋人もいないんでしょう? ちょうどいいじゃない?」
おれの振り絞った勇気を粉々に潰すような発言だった。拒絶したはずなのに全く伝わらない上、手っ取り早くてちょうどいいなんて、おれの人権はどこへ行ったというんだ。
「大丈夫、書類関係はこっちで準備しておくから、この子が気がついたら一緒に役所にいらっしゃいね。結婚の手続きとあと戸籍関係いじってあげるから」
「え、あ、だから、そういうことじゃ、なくて、おれは」
本格的に怪しくなってきた話にストップをかけるべく、おれは素早く口を開いた。しかし美人の強引さを止めることはできなかった。
「うん、何かあったら相談にきたらいいわ。私、平日は役所の窓口にいるから。……じゃ、よろしく」
強引に話を終わらせて片手を上げた美人に、おれは思わずぽかんと口を開けてしまった。どう頑張っても敵う気がしない。美人はそうやって言い負かしたおれに満足したのかくすりと笑って踵を返した。
「あなたが面倒をみればいいんじゃないか」というもっともな意見を口にできないまま、おれは揺れる黒髪が遠ざかっていくのを見た。なんだかその髪は黒と言うよりは群青に近い気がするとぼんやり思った。夜の空のような濃い群青。
傾斜を登りだした美人がふとこちらを振り返って指を鳴らした。ぱちん、という軽快な音が響いて、おれは目の前に何かが落ちて来たのを無意識に受け止めた。
ふわりと浮くように軽いその何かの正体は、先ほどまで石の上で転がっていた他称天使の女性。叫び声をあげそうになって動かした腕に、水に濡れた羽の滑らかな感触が本当にリアルで、口を開けたまま声は出なかった。代わりによく見えるようになった女性の顔を見つめる。……この人が、目を、開けたら。
「……その子は私の妹のようなものなの。……よろしく頼むわ、守ってあげて」
頭上から響いた声は悲しそうなもので、はっと顔を上げて見れば黒髪の美人がその自信に満ちていた表情を曇らせて微笑していた。おれは女性を両腕に抱いたまま、彼女が傾斜をのぼり切って自転車に乗って去っていくのを、金縛りにあったように動けずに見送った。
視界から自転車が消えたとき、おれは改めて我に返って頭を抱えたくなった。しかし両腕は使えずに呻いた。
……腕に抱いた女性の軽さ。気を失った人はすごく重いと聞いたことがあるのに、これは軽すぎるだろう。自分は仕事柄、力はあるほうだけれど、人ってこんなに軽いものだろうか?
眠ったように閉じられた彼女の瞳と濡れた睫毛を眺め、おれは決意した。
――とりあえず、あの美人の言うとおりにしてみよう。
家に連れて帰ってお風呂に入れる。もし生き返らなかったら、その時は警察に電話して事情を話そう。
おれはじゃりじゃりと盛大な音を立てる小石を踏んで軽トラに向かって歩き出した。鮮やかな夕暮れはいつの間にかすっかり去って、漆黒の空に大きな月が顔を出していた。