川の神様がくれた命の欠片
夕焼けだった。
皆で遊んでいて気がついたら、日が暮れかけていた。
たくさん遊んだ後の帰り道。一人だと少し寂しかった。
辺りはこれからくる夜を歓迎するかのように静まりかえっている。
僅かな虫の声と、川の流れる音。それから僕の足音が、田園の中で消えては生まれる。
しかしそれもやがて耳に馴染んで聞こえなくなってしまう―…。
それは、そんな帰り道の途中、僕が橋を渡ったときの話。
誰かが泣いている声がする。
初めは気のせいだと思ったけどそれは橋の真ん中へ近づくにつれて大きくなった。
すすり泣くような悲しみに満ちた声。
僕は橋の手摺に身を乗り出して河原の方を見た。
しかしすぐに河原で誰かが啜り泣いても聞こえるはずがないと気がつく。
橋から川までは約五メートルもあるのだ。
橋の上にも誰もいない。
だけど、泣き声は止まない。
「誰かいるの?」
僕はこの橋のどこにいても聞こえるように大きな声でそう聞いた。
「わたしの声が、聞こえるの?」
すると、橋の下のほうからそう返事が返ってきた。
僕はもう一度河原の方を見た。
しかし、やっぱり姿はない。
「君、どこにいるの?」
僕はまた大きな声で聞いた。
「君の下で流れてるの」
そう声がすると、静かに流れている川の水が石を投げ込んだときのように跳ねた。
僕はまさかと思い、真下を流れる川をじっと見つめた。
水が不自然に揺れる。まるで笑っているみたいだ。
「君、もしかして、川?」
僕は橋げたに向かって歩きながら聞いた。
「そう。わたしはこの辺りを流れてる大瀬良川の子ども、瀬々良川っていうの」
「この川に名前なんてあったんだ…」
僕は橋げたから河原に降りて言った。
大瀬良川は知っていたけど、この川にも名前があるということは知らなかった。
「君、失礼だなぁ…、こんなに綺麗な水が流れてるっていうのに…」
川は怒ったように僕の目の前の水をばしゃばしゃと跳ねた。
「ごめん、ごめん。だけど、すごくいい名前だね」
僕は顔に跳ねた水滴をごしごしと拭き取りながら言った。
「ほんと?ほんとにそう思う?…だったら嬉しいな」
「ほんとだよ。僕、嘘つかないもん」
僕は川に向かって小さくブイサインを見せる。
「あ、そうだ。ちょっと手を水に浸してごらん?」
「何するの?」
「いいから、早く」
僕は言われるままに手首まで手を水の中に入れた。
怪我をしていた指先が少し痛かったけど、冷たくてとても気持ちいい。
「わ、手がすごい汚れてるよぉ…」
「だってたくさん遊んできたんだもん」
「そっか。…じゃあ、ちょっと目を閉じてくれる?」
僕は手を水に入れたまま、ゆっくりとまぶたを閉じた。
すると、急に手が暖かくなって誰かに触られた気がした。
不思議とそれは怖くなんかなかった。というよりも逆に安心できた。
「はい。目を開けていいよ」
水がまたもとの冷たさに戻って、川はそう言った。
目を開けてみると、そこにはとても綺麗になった手があった。
「あれ?怪我も治ってる…!」
僕は指先を見て更に驚いた。
さっきまでひりひりと痛んでいたのに今はなんともないのだ。
「どう?すごいでしょう、わたしの力」
「うん、すごいよ。ありがとう」
「いえいえ」
夕日に照らされた川下のほうがきらきらと光って笑っているようだった。
「あ、そうだ。瀬々良川さん」
「どうしたの?」
「さっき、何で泣いてたの?」
「…寂しかったんだ。ずっと一人だったから…」
「お友達とか、いないの?」
「うん…。海に流れるまでずっと一人なんだ」
「そっか…」
僕がそう言うと、なんだか重たい空気になってしまった。
川がまた泣き出しそうだ。
「ね、瀬々良川さん。泣かないで?」
「うん…」
「あ、そうだ。今度、僕のお友達を紹介してあげるよ」
「え?」
「大丈夫。みんな優しいから瀬々良川さんをいじめたりしないよ」
「そっか。君のお友達だもんね。きっと優しい人なんだろうな」
「うん!みんな喜んでお友達になってくれるよ」
「よかった、ありがとう」
僕は川の水に自分の笑顔を映した。
川はそれを見て微笑んだ。
「それじゃあ、僕、もう帰らなくちゃ」
「あ、もう夜になっちゃうもんね…」
「うん。お母さんに怒られちゃうよ」
「そうだね、それじゃあバイバイ」
「うん、次はいっぱいお友達呼んで来るね!」
「ありがとう」
僕は手を振った自分を川に映して、河原を後にした。
しかし、ここで急に僕の記憶は途切れている。
まるでノートを破りとったようにその後、家に着いた記憶も、ご飯を食べた記憶もない。
次に気がつくとそこは、ある病院の一室だった。
「よかった!目を覚ましたわ!」
「…お母さん?」
僕は眩しさに耐えかねて目をぎゅっと瞑りながら声にそう尋ねた。
しかし、声は僕には答えずに、泣いているようだった。
「起きたのか!」
次に飛び込んだのは、男の人の声だった。
「お父さん?」
僕は再び尋ねるも、今度は誰かに抱きしめられて、遮られた。
この暖かさは、川に手を入れたときと似ている。
そして僕はゆっくりと目を開けた。
涙目のお母さんが僕に抱きついていた。
それを見て、なんとなく状況がわかってきた。
「ねぇ、お父さん。僕、どうしたの?」
「…覚えてないのか?」
「うん、全然…。」
「そうか…。お前はな、一週間前に川に落っこちてずっと寝たきりだったんだ。」
「今まで?」
僕は驚き、そう聞いた。一週間も寝ていたなんて。
「そうよ、今までずっと。お母さん、目を開けるまでずっと手を握っていたのよ」
お母さんが答えると、僕の手をぎゅっと握った。
『ちょっと目を閉じてくれる?』
ふと誰かの声がして僕は目を閉じた。
そして、再び驚いた。
「お母さん?」
お母さんに握られた手はまるで瀬々良川とおんなじ温かさだったのだ。
ああ、そうか。これは全部、ユメだったんだ。
きっと僕を流してしまった川が僕を救ってくれたんだ。
「友達を連れて行くって、約束しちゃったんだった」
そして僕は今夜もユメの中へ入っていく。
また、会えるかな、と胸躍らせて。