天下統一編 第三話
天正16年(1588年)5月1日 サナギから蝶へ
「茶々、殿下の命があった。関白の室に入り、子を設けよとの事」
感情を極力挟まないよう淡々と言う三成。
「ほほう。私めに死ねと言わのかえ、三成!」
鬼も殺さんといわんばかりで睨みつける茶々であった。
「済まない。儂もそなたと添い遂げたかったのだが…そうもいかなくなった」
三成は、愛する人(茶々)も父(秀吉)もどちらも選びたくはなかった。
「なぜ、私と共に往こうと言って下されぬのです。そういってくだされば、喜んでお供しましたのに。なぜに・・・」
「済まない。儂からは、それしか言えぬ」
女人を連れて逃亡しても、秀吉ならば草の根を別けてでも探し出そう。捕まり茶々に逢えなくなるくらいならば、秀吉の側に置いた方が安全ではないか。いずれ茶々が子をなせば蟠りもなくなるはず。一族郎党の事も心配しなくてもよい。それがお互いに一番良い事なのだ。そう三成は自分と折り合いをつけていた。
「なぜ気にかけて下されたのです。あんまりです。どうしてあの時、母上の後を追わせてくれなかったのですか?」
「天下泰平の為、必要なのだ。茶々、豊臣家の世継ぎを生んでくれ。頼む」
夢見がちの年頃であった茶々に突き付けられた、おぞましい現実がそこにあった。
愛する人に他人の子を産んでくれと懇願されたのだ。正気を保てというのは難しいというものである。茶々の脳は現実を拒否するかのように愛しい石田三成の懇願を聞きつつも、意識が遠のいていくのだった。朦朧とする意識の中で母上の声を聴いた気がした。
「愛しい愛しい、茶々。聴いてちょうだい。貴女が妹を守るのよ。気位の高い貴女には難しいかも知れないけど。生きて乱世を生き抜いて」
(母上とのお約束、お茶々けっして忘れた訳ではありませぬ。ですが私は…)
その日、心の中で亡き母(お市の方)と愛しい男(石田三成)との別れを告げたのだった。
「いいわ、貴方の言うとおりにしてあげます。ただし、貴方はこれから私の臣下よ。逐一報告を私に入れる事。いいわね、三成!」
「ああ、解ったそうする。茶々、気落ちするなよ。できるだけ会いに行くからな」
そういうや三成は足早に去っていた。
「三成の馬鹿」
三成が去った方角を見つめながら茶々の瞳から雫が流れ、口からは言の葉がこぼれた。
(貴方の辛い立場も解りますわ。でも悔しいではありませんか、他人に翻弄される人生なんて。私はこれから、自分で人生を切り開いていきます。さよなら、愛しい人)
天正16年(1588年)5月吉日 浅井茶々、豊臣秀吉に嫁ぐ。
豊臣秀吉を眼にした瞬間、母上(お市の方)が語っていた事をフラッシュバックの様に甦った。
「兄との逢瀬を観られたの。あいつは、きっと私を手籠めにして織田家に取り入ろうとしたのよ。汚らわしくて、今でも身の毛がよだつわ。死ねばいいのよ、あんな男は!」
「よう来た、よう来た。来たという事は儂の子を産んでくれるという事でええかの?」
秀吉の声で現実に戻った茶々は、憎々しげ睨みつけ命令した。
「猿、無礼である。私めは貴様の主筋、信長公妹お市の方の子であるぞ。控えい!」
家臣一同どよめきあり、取り押さえようとした家臣を秀吉は手で静止させた。
そして上座から降り、茶々を上座に座らせたのだった。
「無礼を働く私めを斬れぬか猿。そんなに私めが欲しいのか。くくっく。
天下の猿に、これだけの無礼を働いても殺されぬ地位か。よかろう。そなたの室に入ってやる、喜べ猿よ…ははは」
気位高く優しい茶々が、壊れ始めた瞬間であった。
(死神が首目掛けて鎌を振り上げた、そのときこそ耳元で囁いてやるわ。あれは、お前の子ではない。お前が最も信頼していた三成との子だとね。あの猿がどんな顔をするか今から見ものだわ、ははっは)
その後、孝蔵主(大奥を取り締まる事務次官)主導の元、盛大な婚儀は滞りなく終わった。席上にいた石田三成を観る事は一度も無かった。
この時とき石田三成28歳、浅井茶々19歳。
婚儀と同時に、豊臣秀吉は大仏殿の基礎の儀を行わせた。
藁にも縋る思いで神仏に願いを込め、実子誕生を願ったのだろう。