天下統一編 第二話
天正16年(1588年) 4月14日 18:00
豊臣秀吉が天皇の権威を最大限利用する為、御所にまで迎えに行った。そして、みずから天皇の裾を取って人力車への移乗を手伝うや、大地が唸らんばかりのどよめきが起きた。前例でさえ、将軍が自邸の門外で迎えた位しかなく、天皇の裾を取るなど考えられない行為だったのだ。その為、誰もが驚嘆せざるを得なかった。
天皇御一行は18日までの5日間、管弦・和歌会・舞楽・剣舞を見物。その後、銀5530両余・米800石を近江国高島郡8000石の地を貢物として秀吉から提供を受けた。天皇御一行は、至れり尽くせりの中、興奮は最高潮に達した。
そんな情況で大領主である前田利家・宇喜多秀家・豊臣秀次・豊臣秀長・徳川家康・織田信雄は天皇の眼下で連署をもって秀吉へ臣従を誓った。また、中堅領主21名も同様の誓詞を関白に出された事が報告されていた。
「ふむ、流石は大殿。人を驚かす技は、いまだ衰えぬか。同じ事を考えた者もいたであろうが、誰も真似出来ぬな。故に天下人の道を歩めたと言えようか。他に変わった点は無かったか?」
「扇子で剣舞の舞を演出した秀俊殿に、天皇は大変な喜びようだったと聞き及びます。またそれを拝見した関白ならび諸侯も大絶賛をされたとの事」
「羽柴秀俊かぁ。随分甘やかされた糞餓鬼と聞くが、百聞は一見に劣るとも言う。基次、そなた教育係として仕えてくれぬか?」
「御意」
この男の関心を買った事で、歴史は新たな道を紡ぎだす……。
天正16年(1588年) 4月14日 18:00 同時刻
「流石は、寧々様の養育は違いますな。武門の子らしく、素晴らしい剣舞でした。佐吉かんぱく、仕りましたぞ」
「……殿下! 如何なされましたか?」
密談中の石田三成(佐吉)は豊臣秀吉の応答が無い事に不審に思い近寄った。
芯の臓の辺りを押えながら突っ伏した豊臣秀吉が呻く。
「くそ。まだだ……儂はまだ死ねぬ」
聚楽亭の奥で、心臓を鷲掴みされる痛みを堪えながらもまだ諦めてはいなかった。
石田三成に介抱されながら、豊臣秀吉の呼吸は平常を取り戻していった。
「安心せい。発作は収まってきたようだ。儂が死ぬ前に幾つか手を打ちたい。そなたの力を借りるぞ」
「殿下! 何を弱気に。殿下にはまだまだ為すことがございます」
石田三成が弱気となった秀吉を諌めた。豊臣秀吉は夢をくれた恩人であり父であった。
「ごほ、ごぼ。豊臣家の跡継ぎは、実子から出す。止むを得ない場合は、浅野一門でなく木下一門から出すつもりよ。寧々にすまないが、自分と近い血が流れぬ者に継がせたくはないのだ……」
羽柴秀俊は秀吉にとって寧々(正室)懐柔の道具であり、愛玩動物の様な存在であった。大恋愛で結婚した寧々は、子供が生まれない事を大変悩んでいた。子供が生まれやすくなるという噂が有ればすぐ試し、祈願もしていた。だが、無情にも子をなすことは無かった。その為か不明ではあるが、寧々が身体を崩す事があり、秀吉自身も心配していた。そこで寧々の気持ちが和らぐならばと、寧々一族(浅野一門)から子を貰い受けたのだった。
「は、はぁ」
動揺隠しきれず、どもり気味に答えるのがやっとだった。石田三成は傲慢ではあるが才気溢れる羽柴秀俊こそが、次の後継者と観ていた。それだけに衝撃的な発言であった。
「そこで、信長公とお市様の血を受け継ぐ茶々を室に設けたい。そちに異存はあるまい?」
「……御意。ですがあれは噂では無かったのでしょうか?」
石田三成は、近江出身であり近江衆と呼ばれる緩やかな派閥に属していた。茶々も近江出身でもあり、三成は度々便宜を図っていた。秀吉も三成と親しい事を知っていた。茶々に悪い虫が付かないように、目付として言いつけたのはほかならぬ秀吉だったからだ。
「ふふふ、あれは知る人ぞ知る事実よ。儂は観たのだ、信長公とお市様の逢瀬をな。信長公は能力を示めされすれば、人格身分関係なく用いる方だった。だが試されるのだ。儂も度々死地へ派遣されて、何度おっちぬかと思ったか解りゃあせん。故に今の儂があるちゅう訳だ。商人の子がここまで出世できたのはそれ故ぞ」
「商人の子でござりますか、確か農民の子やご落胤とおしゃっていたように記憶しますが」
「儂は、堺の豪商と公家の娘の間に出来た捨て子だ。それを知った時は驚愕であったぞ。それ盾に資金調達もしたがな」
「では、その家から子を貰い受けては如何でしょうか?」
「すでに、後顧の憂いは絶っておる。運が良かったのは、同じ境涯に至った血族に秀長がいた事かのぉ」
豊臣秀吉や豊臣秀長が生まれた頃の京都は荒廃し、天皇を支える公家ですら食に困るありさまであった。実父は財で地位を買うつもりが、とある地方領主(戦国大名)の献金によりその計画は破たんした。そこで止む無く遠縁の木下家に養子として出した。尾張支店の奉公人として木下家の者もおり、養育費を出すには都合が良かったのだろう。また尾張は、距離だけでなく堺に匹敵するほど発展した商業地で有る事から、後継者育成にも最適であったのだ。そのお蔭で、足軽育ちにも関わらず、二人とも高い教養を身に着けていた。
「話はそれたが信長公の純血ならば、儂が子を為す事も可能であろう。ふふふ、ははは」
石田三成は呆然としたまま豊臣秀吉を残し退席した。
(羽柴秀俊様の事をあれだけ可愛がられていたのは、演技だったとでも言うのか)
(何時からか変わってしまったのだろうか。天下太平の世を創りたいと熱く語っていたあの殿下とは……とても思えぬ。だが儂は。許せ、茶々)
巷では「猿王」の生まれ変わりであるとの噂があった。器用さから指が6本あったとか、容姿が猿に似すぎているとか似てないとか。だからあれだけ側室がいても子ができないのだ。やはり猿と人の間に子は生まれるはずがない。そう揶揄されていたが、それでも豊臣秀吉は直系の跡継ぎを得ることに望みを持っていた。
このとき豊臣秀吉51歳、浅井茶々19歳。茶々と石田三成との恋は終わりを迎えようとしていた。
石田三成に茶々説得の命が下ったのは、それから暫くの事である。
茶々の両親は、織田信長と浅井お市の方説を採用。
豊臣秀吉の出自は、著者の見解です。
身分の高い側室への執着・幼少時の高い教養・蜂須賀正勝などの国人領主との関係性etc
地方領主…戦国大名の事を指す。
中堅領主…10万石以上の大名を指す。
大領主……50万石以上の大大名を指す。
国人領主…独立した小規模大名の事を指す。