天下統一編 第一話
フィクションです。また歴史を元にしておりますので、参考にした出版品etcと表現が被る事もあるかと存じます。予めご了承ください。
天正16年(1588年)2月 三成との対面
その日何時ものように、山口修弘と共に剣舞を楽しんでいた。
羽柴秀俊にとって剣舞は、日課で有り楽しみであった。学問にも秀でていたが、時折来る大人達の影響で武芸が大好きとなっていたのだ。優しく訓練をつけてくれ、褒めてくれるのだ。それが堪らなく嬉しくて、暇さえあれば行っていた。
「若ぁ、関白様のお呼びでござる。行儀には、くれぐれも気を付けて下され」
剣舞の最中声をかけたのは、30代後半の顔長な利発そうな男であった。
この男の名は、山口宗永といい山口修弘の父親である。武芸だけでなく学問にも秀でており、性格は頑固一徹に尽きた。信長の教育係であった平手正秀のような人材として抜擢されていた。関白とは、天下の半分を領有する豊臣家の当主、豊臣秀吉のことである。
「へぇ、珍しいね。はは様でなく、とと様がお呼びとは。怒られるのかな」
「それは、若の態度次第ですぞ。剣舞も学問もよいですが、礼儀作法をしっかりしてください」
「解っているよ、宗永の顔に泥を塗るつもりはない。でも本物なら塗るかもね、ははは」
側女に顔の汗を拭かせながら、着替えに腕を通した。
羽柴秀俊に好意的な者は、信長公の再来と褒めた称えた。織田信長が自害した年に、生を受けたからだ。また穏やかな容姿と違い、かなり烈しい所の有る子供であった。そういう部分も幼少時の信長によく似ていた。また余り好意的でない者は、礼儀作法のみを評価し近寄る事はなかった。
住まいは聚楽亭といい、豊臣秀吉の政庁兼邸宅である。
居住区を中心に、防御陣地や駐屯施設があり、その周辺には堀を巡らせてあった。豪華さを好む秀吉らしく金箔瓦などがふんだんに用いられ、さながら金銀御殿のような建物となっていた。聚楽亭を囲むように大名屋敷、武家屋敷、平民屋敷という順に配置されていた。【快楽の数多集まる都で、不老長生したいものだ】と秀吉の発言で建設された夢の御殿である。
「羽柴秀俊公の御なり」
歩くたびに板が揺れた。下の者ども額を床にこすり付けるのだ。高々6歳の小僧に家臣一同までもひれ伏した。豊臣家第一位継承権者となっていたからだ。秀俊は一人一人の顔を見渡し、気になる男がいた。媚びへつらう者ばかりの中で、頭を少し上げてこちらを眺めている若者がいたのだ。この若者こそ、有能な吏僚として活躍する石田三成であった。その時28歳。これが初対面であった。媚びへつらう者が多い為、羽柴秀俊は傲慢になっていた。
「よう来た、よう来た。もっとちこう寄れ。そなたには、儂の代理を任せたいだぎゃ」
豊臣秀吉は豪華絢爛な宮殿に招き、経済力と軍事力を天皇に見せつけたかった。大領主らに忠誠誓わせる誓紙を出させ、豊臣の力を天皇に知らしめる役目を秀俊に仰せ付けたのだ。責任重大であることは、幼子の秀俊にも解っていた。
天下の半分を領したものの、豊臣秀吉の権威が弱かった。成り上がり者の領地では、たとえ領土が広く、主君が勇敢でも、主将が戦いに敗れて自決すれば、その家来は散り散りになるか、降伏する時代なのだ。また織田信長の孫・三法師の後見人という名目で織田家の勢力を継いでいた為、彼が成人すれば領地を返還する義務が生じる恐れが有った。織田一門がその事で結束した場合、織田家へ政権返還を求められる事は容易に想像された。そこで豊臣秀吉は、権威づけに関白職を求め得たのだ。人臣最高位である関白に逆らう事は、朝廷に弓引く逆賊として処罰できるのだ。秀吉は、謀反を酷く恐れていた。あれだけ重宝された明智光秀でさえ裏切る世の中なのだ。綱渡りで天下運営する秀吉を、孤独へ孤独へと追いやった。
「若、関白様の御用向きはどうでしたか?」
心ここにあらずのような状態が気になり、山口宗永は言葉をかけた。
耳に入っていないようで、羽柴秀俊は素通りし部屋に籠るのであった。
側近として仕える息子に問うた。
「若の様子を報告せよ」
大領主を引き連れ秀吉の代理として天皇と謁見する事。
秀吉に重宝されている、石田三成を気にしていた事などを報告した。
石田三成は、兵站に長けた人物で、戦場の兵糧番ともいえる存在であった。食糧なくば、戦争はできないのだ。
大領主=50万石以上の大大名を指す。
兵站・・・物資の補給・物資の輸送等