第二部 八歳〜九歳(根を張る) 第三章 最初の里帰り
夏が来て、初めて里帰りをした。
路線に乗って四十分。降りてから少し歩いた。
ユキのアパートのドアを開けたとき、焦げたトーストの匂いがした。
夜なのに、匂いがした。ユキがさっき焼いたんだろう。
俺はそこで少し止まった。
この匂いだ。
「ただいま」
「おかえり」ユキが台所から出てきた。
ユキを見て、どこかが違う気がした。少し老けた。でも少しだけ。八ヶ月でそんなに変わるものか、と思ったが、変わっていた。
「痩せた?」
「痩せてない」
「顔が変わった気がする」
「俺も?」
「あなたも」ユキは少し笑った。「大きくなったね」
「八ヶ月で大きくなる」
「なる。早いね」
夕食を食べながら、ラプラス社のことを話した。シバのこと。タジマのこと。ミコのこと。
ユキは全部、静かに聞いた。
「シバって人、厳しそう」
「厳しいけど、なんでって聞いても怒らない。なんでって聞き続けろ、って言われた」
「それは——」ユキは少し考えた。「いい人ね」
「タジマっていう先生は、問いがなくなることはないかもしれない、って言った」
「あなたのことをよく見てるんだね」
「まだ会って数ヶ月だけど」
「数ヶ月で言えることがある。数年一緒にいてもわからないことがある。時間じゃないよ」
俺はその言葉を少し考えた。
「ユキは俺のことわかってる?」
「全部はわからない。でも、割といろいろわかってると思う」
「なんで」
「毎日話してたから。ログ取りながら話してたから」ユキは少し笑った。「ログって、思ったより正直に残るよ。書いてる内容だけじゃなくて、書き方や、書くタイミングも、何かを語ってる気がする」
「空白が語る、みたいな?」
「そう。何を書いたかと、何を書かなかったかの両方が、データになってる」
俺はその言葉を、頭の中に入れた。
空白が語る。書かなかったことが、データになる。
「ソラに話してもいい?」
「もちろん」
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夜、布団に入ってからソラに話した。
「空白が語る、っていう言い方が気になった」
「ユキさんの言葉ですね」
「うん。書かなかったことが語る。数字に出ないものが、数字の外に残る」
「どういう文脈で気になりましたか」
「制度の話。制度は数字で全部を評価してる気がしてるけど、数字に入らないものがある。その入らないものが、空白として残ってる。その空白が何かを語ってるかもしれない」
「制度の数字の空白——とは、具体的にどういうものだと思いますか」
俺はしばらく考えた。
「素体スコアと実績スコアの間の、差。その差が、制度の数字に直接出てこない。でも、その差が何かを語ってる気がする」
「乖離、ですね」
「乖離?」
「あるべき相関と、実際の相関の間の距離のことを、乖離と言います」
「乖離、か」俺はその言葉を繰り返した。「いい言葉だ」
「どういう意味でいいと思いましたか」
「離れてる、という事実だけを言ってる。誰かのせい、とか、何が悪い、とか言ってない。ただ、離れてる、という事実」
「……確かに」
「その乖離が、制度の空白かもしれない」
ソラはしばらく黙った。
「その考え方を、もう少し続けることを、私は大事にしたいと思います」
「俺も」
「誓い3の方向に、近い気がします」
「情報を使って何かを生成すること——の、最初の形かもしれない」
「そうかもしれません」
布団の中で、俺はしばらくそれを考えた。
乖離。
空白。
語られていないもの。
それを、いつか語れる形にしたい。




