6 霧は凍るがウサギは跳ねる
「どうだろうね、って。朔、違うと言いたそう」
満が不満そうに言う。それに朔が、更に顔をイヤそうにして答える。
「炬燵、片付けろ、満。この匂い、ちょっとだと眷属……同類に感じるけど、よくよく嗅ぐともっと遠い。少なくとも犬ではない。苛々する匂いだ」
「イライラするってことは、敵対する相手ってこと?」
僕が訊くと朔はもっとイヤそうな顔をした。
「そこまでは判らないな。満が言うところの消臭剤の匂いの中に少し残っているだけで、殆ど薬品臭だ。鼻が可怪しくなる」
イヤそうな顔をしているのは、薬臭くて頭痛がするからかもしれない。
この村は消臭剤とか香水とか、使い過ぎだと朔が嘆く。
「さすがに牛小屋や鶏小屋からは本来の匂いがするけど、村の中に人間の匂いがしない」
人間の匂いはしない代わりに、香水の匂いはやたらとする。
「この村の人、みんな香水好きなんだと思ったよ」
それがどうした、とばかりに満が言うと、
「おまえは普段から化粧をしたり香水つけたりするから、鼻が慣れちまってるんだ」
朔が馬鹿にして笑った。
怒りで狼に化身しそうな満を抑えながら、
「でも、村人全員が香水ってのも珍しいよね」
朔に言うと
「そもそも香水って、人間が自分の体臭を誤魔化すために使うものだ」
と答えが来る。
「ところが、この村のヤツらは『誤魔化す』を通り越して消している。香水に使用者の体臭が混じるものだけど、混ざりっ気がない」
「お風呂大好きで、体臭が出る暇もないんじゃないの?」
不貞腐れ気味の満が言う。
「風呂場に流しっ放しにするほど温水を供給するって、揃いも揃ってお風呂だぁい好きだからなんじゃない?」
「満……少しはものを考えろ」
軽蔑をあからさまに朔が言う。
お願い、兄弟げんかは僕がいないところでしてくれよ。思わず僕は満の手を握る。喧嘩になれば大怪我をするのは決まって満だ。
キッと振り向いた満が一瞬、僕を睨み付けて、手を振りほどいた。僕の顔を見て少しは落ち着いたようだ。可哀想に満は、喧嘩じゃ僕にもかなわない。
「でもさ、なんのために村人は挙って体臭を消しているんだよ?」
「それが判れば今回の依頼も解決しそうだね」
満の言葉に僕が追加すると、朔が首を振った。
「いや、今回は依頼自体がかなり奇怪しい。『村長』以外の人影を見ていないし、村長もあの見た目で、やはり香水を使っている。不自然だと思う」
「依頼が奇怪しいのは僕も感じてる……村長も香水? 僕は気が付かなかった」
「バンちゃんがあたしたちと同じように鼻を利かそうったって無理」
クスリと満が笑う。機嫌を直す気になったようだ。基本的に明るく、いつでもご機嫌なのが満だ。
「そうなるとさ、僕たちはなんのために呼ばれたんだ?」
僕の疑問に、考え込んだ朔が躊躇いながら
「隼人を呼ぶしかないかな?」
と呟いて、満の顔がパッと輝いた。隼人に会えるかもと喜んだのだ。
が、でもなぁ、と朔が続ける。
「隼人、来れるのかな? イヌワシの縄張りなんて言ってたけどさ、本当は『無血神』の縄張りってのが来ない理由なんだと思う」
「無血神の正体が判らないうちは来ない?」
僕が訊くと、
「相手がどんな神でも隼人は負けないもん」
満がぽつりと言う。負けないと言いながら、かなり不安そうだ。
「隼人はそもそも日本の神じゃないからね。地場の神に喧嘩を吹っ掛けるなら、覚悟が必要」
と朔、
「だいたい、ここで神同士の戦いが始まったら収拾つかなくなるかも」
と僕。
「そもそも無血神って神なの?」
ここで満にしてはいいことを言った。
いや、違った、僕にとってはとんでもない事を言った。
「バンちゃん。あたしと朔は一応、神の血を引いてるって知ってるよね? だから社に近づけない」
満の言葉に青ざめる僕の顔(もともと青白いが)を見ながら、朔がニヤリとする。
「バンちゃん、社の様子を見に行けるのはキミしかいないようだ」
「いや、この寒さで出かけると帰って来れなく……」
「ウサギにでもなれば?」
事も無げに朔が言う。そして、
「ユキウサギなんていいね」
涎を垂らしながら満が言う。
コイツ、僕が油断したらすかさず食う気でいるんじゃないのか?
「ユキウサギってのは雪で作った紛い物だ。食えない」
朔が呆れて満に言う。って、朔も僕を食べる気なのか?
「どっちにしろ、人形であの階段は上れない。ウサギに化けて庭から出ていくといい――ついでにバンちゃんも村の様子を見てみるといいよ。僕たちとは違った発見があるかも知れない」
結局、僕はウサギに化けて社に行くことにした。霧になろうか迷ったけれど、外の寒さじゃ凍ってしまうと朔に言われ、それもそうだと思い直した。
「イヌワシに見つかるなよ」
「安心して。イヌワシに食われる前にあたしが襲う」
ゾッとする僕を尻目に人狼二人がクスッと笑った。
障子戸を開けて広縁に出ればガラス戸で、その外には濡縁がある。割と広い庭の奥のほうに半ば雪に埋もれた石灯籠が見え、大粒の雪が降り続いていた。
ガラス戸を開けると雪混じりの寒風が部屋に吹きこんでくる。
「寒っ……」
震える僕を
「さっさと脱いじゃえ」
満が煽る。
「確かに……きっとウサギになったほうが寒くないだろうね」
朔は静かに雪を眺める。
素っ裸で濡縁に出て、速攻で化身した。なるほど、朔の言う通り、ウサギのほうが寒さを感じない。毛皮を着こんだようなものだから当たり前か。
振り向くと僕が脱ぎ捨てた服を満が一纏めにしている。朔に頷いて僕は庭に飛び出した。
庭の周囲は熊笹の繁みだった。朔が書いてくれた村の見取り図を思い出しながら進んでいくと、疎らな人家と牛小屋・鶏小屋が記憶通りに並んでいる。うん、牛小屋からは、あの独特な臭いを感じる。人家に近寄ってみようかと思ったが、まずは無血神の社に行くことにした。
社はすぐに判った。近づいて耳を澄ますが物音らしきものはない。少なくとも中に生き物はいない。じゃあ、神はいるのか? どうしよう……ウサギの姿では神通力は使えない。人形に戻るか?
三秒あれば神がいるかどうかは判る。それくらいの時間なら、寒さにも耐えられるだろう。ここに誰かが来る心配も、って!
獣の視線だ! 見つかった! すぐさま逃げる、走り出す。もちろん向こうは追ってくる。
社のすぐ近くにいた。僕の足音に、きっと動かず見ていたんだ。こっちが気付く瞬時前に気付かれた。走りながら、チラリと見る。
タヌキ? 必死の形相で僕を追っている。僕も必死の逃げ足だ。雪を蹴散らし、飛ぶ、走る、飛ぶ!――ウサギとタヌキ、どっちが早い? 多分ウサギだ。ウサギであってくれ。脱兎のごとく、違う、脱兎となって僕は逃げる!
捕まれば確実に食われる。人形になっても、きっと食われる。裸ん坊の人間は無防備そのものだ。隼人ぉ、こんな事なら、霧にしときゃあ良かった? って、あれれ? 隼人? 羽搏き音が聞こえる――
僕を追う獣が急ブレーキをかけて止まる。僕も止まって羽音の主を確認する。隼人じゃない。あれは……イヌワシだ。
イヌワシはタヌキを追った。今度はタヌキが一目散に逃げていく。そうか、雪に紛れて上空からは、真っ白なウサギの僕よりタヌキのほうが目立ったんだ。タヌキのほうが……逃げる姿をよくよく見ると、あれはタヌキじゃない。
そう、あれは――アライグマ……?
まぁ、いい。タヌキもアライグマも似たようなもんだ。とにかく今は朔たちのところへ戻ろう。
濡縁に飛び乗るとすぐにガラス戸が開いた。満が僕を抱き上て、蒸しタオルで身体を拭いてくれる。そしてそのまま部屋に運び入れた。
「アライグマ?」
僕の報告を聞いて朔が首を傾げる。
「タヌキじゃなくて?」
「うん、あれはタヌキじゃない。アライグマだ」
セーターに袖を通しながら僕が答えると、朔と満が顔を見合わせた。
ところで、僕は動物に化身できるが着ている服まで化けさせられない。素っ裸で化身し、人形に戻ればまた服を着なくちゃならない。
面倒だし、動物の姿から人形に戻る時、周囲にすごく気を使う。人間は風呂屋ででもない限り、日常、素っ裸で人前に出ることがない。服まで化身できないのは朔たちや隼人も同じだ。朔たちをこの村に来るとき拾ったけれど、満が先に出てきたのはワンピースにコートを引掛けただけだったからだ。
「タヌキの匂いは感じたけど、アライグマはなぁ」
「臭わなかったと思うよ」
朔と満が口を揃えて言っていると、玄関で僕たちを呼ぶ声がした。村長だ。
「なんかさ、イヌワシが村に降りてきたって村人から連絡があってね」
と村長が言う。
「何を狙ったのかなぁ……滅多に村の中には来ないんだけどね。まぁ、気を付けてよ」
庭には出るな、風呂を使うときも気を付けろ、まぁ、人を襲いはしないだろうけどよ……村長がガハハと笑う。
「あれ? ミチルちゃん、炬燵、出したんじゃなかったの?」
「あぁ……出したけど、足を延ばすと向こう側に出ちゃうんだね。ミチル、知らなかった」
だから仕舞っちゃったよ、満の嘘を村長は信じたようだ。そうか、それじゃ、また明日、村長はニコニコと帰っていった。
村長の後姿を見送って、朔がぽつりと言った。
「あの男、タヌキだったら納得なのに……」




