4 神は社(やしろ)を留守にする
「犬っ掻きぃ~」
バシャバシャと音を立てて満が泳ぐ。そろそろ夜明けだが、降り続く雪で空はまだ暗い。
宿舎の風呂は、配給された湯を一般的な風呂桶に流しっ放しにしていて、そこから溢れた湯を大きな風呂――小さなプールに受けていた。プールのほうは、夏には本来の利用法で使っているのだろう。風呂桶と洗い場は長い廂が柱で支えられていたが、プールに日除けはなかった。
満は大喜びでプールに飛び込み、寒がりの僕は風呂桶で湯に浸かっていた。朔はプールに入ったが満のように泳いだりせず、降る雪を静かに見ていた。風呂桶とプールではかなり湯温が違う。風呂桶の湯は四十度くらい、プールはせいぜい三十度ちょっとだろう。
昨夜、朔が寝入ったところで宴会はお開きになり、片付けるという村長を『ミチルにお任せあぁれぇ~』と、満が半ば追い出すように帰した。
「朝は冷蔵庫にある物を適当に食べてね。十時ころには来るよ」
と、村長は宿舎を出て行った。
満が洗い物なんかするはずない。僕が片付け終えて部屋に戻るころには朔と二人、抱き合うように眠っていた。満が敷いたのか、朔を無理やり起こして敷かせたのか、ちゃんと布団にくるまっている。僕の分の布団も敷かれていたから、きっと用意したのは朔だろう。横になろうとしたら朔が掛け布団を開けてきたので、自分の掛け布団を引っ張って、朔の隣に潜り込んだ。やっぱりワンころは暖かい。三人で団子になって眠った。
僕たちの眠りは浅い。最初に目を覚ましたのは満だった。それに気が付いて、朔と僕が同時に目覚める。三時間ほど眠っただろうか。
「さて、どうする?」
満が悪戯そうな目をきらりと光らせた。
朔が言うには昨日、一足先に村に着いた二人は一通り村を見て回ったらしい。
人形ではなく狼の姿で村の周囲の積雪に紛れて村の様子を窺った。すると、点在する人家に人の気配はあるものの、出歩く姿は見かけなかったらしい。
名吉村は、連なる山の一つの七合目位に位置し、内部に傾斜はほぼない。唯一、大きく高低差があるのは村のはずれの石段だ。随分上まで続いているが雪に埋もれていて、ここしばらく上った人がいるようには見えなかった。石段から離れ、道を外れて上ったところ、どん詰まりに社があったという。
そのあと、村の外に通じる道を探したが、昨日、二人を拾った道以外は見つけられなかった。
歩いて山林を下っていくことも不可能じゃないが『今の時期、人間には死ぬ覚悟が必要だろうね』と朔が笑った。
「ってことは、警察の言っている集団家出はあり得ない?」
「あり得なくはないんじゃ? 開通するまでどこかに潜んでいて、みんな一緒に山を降りる」
「歩いて?」
「死にたきゃ歩けば?――普通の判断力のある人間なら車を使うさ」
「朔の言う通り、歩いていくのは集団自殺 」
満が嬉しそうに笑う。何が嬉しいんだろう……まぁ、満は何でも面白がる。
その満、いつの間にかポーションチーズを出してきて、もぐもぐ食べている。好物のチーズでご機嫌だ。
「石段の上の社が『無血神』だろうね」
「多分ね、他にそれらしいのは無かったから。でも、人を五人も隠せるような代物じゃなかった」
「社と言うか、立派な祠っていうか、微妙なところ」
満が朔の補足をする。
「せいぜい一人、隠せればいいって感じ」
「神の気配は?」
僕が訊くと、朔と満が顔を見交わした。
「神域に入り込まないように気を付けたから、下のほうから眺めただけなんだ」
朔が言う。そして、
「かなり近づいたんだよ。これ以上近づけば、ヤバいってくらい。相手がどんな神か判らないのに、不用意に近づいて怒らせちゃまずいよね」
と、満が言い
「まぁ、神域は感じなかったんだけどね。普通、『ここからは神域』ってエネルギーを感じるものなんだけど……本当に神を祀っているのかな?」
朔が首を傾げる。
「無血神なんて、聞いた事ある?」
僕が尋ねると
「うんにゃ、ないね」
と満が言い、朔がそれに頷き、更に情報を追加する。
「それと、もう一つ、この村には我が眷属がいない。珍しい村だ」
「飼い犬のいない村か。確かに今時、誰も犬を飼ってないって珍しい」
「クマやシカを狩る時、犬がいると便利なのにね」
ここで満の腹がグゥと鳴る。満はきっと、チャンスがあればシカを襲いたいんだ。生きたシカが食べたいんだ。
隼人と知り合うまでは、山で狼の姿で暮らしてたと言っていた。小動物――ウサギやムササビなんかも食べたけど、シカが一番旨かった、いつか朔が言っていた。今じゃ隼人に慣らされて、人形の時は人間の食べ物でも大丈夫になったって笑っていたっけ……隼人と僕が日本を留守にしてる時は、普通に人間として生活していると言っていた。
時刻を見ると五時になるところだ。食事にするかと訊くと、朝ご飯は七時と決めてると満が言う。
冷たい肉は嫌だから冷蔵庫の肉を風呂で温めようと言い出した。どうやら生で食べる気だ。牛肉の塊をラップできっちり包み、それを更にキッチンペーパーで包んだものをファスナー付きの密閉袋に入れて風呂場に持ち込んだ。
「ひゃっほー」
肉は朔に任せっきり、満はさっそくプールに飛び込む。
宿舎の周囲には、見える範囲に建物はなかった。朝っぱらから風呂で騒いでも、きっと誰も気が付かない。
「不思議だね。大抵の怪我はすぐ治るのにバンちゃんの首の傷、いつまでたっても消えないんだね」
ひとしきり泳ぐと疲れたのか、プールサイドで満が言う。
「人間だったころの傷は治らないって隼人が言ってたよ。僕は首を落とされて死んだらしい」
「へぇ……オオモリだっけ? ヤマモリだったっけ?」
「アツモリだ」
プールの向こうサイドで朔が笑って正解を口にした。それが僕が人間だったころの名前らしい。
「伝承では首と身体、別々に埋葬されたことになっている。だけど事実は、首を落とした男が首と身体を繋げて甦りの魔術を施した」
補足するようにそう言った朔は相変わらず降る雪を眺めていて、視線を上下に揺らしている。チラチラ動くものに飛び掛かりたそうな子猫に似た表情だ。
人間だったころの記憶は死のショックで僕の中からは消えている。蘇りの儀式の直後に起こったことは僕の心が思い出すのを拒んでいる……隼人がそう言った。
『蘇ったキミの目の前にいたのは瀕死のキミの恋人……蘇りの魔術を行った男は、キミに恋人の血を啜るよう言った。そうすれば魔術は完成だった』
僕は恋人の血を飲むなんてできなかったらしい。魔術は未完成のまま、僕は永い眠りについた。僕を殺したことを後悔していた男はそれでも諦めず、僕を石棺に入れて山奥の洞窟に隠した。
長い時間が過ぎて、隼人が僕を起こす。人間の僕が命を絶たれ、蘇らされ、眠りにつく、一部始終を隼人は上空から見ていて、いつになったら起きるのだろうと思っていたそうだ。
『吸血を拒んだくせに、ボクを見るなり首筋に噛みついた。あぁ、可哀想に、随分と腹が減っていたんだなぁと思った』
本来ならば人として蘇るはずだったものが、血液の補給が遅れたことにより人ではなく吸血鬼になったんじゃないかな、と隼人は言っていた。
「なるほどね。だからバンちゃんの首の傷って、ネックレスみたいにグルリとあるんだね……ところで隼人は来ないの?」
僕の首の傷なんて、どうでもいいって感じで満が言う。隼人と聞いて恋しくなったのかもしれない。
すると朔が
「この辺りはイヌワシの縄張りだって言ってたぞ」
と言う。
「隼人ならイヌワシくらいどぉってことないでしょ?」
「無駄なトラブルは避けるに越したことはない。でも、隼人が来ればあの社の正体も判りそうだよな……」
満の隼人崇拝に朔は呆れるが、隼人に来て欲しいのには同感らしい。
「朔もハヤトに来て欲しいんだ?」
僕が訊くと、
「社の正体を見極めるには、神の力が必要」
満が答えた。あれ、でも?
「隼人もそうだけど、朔と満も神格があるんじゃなかった?」
「まぁ、大口真神が先祖だし、神の力も受け継いでる。生き残りは僕たち二人だけになった」
朔が答え、
「でもさ、隼人みたいに完全な神格があるわけじゃない。まだ神社に祀られたことがないから準神格って感じなんだ。だから、わたしたちに判らなくてもハヤトになら判るかもってこと――フフン、バンちゃんみたいに『ただのお化け』ってわけじゃないのは確かさ」
ケラケラと満が笑う。ただの『お化け』で悪かったね――
探偵事務所『ハヤブサの目』所長の彫巣隼人は、神格化されたハヤブサ・古代エジプトの神『ホルス』だ。もう、何年生きたか忘れてしまった、と言っている。
全てを焼き尽くす『ラーの目』を右に、全てを見通す『ウジャトの目』を左に持っている。右は太陽、左は月だ。
『昔は賑やかだったんだ。父も母も妻も子もいた。それがいつの間にか、気が付けばボク一人だ』
隼人は自分の事を話したがらない。時どき、思い出したようにポツリと言う。神は忘れ去られ、人に化身して暮らすしかなかった。
『神の必要性を感じられなくなって、ボクの家族は消滅したのかもしれない』
でも、ボクは探していたい。諦めなければ、いつでもそこには希望がある。
『だからバンちゃん、キミも諦めるな』
出会った時、隼人は僕にそう言った。
僕も同類がいない。なぜ僕が今の僕になったのかも判らない……隼人の話を聞いて『そうだったのか』とは思うけど、記憶がないからかピンと来ない。覚えているのは僕が僕自身を呪っていることだけだった。
初めて隼人に会った時、気が付くと僕は隼人の首筋に牙を立てていた。口の中に液体が溢れる。温かい、生きた血だ。飲み込むと胃が熱くなり、空腹だったと僕は思い知る。堪らず、僕は無心に隼人の甘い血を飲んだ。
「あっ!」
ハッと我に返り、隼人の首から口を離した。二つの傷口から一筋ずつ血が流れ、すぐに止まる。見る見るうちに傷が修復され塞がっていく。
「大丈夫だよ――どうやらキミは吸血鬼になってしまったようだけど、ボクと一緒なら大丈夫」
隼人の掌が僕の顔を包んだ。
「ボクは人間じゃないし、修復も早い。だから、いくらキミがボクの血を飲んでしまっても、ボクは死なないし、吸血鬼にもならない」
泣き崩れる僕の頭を撫でながら隼人は言った。
「他人を自分と同じ運命に引きずり込みたくなくて、それでずっと眠ってたんだろう? キミからは人間の血の匂いがしない。チェリーなんだね――ボクと一緒においでよ。ボクの血があれば、キミは人間を襲わないで済む」
あれから何年が経っただろう。隼人は僕に『バン』という、どこの国でも通用しそうな名をくれた。
隼人は僕を連れ、正体が人間に知られないよう数年ごとに住処を変えた。いろんな国を渡っていった。いろんな職業にも就いた。
そして今は日本にいる。日本で探偵をしている。




