11 秘密は誰にも明かせない
「アルルにいるときゃ『アヤト』と呼ばれたの♪ トレドじゃ『アジャト』と名ぁ乗おぉったぁわ」
宿舎の風呂場に演歌が響く。隼人が好きな昭和の歌謡曲、隼人、かなりご機嫌だ。
「隼人、上手! 巧い! 最高ぉ~!」
煽てているのはもちろん満、ただでさえ、音痴なのに適当に歌詞を変えてて、この上なく聞き辛い隼人の歌らしきものを煽てるのは満以外にいない。聞いていられるのも満しかいない。
僕はと言えばプールには入らず、湯船でみんなを眺め、ついでに朔と奏さんに注目していた。
奏さんと朔は隼人からなるべく遠ざかって、何やらコソコソ話している。
「降ってくる雪がさ」
朔の声が辛うじて聞こえる。雪見露天と燥いで積雪の近く、プールの向こう側に陣取った隼人たちより朔たちは、よっぽど僕の近くにいる。
「プールの中に沈んだんだよね。変だな、と思って、しげしげと見たんだけれど、なんで融けずに沈むのか、僕には判らなかった。あの時、僕が気づいていたら、隼人が来る前に片がついていたかもしれないのにね」
今は雪なんか降っていない。朔はきっと明け方の事を言っているんだ。あの時、朔は視線を上下に動かして、雪を眺め続けていた。
奏さんが朔の頭を撫でてから、気にするな、と言い、勢い付けて朔の頭をプールに沈めて豪快に笑った。大暴れで足掻いた朔が水(お湯?)飛沫を上げる。怒った朔は浮上すると奏さんに掴みかかったがすぐに気を取り直したようで、奏さんにじゃれついて笑った。
奏さんは、朔を落ち込みからも浮上させた――
告白の途中で村長はとうとう泣き出した。
「俺だって、ヤツを追い出そうとしたさ。でも、何度立ち向かっても返り討ちにされるだけだった」
悔しそうに村長は言った。
「俺たちの村を変えたのは、たった一匹のアライグマだったんだよ」
ある日現れた一匹のアライグマがこの村の平和を奪った。
俺たちは家族ごとに住んで、家族ごとに食べ物を探して別の家族に干渉することなく、だけどそれなりに仲良く平和に暮らしていたんだ。なのにヤツは俺たちを襲い、食べ物を奪い、ときには子どもを連れ去って食いやがった。
もちろん俺たちだって戦ったよ。でも知っての通り、本来俺たちは気が弱くて、戦いに適していない。ヤツは凶暴で、気が荒く、容赦なかった。
何度目かの挑戦で大怪我を負った俺に親父が言った。おまえだけでもこの村から逃げろ、と。でも俺は自分の家族や、子どものころから知っている村に住む仲間たちを見捨てることなんかできなかった。
「あんたの食料は俺たちが保証する。だから、俺たちの子どもを襲うのだけはやめてくれ」
ヤツと交渉しようと、俺は仲間に提案した。俺たち家族だけで、ヤツの食料を確保するのは無理だと思った。どの家族も、自分たちが食べるのに必死だったからな。野生の動物なんて、みんなそんなもんのはずだ。
ヤツに食料を提供するか、それとも村を捨てるか、もう、それしかないと俺は仲間を説得した。人間が捨てた村はこれ以上もない住処だった。俺たちは勝手に電気を開通させ、人間が文明の利と呼ぶものを享受していた。
凍える冬に湯が使える。何より人間が来ない。アライグマさえいなければ、ここはどこより暖かく安全だ。村を捨てるのも勇気が要った。
意見は分かれ、何日も話し合った。その最中、またヤツがある家族を襲い、子どもが奪われた。そして俺たちは決断した。ヤツの食料は皆で寄せ集めよう。子を食われるよりもずっとマシだ。
「俺の提案を、ヤツは鼻で笑ったよ」
いいだろう、とヤツは言った。村はずれの神がいなくなった社、あの床下に穴を掘ってヤツの住処を作り、そこに貢物を持って来い、ヤツはそう言った。これからは神と崇めろ、と。
「屈辱だった。俺たちを蹂躙するヤツを、なぜ崇めなくちゃならない?」
アライグマのヤツ、自分じゃ地面を掘ることができないから、俺たちに掘れと命じた。仲間を殺し、これからは食べ物を奪うヤツの命令に、俺たちは従ったんだ。どれほど俺が悔しかったか、あんたたちに判るか?
「俺たちは必死に食べ物を探し、社に運んだ。そうしながら自分たちの命も繋がなきゃならない。牛や鶏は人間から盗んできた。牛は子牛の内に、この村に連れてきた。全部メスだ。卵や乳を貰って、少しでもタシにしようとしたんだ」
そうやって俺たちはこの村でなんとか生き続けた。だけどこの冬はまったく食べ物が見つけられない。当然、ヤツに提供する食べ物も不足した。鶏卵や牛乳じゃヤツは満足しやしない。人間から食べ物を奪ってくるのも限度があって、強引なことをすれば命が危険に曝される。
「空腹に苛立ったヤツが俺に言った。村を襲う、牛を襲う、鶏を襲う。おまえたちが約束を反故にしたんだ、と」
牛や鶏が襲われれば俺たちは飢え死にするだろう。村にはまだ子どもたちが五匹いる。なんとか我慢してくれないか。俺はヤツに必死に頼んだ。
「子どもが五匹か、ヤツは笑った。だったらその子どもを寄越せ、そしたら村は襲わない。今度の満月までに五匹の子どもを連れてこい」
俺たちはタヌキだが柴右衛門タヌキの末裔で、普通のタヌキとはちょいとばかり違う。ただのタヌキなら、春先に生まれた子どもたちが秋には一人立ちするが、化けられる俺たちは子どもの成長に時間がかかる。二年だ。次の秋まで子どもたちを守りたかった。
「俺の妹たちが子どもたちの身代わりになると泣いた。俺は自分の失策を妹に押し付けるなんてできないと思った」
子どもたちは勘弁してくれ。その代わり、人間なんかどうだ? 人間を五人、化かして連れてくる、それを食えよ――俺の提案にアライグマのヤツ、『面白そうだな。人間を食えば、化けられるようになるかもな』と笑いやがった……
「なるほどね、それでボクたちをアライグマへの貢物にしようとしたわけだ。行方不明事件なんかなかった。ボクたちを呼び寄せる口実で、で、ボクたちに報酬を支払うつもりもない、っと」
仰るとおりと村長は縮こまるが、隼人はさも愉快そうに笑う。
「そして、社に食料を持っていく役目は村長さん。だから『御供所』って名乗ったんだね」
更に隼人がクスクス笑う。
「ところで村の名前はどう決めたんだい?」
隼人の問いに村長が顔を赤くした。
「俺の本当の名は『タヌキチ』で、ヌキチにしようと思ったけど、語呂が悪いからナキチにしたんだ」
……ナキチだって、充分語呂が悪いと思うのは僕だけだろうか?
「ねぇねぇ……」
遠慮がちに満が言った。
「あたしたちが食べたのってなんだったの? 木の葉っぱ?」
「いや、あれは……最後だからご馳走をと、人間から盗んできた本物です。せめてものお詫びです。それにミチルちゃん――タヌキが木の葉を使うなんて、昔話に毒されてるよ」
村長タヌキが申し訳なさそうにそう言うと、『良かった』と満がそっと呟いた。
隼人は暫く村長を見詰めていたが、やがて膝をつき、村長の肩に手を置いた。
「判った、ボクがなんとかする。そのアライグマがいなくなればいいよね? 報酬をくれなんてことも言わない」
「え?」
村長が俯いていた顔をあげる。
「アライグマを、その……ヤッてくれるのかい?」
改めて見ると、村長、垂れ目だ。
「殺すってこと? それはないなぁ。ボクに活殺の権限なんかないよ」
隼人は立ち上がると周囲の木を見渡した。すると一羽のカラスが鳴いた。
巧みに足を一本隠しているが、あれは出番がないと僕が思っていた八咫烏の奥羽さんだ。タヌキたちはきっと、ただのカラスと思うだろう。
隼人のヤツ、いつの間に呼び寄せたんだ? 隼人が頷くと奥羽さんは『かぁ』と鳴き、どこかへ飛んで行った。
「もうすぐ日が暮れる。アライグマの件は明日だ。ボクを信用して任せて欲しい。ボクたちが今晩、ここに泊まるのを許してくれるよね?」
村長は何度も隼人に頷いた ――
そんなわけで僕たちは宿舎に戻り、冷蔵庫の食べ物を好き勝手に食べ、風呂で遊んだ。ビールは苦いからイヤと隼人が言って、みんなに諦めさせた。隼人だけ飲まなきゃいいと思うかもしれないが、ボクだけ仲間外れにする気? と拗ねる隼人を知っていれば、そうは思わないはずだ。
奏さんは追加の角砂糖を隼人に許さず、隼人が不貞腐れた。が、風呂の広さに機嫌を直した。隼人の下手糞な歌をいつもは辞めさせる奏さんも、今日は黙って好きなように歌わせた。そしてカラスの行水よろしく、いつもなら一曲歌うと出てしまう隼人が今日は何曲も立て続けに歌っていた。
その理由はすぐに判った。隼人が四曲目を歌っている時、八咫烏の奥羽さんが隼人の近くに降り立ってカラスの姿のまま、かぁかぁ鳴いた。
ちなみに、これも隼人から聞いた話だが、殆どの鳥は鳥目じゃない。夜でもしっかり目が見える。だから渡り鳥は夜も飛んで渡っていく。危険が多い夜間には行動しない鳥が多いから、人間が勝手に夜は見えないと勘違いしたとの事だ。
「うん、判った、ありがとう。お礼は東京に戻ってからね」
隼人の返事に奥羽さんは飛び立っていった。たったそれだけだったから、奥羽さんは人形に変わらなかったようだ。まぁ、面倒だよね。
隼人はさっさと部屋に戻り、一足遅れて僕が戻ると自分の鞄を開けてガサゴソさせていた。明日着る服の確認と言ったけど、何やら怪しい……
翌朝、『なるべく怪我させないように』隼人に命じられた朔と満がアライグマを連行してきた。流石のアライグマも二頭の狼に脅されて観念したようだ。温和しく朔に従っている。
そのアライグマに隼人は食事を与えてからボストンバッグに入るよう強要した。
「中に入って、静かにしていれば、悪いようにはしないよ」
アライグマは隼人に従うしかないと悟ったようだ。
そして僕たちは村を後にした。アライグマを入れたボストンバッグを積み込んだのは言うまでもない。だけど奏さんが運転席に乗ってこない。
「この村に通じる道なんかないんだ。だから人間はここに来ないんだよ」
隼人が笑う。
「近くの道まで奏ちゃんが車を担いでいく。人間に見られない保証はない。祈るばかりだね。もし見られたら、見た人は小型のデイダラボッチとでも勘違いするだろうね」
見送りに出てきた村長が、今日も申し訳なさそうに言った。
「この村に車なんかない。駅で会った時から、ニイさんを化かしていたんだ」
「気にすることはないよ、村長さん」
満がそれに明るく答えた。
「ミチルちゃん、気が向いたら遊びに来てくれよ」
「うぃうぃ、気が向いたらね。いろいろご馳走さま。村長さん、元気でね」
満がボックスワゴンの窓から手を振ると、総出で見送りに出てきた村人が、手を振ったりお辞儀したりした。村長の親や妹たちもいる。夫婦らしき二人に守られた子どもが五人、尻尾を隠しきれていないのがなんとも可愛い。
「それじゃ、行こうか」
外に立つ奏さんに隼人が声を掛ける。頷いた奏さんが額の鉢金を外してニョキニョキと大きくなっていく。
「それじゃあね、そん……って、やれやれ」
隼人が苦笑する――タヌキたち、みんな腹を見せひっくり返っていた。
放っておいても勝手に気が付くと、タヌキをそのままに僕たちは出発した。十分くらい奏さんに担がれて山を降り、それから舗装のない道に降ろされた。すぐに奏さんが乗り込んできて、ボックスワゴンは一路東京に向かう。
途中隼人が車を停めさせハヤブサに姿を変えると、アライグマの入ったバッグを鍵爪で掴んでどこかに飛んで行った。近くにアライグマを飼育している動物園があるんだと奏さんが言った。
「奥羽にアライグマの預け先を探させたのさ。殺すわけにも、野に放つわけにもいかないからね。隼人のヤツ、バッグごと動物園に落とすつもりだろうよ」
窓を開けて奏さんがタバコに火を付けた。
戻ってくると隼人は、三列シートの最後部で服を着こみ、更に何やら自分のバッグをガサゴソ探る。
「おぃ、隼人、おまえ!」
「奏ちゃん、運転中は前を見て」
角砂糖を口に放り込みながら隼人が笑う。どうやら隼人、風呂からあがって真っ先に、キッチンで角砂糖を探してこっそり失敬してきたようだ。
「隼人だけ狡ぅ~い! ミチルもお腹減った!」
ミチルの苦情に朔がフンと鼻で笑う。
「おまえはいつも腹減りだろうが」
「なにぃ!」
取っ組み合いになりそうな朔と満を奏さんが宥めた。
「うちの店に寄って行こう。腕によりをかけて、みんなにご馳走を作るよ」
満の顔がパッと輝き、朔がニヤリと微笑んだ。
隼人が角砂糖をガリガリと噛み砕く音が響いて、慌てて僕は隼人の手から角砂糖の袋を取り上げる。奏さんを怒らせたら大変だ。奏さんはニヤリと笑い、グンとアクセルを踏み込んだ。
隼人がそっと僕に耳打ちして寄りかかってくる。ふわっとした感触で僕を騙す。
「それは……家に帰ってからね」
誰にも聞かれないように僕は隼人に囁いた。
隼人が僕になんと耳打ちしたか。それは……隼人と僕、二人きりの秘密だ。




