10 タヌキ寝入りと言う勿れ
「朔と満があの場にいなかったのも幻覚ってことはないの?」
ふと思いついた事を僕は呟いた。
甘いコーヒーに舌鼓を打っていた隼人がゆっくりと僕を見る。
「なるほど……有り得るね、バンちゃん」
「だって隼人、ウジャトの目を使ったんじゃないのか?」
「うんにゃ、タヌキを見るのに精いっぱいで、他を見る余裕がなかった。あちらさんにウジャトの目を気付かれないよう、一瞬見ただけ。ちょっとエネルギーが不足気味だったしね。バンちゃんの体越しで見るのは辛かった。だから、あの時は村長の正体しか見れなかったんだよ、奏ちゃん」
エネルギーは補給した。今度はフルにウジャトの目を駆使できる。まずはしっかりとあの場所を見ておこう……隼人が立ち上がる。見るとカップは空っぽで、なんだか綺麗になっている。隼人、さては舐めまわしたな。でも、マグカップの底に届くほど、舌、長かったっけ?
玄関で隼人が立ち止まり、鳶色に変えていた虹彩を、再びオッドアイに変えた。
「あちらさん、自分たちから出てきたね。あの場所に集結したようだ。何匹かの気配がある」
隼人の言葉に
「いっそ燃やすか?」
奏さんが提案するが
「双子が向こうの手にある。それにラーの目を使ったらこんな小さな村、丸焼けになるしボクたちにも火が点くよ」
即座に隼人が却下する。
「奏ちゃん、先に行って盾になって。すぐには襲ってこないと思うけど、念のためにね。で、バンちゃん、ボクと手を繋いでいて。いざとなったらボクを引っ張って上方に退避ね」
おぅ、と奏さんが答え、玄関ドアを開ける。
人形の時、隼人の武器は全てを焼き尽くす『ラーの目』だけと言っても過言じゃない。それすら隼人が使うのを僕は見たことがない。ラー、つまり太陽神が放出する火は強力過ぎる。軽はずみに使っちゃいけないんだよと隼人は言うけれど、本当のところは判らない。
そのほか隼人は、多少の念力は使えるものの人間一人をやっと二メートルくらい吹っ飛ばす程度の威力しかない。ちょっとした幻惑術(さっき名刺を書き換えたような)は頻繁に使う。
隼人がどんなことができるのか把握し切れているわけじゃないけれど、少なくとも戦闘に役に立つようなものはきっとないと僕は思っている。ラーの目を使わないのなら、隼人は正直戦力外だ。気が向けば羽根を矢のように飛ばすが、ほんのスパイス程度の働きしかしない。ただ、『ウジャトの目』で相手の動きを見逃すことがない。つまり戦況を把握するのに長けている。もっぱら指示を出し、命令を下すのが隼人の仕事と言っていいし、僕たちは隼人の判断と指示に絶対的な信頼を寄せている。
いざとなったら飛べと隼人が僕に言ったのは僕の跳躍力を見込んで、隼人を連れて木の上や屋根の上に逃げろという意味だ。
僕の武器は移動速度と跳躍力。十メートルくらいなら一瞬で動けるし、飛びあがれる。あ……アライグマに追われたとき、それを使えばよかった。って、今さら遅い。あの時は焦ってしまって、思いつきもしなかった。だから隼人に間抜けと言われるんだ――なんて落ち込んでいる場合ではない。
ちなみに、抱き合えるほどの近さで相手の目を覗きこめれば、相手を意のままに操る事も僕には可能だ。が、今回は役に立つことはないだろう。
そして奏さん、普段からがっしりとした体格で、腕っ節はめっぽう強い。ただでさえそれなのに、ニョキニョキと巨大化してあっという間に四メートルの大男になる。隼人の取り巻きでは一番強いと僕は思っている。
ついでだから言うけれど、人狼の朔も、もちろん頼りになる戦力だ。
朔は、僕には少し劣るものの移動速度が人並みであるはずもなく、腕力も脚力も人並みじゃあ納まらない。僕は朔と喧嘩したことがないのでよく判らないが、無表情で攻撃を仕掛けるらしく、動きが読めない。相手はそこにも恐怖を感じ、怖気づくらしい。
満は少し変わっている。流石にすばしっこいが、腕力も脚力も普通の犬程度だ。その替わり、満は神通力が使える。
満に吠えられると視覚聴覚に不調をきたす。尤もこれはやり過ぎると仲間にも悪影響が出るので、『ボクの傍に居て、温和しくしていろ』と隼人に怒られることもある。
僕たちの仲間には、諜報なら任せとけ八咫烏の奥羽さんや、水中なら敵知らず、河童の九里さんとか、他にもいるが今回は声をかけていなさそうだ。
車道に出る寸前に隼人がまた虹彩を鳶色に変えた。道の向こうに人影がある。村長だ。
「やぁ、村長さん、うちの双子、見つかったかね?」
奏さんがゆったりした口調で話しかける。それに答えず村長は隼人を見た。隼人が僕の腕にしがみ付く。
「ジュンさん、コートが良く似合ってらっしゃいますね。ずいぶん派手なコートだけど、ジュンさんが着るとしっくり綺麗だ」
「えっ?……あぁ、それはどうも」
ちょっと隼人がキョトンとする。隼人、自分でジュンと名乗ったことを忘れていたようだ。慌てて村長に愛想笑いした。
村長の後ろに次々と人影が現れる。それに後押しされて隼人に歩み寄ろうとする村長の前に、奏さんが立ちはだかる。その奏さんをチラリと村長が見た。
「ご覧の通り、村総出で探していますがまだ見つかりません。山肌に落ちてしまったのかもしれない」
村長は薄ら笑いを浮かべている。村長の後ろに立つ人々が徐々に村長を取り巻いていく。
隼人が僕の後ろに隠れた。僕を通してウジャトの目を使う気だ。そして囁いた。
「双子は奏ちゃんの車の下だ……ボックスワゴンの下の地面には空洞があって、そこに閉じ込められている。ボクを呼んでる。早く助けなきゃ」
村長を取り巻く人々は三十人を超えるくらいか。中にはボックスワゴンに僕たちを近寄らせまいと、車の前に立つ人もいる。
「人に見えるが全員タヌキだ。メスが多いな、あとは古ダヌキ」
クスリと隼人が笑う。
ふん、と村長が鼻で笑った。
「そうさ、タヌキさ。お陰で耳はいい。全部聞こえているぞ。で、アンタたちは何者だ? アンタたちも人間じゃないんだろ?」
隼人、内緒話はできそうもないぞ。
隼人が僕の陰から出てくる。
「そうだね、人間じゃあない。で、なんだと思う?」
「判るか、そんなもん! だがいい、なんであろうと五人そろえばこっちに文句はないんだ」
凄む村長を、今度は隼人が鼻で笑う。
「タヌキが粋がってどうするんだい? 小心者の癖に」
「なにを! こっちだって群れの存続が掛かってるんだ、退けるものか!」
村長が腕を振って後ろに控えた人たち、もとい、タヌキたちに指示を出す。人形タヌキたちが左右に広がり僕たちを囲むつもりだ。
ところで人形タヌキ、どんどん増えて五十は下らない数になっている。
「おぃおぃ、すごい数だな。どこにこんなに隠れていたんだ?」
呆れる奏さんを、
「幻覚だ。タヌキは十匹弱だよ」
隼人が笑う。そしてホッとした僕がつい呟く。良かった……
「うぬぅ……」
唸る村長、でも案外冷静だ。
「化かせてないのは、あのジュンって女だけだ。あとの二人を先にやれ!」
人形だったものが一斉にタヌキに化けた。いや、人に化けていたタヌキが正体を現した! 五十匹のタヌキが一斉に襲ってくる!
「奏ちゃん! 鉢金を外せ!」
隼人が叫ぶ。鉢金を外せば、そこにはもう一つの目が現れる。三つ目入道の奏さんがグングン大きくなっていく。
それを見たタヌキ、思わず動きを止めて……
「……なに?」
――タヌキ、皆こけた……?
前足を持ちあげて、二足歩行でもするのかと思ったら、奏さんを見てそのまま後ろにひっくり返る。そして次々姿が消え、残ったタヌキもそれきりピクとも動かない。村長もタヌキ姿でひっくり返っている。死んだ? 気を失っただけ?
幻覚は消え雪がやみ、青空が見えた。そしてイヌワシが飛んでいる。ボックスワゴンのほうからは、満が隼人を呼ぶ声が微かに聞こえる。
「今の内だ、袋詰めにしちゃえ。早くしないとイヌワシがしゃしゃり出てくるよ」
隼人が笑いながら奏さんに言った。奏さんは不思議そうな顔をしたが、すぐ人形に戻り、車から砂袋みたいな巾着袋を数枚出した。
隼人が言うにはタヌキは驚いたり、恐怖を感じると気を失うことがあるらしい。時には死んだふりをするが、今回は奏さんの変化にかなり驚いたのだろう、失神していた。
「すぐに目を覚ますからね。さっさと袋に入れちゃって」
僕にまで袋を渡してきた。
タヌキの袋詰めが終わると奏さんが車を動かして、下に敷いてあった板をどけ、双子の人狼を助け出した。
「隼人ぉ~」
満が隼人に抱き付いてわんわん泣く。わんわん泣くと言っても、犬のように吠えたわけじゃない。隼人は満の頭を撫でて『怖かったね、ごめんね』と慰める。朔は、申し訳なさそうに隼人を見たが、隼人は黙って頷いて微笑んだ。
双子の人狼は車に乗り込もうとして、そこにあった穴に落ちたらしい。落ちた感覚さえなくて、穴の中だと気が付いたのはいきなり周囲が土塊になり、暗くなってからだと朔が言った。なんとか出ようとしたが、地上の様子も判らないし、隼人を信じて待つほうがいいと判断した。車のキーは朔が持っていた。真下にいるのだからスマートキーのアラームが鳴らないのも道理だ。
タヌキは全部で八匹。そのうち五匹は若いメスで、年老いたオスとメスが一匹ずつだ。そしてまだ若い村長――すぐに気を取り戻し、袋の中でキャンキャン叫びながら蠢き始める。暴れない、化かさない、と約束させて、隼人は村長を袋から出してやった。
「俺たちは、まぁ。タヌキなんだけど、柴右衛門狸の末裔だ」
人形に化身したものの、すっかりしょぼくれた村長が事情を語る。タヌキはどうやら衣服も化身できるらしい。と、言うより、幻覚を見せているのだから、衣服も存在はしていないのだろう。
「幾ら人に化けられるって言ったって、子ダヌキのうちはそうもいかない。で、俺たちは山で暮らし、時どき、人間の領域に遊びに行ったりもした。この村は人間が捨てた村で、俺たちには居心地が良かった。最初は三十匹くらいが住みついたらしい。それぞれの夫婦で、人家に入り込んで暮らして子育てをしてた」
村長が遠い目をする。
俺もこの村で生まれた。ここにいる年寄り夫婦が俺の両親で、あとは妹たちだ。子どもの頃はよかったよ、友達もいっぱいいた。けどさ、大人になれば親離れしなきゃならない。俺はこの村を出たんだ。
「やがて番いの相手を見つけ、俺にも幸せな時期があった。でもさ、交通事故で女房を亡くして、俺も寂しくなっちまってよ。この村に帰って来たんだけど……すっかり村の様子が違っちまってたんだ」
俺を見るなり親父が『すぐに出て行け』と言う。だけどお袋は『助けてくれ』と泣く。妹たちは俯いて泣きじゃくるだけだ。どう考えたって普通なもんか。人間がいないことをいいことに、子ダヌキたちが笑い転げて遊んでいた村の中に、子ダヌキどころか一匹のタヌキも見ない。みんな、自分の住処に隠れてる。
「いったい何があった? 俺はそう訊かずにはいられなかった」




