7 行き着いた先に待ち構えるもの
魔力の結晶を貫いたその音から、どれほどの時が流れただろうか。
ブロッド・ビーストが灰となって崩壊した床に、右腕を突いて倒れ込んでいた。
左肩の断面は、脈打つ痛みで熱を帯びたまま痙攣している。
全身を覆う血と魔物の粘液、そして自身の耐久力の限界が近いことを、骨の髄で感じ取っていた。
魔力は30/330と、まさに枯渇寸前。
『ハァ……ハァ……ちくしょう……負けたら……終わりだ……』
彼の喉の奥で、屍食鬼としての貪欲な本能が、生存への要求を叫ぶ。
朦朧とする意識の中、震える右手で顔のメガネを押し上げた。
ユニークスキル:メガネ魔法が起動し、彼の肉体の危機を訴える。
だが、その解析力は、何よりも彼の冷静さを繋ぎ止める命綱だった。
彼は、ブロッド・ビーストの残骸を、嘔吐感を堪えながら口に押し込む。
捕食変換は、人間としての尊厳を削る行為だが、今は生きるための唯一の燃料だった。
クソ不味い。
味覚だけ遮断できるとかできた良かったのに。
それに自然治癒で完全回復するまで休みたいけど、そんな暇ないぞ。
耐久力、魔力、微量回復。魔力:約60/330。
微かに回復した魔力で、すぐさま行動を開始する。
この場所にとどまることは、死を意味する。
この深層は、満身創痍の彼を喰らい尽くそうと、静かに待ち構えているのだ。
慎重に立ち上がると、まずはマップ作成を起動した。
メガネが周囲の洞窟構造を正確に把握し、冷たい地底湖へと続く、複雑で暗い通路の地図を脳裏に描き出す。
この感じは地底湖か?
広くはわからないけど、ある程度ならマップがわかるぞ。
そして、気配察知と死肉探知に全意識を集中させた。
すると、ブロッド・ビーストが崩壊した場所、すなわち濃厚な血液の臭いが残る後方から、複数の微細ながらも、確かな血の臭いを辿ってくる、魔物の気配を捉えた。
『俺の血の臭いを辿ってきやがったのか』
数が多いぞ。
それに動きが速い。
満身創痍の体でなくても、数は力だ。
今の魔力と体力では、まともに相手にすることはできない。
逃走、それこそが、この状況でのメガネ魔法が導き出す唯一の正解だった。
左肩の傷口を氷魔法で凍らせ、迷わず逃走経路を選択する。
スキルの融合と極限の隠密
この逃走は、ただの逃げではない。
それは、屍食鬼の身体能力とメガネの解析力を融合させた、芸術的なまでの極限の隠密行動だった。
まず、自身の肉体に僅かに残る魔力を巡らせて、隠密を発動する。
足音と息遣いは、洞窟の壁を滴る水滴の音や、遠くで響く地熱の唸りに溶け込んでいく。
暗視で闇を昼間のように見通し、気配察知で魔物との距離と数、そして魔物らの動向を秒単位で把握し、マップ作成で選定した最適なルートを突き進む。
『右の壁沿いに、しゃがむ。岩陰まであと三歩。その岩は、魔物の体温を遮断するはず……』
メガネ魔法で脳内に正確な情報が送り込まれ、それを即座に判断していく。
片腕が使えない不安定な体で、わずかな岩の影を縫うように移動した。
人間が持つ理性を超え、獲物から逃れる獣の俊敏さを帯びていた。
急げ。
捕まったら終わりだ。
しかし、魔物たちも、飢えに駆られたプロのハンターだった。
魔物らは嗅覚に優れ、流した血液の臭いを執拗に追ってくる。
ガリガリ! クンクン!
岩をひっかくような音、そして鼻を鳴らすような鋭い臭覚の音が、すぐ背後まで迫る。
やばい、すぐそこまで来てる。
焦燥と戦った。
ここで止まれば、たちまち囲まれる。
その時、彼の脳裏に、死肉探知と気配察知が示した強烈な熱源の記憶が蘇った。
このスキルは、自身の肉体の飢餓をトリガーに、最も血と肉が濃厚な場所を教えてくれる。その飢餓感を意図的に増幅させた。
ググッ……
激しい飢えの感覚が、内側から意識をかき乱す。
その代わり、脳裏に、魔物たちのいる後方ではない、進むべき前方、地底湖を抜けたさらに奥地が、赤い熱源として浮かび上がった。
『あっちだ。そっちには、お前たちが決して踏み込めない「何か」がいる!』
やばい気配がする。
でもここで戦っても死ぬだけだ。
一か八かに賭けるしかない。
その赤く熱い場所を目指して、洞窟の暗闇を駆けた。
マップ作成で確認した通り、冷たい水が流れ込む地底湖へと辿り着いた。
魔物はすぐ背後まで迫っている。
ここで足止めしなければ、終わりだ。
魔法に、残りの魔力すべて(約45)を注ぎ込んだ。
肉体は、「これ以上の魔力消費は肉体の崩壊を招く」と訴えていた。
しかし、彼はその警告を無視する。
左腕を失った今、失うものなど何もない。
『氷結!』
残された右腕を水面へと突き出す。
魔力の最適化経路を意識し、冷気を絞り出すかのように魔力を集中させた。
ゴオオオオオオッ!
白い竜巻のような冷気の奔流が、地底湖の水面を一瞬で凍らせ、薄い氷の膜を張る。
そして、指先から放たれた氷の槍が、魔物たちの先頭を走る一匹を正確に貫いた。
ヒュンッ!ドッ!!
氷に阻まれ、魔物たちの動きが止まる。
追ってきてる魔物って全部ブロッド・ビーストじゃねーか!
このフロアどんだけブロッド・ビーストがいるんだよ。
その隙に氷上を滑るように駆け抜け、地底湖を越えた。
魔力はわずか10まで回復していた。
『これが……メガネ魔法の力か。上手く制御していなくても、最適化を要求すれば、これほどの力が出せる……!』
しかし、その勝利の興奮も、すぐさま現実の重さに塗りつぶされた。
地底湖の先は、さらに深淵へと続く、巨大な岩のトンネルだった。
死肉探知が示す強烈な熱源へ向かって、もはや隠れる力もないままに進む。
トンネルを抜けた瞬間、呼吸が止まった。
そこは、まるで一つの巨大な空間だった。
どれだけ広いんだここは。
天井は遥か高く、奥行きも半端ない。
そして、その中央で、巨大な影が、黒曜石のような鱗を鈍く光らせながら、眠りについていた。
気配察知は、その存在の大きさに、もはや反応すらできない。
震える右手でメガネを押し上げる。
名称:シャドウ・ドラゴン(影竜)
種族:竜族
ステータス:攻撃力?? 耐久力?? 魔力??
翔のステータスでは、解析が完了しません。
警告:即時逃走。
解析不可能な圧倒的なステータス。
体から、気配察知と死肉探知のスキルが、恐怖によって強制的に停止した。
魔物の飢えた気配は、もはや比べることすらできない、圧倒的な存在そのものの威圧感に上書きされていた。
左腕の痛みも忘れ、息を殺して立ち尽くし、剣を落とす。
『……まさか、ここが……』
転移罠の本当の行き先が、ドラゴンが住まう深淵であったことを悟った。
そして、そのドラゴンの寝息が、次の瞬間、ピタリと止まった。
暗視の視界で、巨大な黄金の瞳が、ゆっくりと、彼に向けられた――。
その瞳は、獲物を見つけた獣の冷たさと、千年の孤独を宿した知性を兼ね備えていた。
低い、地鳴りのような声が、洞窟全体を震わせた。
グルウゥゥ!!
片腕しか動かない体で、最後の力を振り絞り、剣を構えようと地面に落ちた剣に右手を伸ばした。
目の前に、この深層で最も強大な絶望が、今、目覚めたのだった。




