10 強欲の魔王
全てが終わったはずだった。
最後に覚えているのは、シャドウドラゴンに一矢報いたが、後ろから迫ってくるブレスに飲まれる瞬間だった。
それなのに、意識が浮上したのは、予想外の場所だった。
身体は異常なほど軽く、激痛は霧散している。
まるで、一晩ぐっすり眠った後のように。
視界に映るのは、ゴツゴツとした岩壁でも、焦土でもない。
磨き抜かれた黒曜石のような床と天井から溢れる柔らかな、しかし光源の見えない光、
そこは、静寂と秩序に満ちた空間だった。
「お、やっと目が覚めたようじゃな」
耳に届いたのは、鈴を転がすような、しかしどこか甘く危険な響きを持つ声だった。
慌てて跳ね起きたが、身体は完璧に治癒されており、無くなっていた左腕も元通り生えていることに驚いた。
そして、その声の主を視界にとらえ、息を呑んだ。
目の前にいたのは、文字通りの綺麗な女性だった。
彼女はスラリと背が高く、細身でありながら力強さを感じさせる立ち姿をしている。
肩まで流れる銀色の長髪は光を浴びて艶めき、その両眼は鮮血のような赤色をしていた。
どのモデルよりも洗練された衣装を纏い、まるでこの世の常識や法則とは無縁の存在であるかのような、圧倒的な妖艶な威厳を放っていた。
警戒し、反射的に腰の剣に手を伸ばす。
しかし、そこに剣はない。
女性は、そんな行動を静かに見つめ、口元だけで微笑んだ。
「おや、わっちに剣を向ける気なのじゃな?死ぬ気かの?」
その瞬間、死を感じた。
殺気を放ったわけではないだろうが、こちらが敵意を向けた瞬間に感じたのは、熱や音、魔力といった計測可能な物理現象ではなかった。
逃げられない。防げない。抵抗する意味がない。
身体が勝手に機能を停止し、心臓の鼓動を停止した。
ドクン、ドクン、と言うはずの音が途中でブツリと途切れたように静寂に変わる。
体中の血が、熱を失い、粘性の高い液体に変わり、血管の中を張り付いた。
寒気ではない。
生命の機能そのものが、敵意を向けた瞬間に停止させられたように感じた。
格が違いすぎる。
そう理解した瞬間、目の前の光景から色が失せた。
世界から色彩が消え、視界全てが薄い灰色に染まる。
そして、脳裏に響いたのは、自分の声ではなく、女性の声だった。
「おや、わっちに敵意を向けたから死にそうになってるのじゃ」
その声を聞き、瞬時に心臓の鼓動が再開を始める。
血液が機能しだし、視界が色彩を帯びていく。
突然のことに右手を心臓に持っていき、動いていることを確認する。
「わっちに敵意を向けんことじゃな」
ここはどこで、貴方は誰なんだ。
「ふふ。ここは、わっちの領域のタラスクの洞窟じゃ。タラスクはシャドウドラゴンの名前じゃな。そしてわっちの名は強欲の魔王アワリティアじゃ」
魔王だと!?それに俺は声を出してもいないし、念話を使ってもいないぞ。
「そう、魔王じゃ。わっちは、頭の中が読めるのでの」
頭の中がわかるのなら、隠し事などもできないか。
「そうじゃな。よからぬことを考えぬことじゃ」
魔王と聞き、先ほどまで死闘を繰り広げていたシャドウドラゴンのことを思い出す。
あのシャドウドラゴンは、貴方の配下なのでしょうか?
アワリティアは、口角をさらに上げる。
まるで、子供の戯言を聞くかのような様子だった。
「配下?配下ではないのじゃ」
アワリティアは、黒曜石の床を歩いていく。
アワリティアに着いて行き、その先に広がる空間に、ガラス張りの壁が見える。
壁の向こう側には、先ほどシャドウドラゴンと戦っていた空間が見える。
そこにシャドウドラゴンの巨体が横たわっているのが見えた。
しかし、その体には無数の傷が刻まれ、微動だにしない。
「あれは、配下などではない。わっちのペットじゃ」
あれが、ペットだと。
あれほどの強大な力のドラゴンが、ただのペット。
命を賭して一矢報いただけのドラゴンが、ペットなんて。
「わっちは、自分のものは大切にする主義でのう。わっちのペットを傷つけたお主には、然るべき報いを受けてもらうのが筋じゃのう」
アワリティアは、そっとシャドウドラゴンに優しい視線を送り、視線に気付いたのか微かに唸り声を上げ、傷口から黒い瘴気が漏れ出すのが見えた。
「本来ならば、この場で命を頂戴するところじゃが……、わっちの領域に興味をそそるお主が突如として現れたから見にきたのじゃ」
アワリティアの赤い瞳が、深奥を見透かすように細められる。
「お主の力、魔力、魂。その全てが、わっちにとっては、この倦怠な世界に現れた、久しぶりの新鮮な刺激物でのう」
アワリティアは一歩近づき、その顔を目の前に寄せる。
「そこで、わっちはお主に二つの道を用意したのじゃ」
身動きができない。
アワリティアの醸し出す威圧感は、シャドウドラゴンが持つ純粋な暴力とは違い、世界そのものを支配するような、絶対的な力だった。
「一つ。ここで大人しく魂の対価を払い、無に帰すこと。二つ。わっちの忠実な玩具として生き、この退屈な世界を面白くするために力を尽くすこと」
冗談じゃない!
前の人生でもブラック企業で働き、束縛され続けてきたんだ。
この人生では、自由に生きたい!
アワリティアは表情一つ変えなかったが、その視線が僅かに冷たくなるのを感じた。
「戯れに興じたいわっちの望みをお主は拒否するのかのう」
その言葉には、拒絶を許さない絶対的な力が込められていた。
拒否すれば、次の瞬間には魂が砕かれてしまうだろう。
「わっちも強要は好かんのじゃ。一つ取引をしよう。お主がわっちの心ゆくままに遊ぶことを手伝ってくれるのならば、お主の命は保証しようかのう。」
アワリティアは椅子に座り、優雅に足を組む。
その姿は、まるで次のゲームの開始を待つ観客のようだ。
「そうすれば、わっちの望みは叶うのじゃ。そして」
アワリティアは口元に指を当て、艶やかな声でささやいた。
「それでいいのじゃ。あとはわっちの心ゆくままに、興じるばかりじゃの」
全身の力を抜いた。
生き残る道は、一つしかない。
この妖艶で気まぐれな強欲の魔王アワリティアの戯れに付き合い、彼女の世界のルールの中で生き抜くしかない。




