ご当主様との会話
ヴェルノワ公爵家のご当主様の薬湯に使った出涸らしのオレガノを浴槽に入れ、本日二回目のお風呂を楽しむ。
こうして毎日お風呂にゆっくり入れるなんて最高だ。祖父母の家でも入っていたものの、メイドさんが体を洗ってくれたので、慣れていないからか気まずい時間を過ごしていたのだ。
ヴェルノワ公爵家に嫁いだら、毎日侍女が体を洗うようになるので、なんて言われていたが、現実は侍女すらいない。
離れでの暮らしはあんがい私に合っている。この家が私のお城となる日も近いのだろう。
お風呂から上がるとお布団との再会である。午後から窓枠にかけて干していたのでふかふかだ。
ぽふん、と布団にダイブする。太陽のいい匂いがして気持ちいい。
布団があるだけで、ここは楽園かと思ってしまう。
会いたかった……布団。
ふかふかの寝心地を楽しむ間もなく、疲れた私は寝入ってしまった。
本日も夢の中でヴェルノワ公爵家のご当主様とお会いする。
「おお!」
ヴェルノワ公爵家のご当主様が黒い靄であることに変わりはないのだが、鮮明な人のシルエットの姿だった。目を凝らしたら本当の姿が見えそうな。それくらいの変化である。
「あと少し石版の欠片が集まったら、ご当主様のお姿が見えるようになるかもしれません!」
一面黒い靄でしかなかったことを振り返ると大きな進歩である。
ただ、変化はそれだけではなかった。
「あとは、たくさんお喋りできるようになればいいですね!」
「それについては問題ない」
「え!?」
昨日までカタコト喋りだったのに、流暢に喋り始めたではないか!
「もしかして、石版を四枚戻した効果ですか?」
「おそらくそうだろう」
喋りもだが声もおどろおどろしいものから、低くて艶のあるものに変わっていた。
これが本来のヴェルノワ公爵家のご当主様の声なのだろう。
「どうした?」
「いえ、その、とても八十歳のお声とは思えないと」
「八十歳?」
何を言っているんだ? と言わんばかりの声色だった。
「私は八十ではない。年齢は――――」
ヴェルノワ公爵家のご当主様は小首を傾げる。どうやらご自身の年齢についての記憶は戻っていないようだ。
八十歳ではないとしたらいったい何歳なのか。
義弟が六十代だったので、兄弟にしては少々年齢が離れていると思っていたのだが……。
ヴェルノワ公爵家のご当主様は腕を組んだような格好から動かなくなってしまう。
いくら考えてもないものを思い出すのは難しいので、別の話題を振った。
「他に何か思い出したことなどありますか?」
「思い出したこと? そうだな……ああ、弟がいる、と父から聞いていた」
「弟というのはフレデ様ですか?」
「いいや、名前は思い出せない」
その辺の記憶も失っているというのか。それにしても弟がいるという発言は謎である。ヴェルノワ公爵家のご当主様と義弟はこれまで一緒に暮らしていなかったというのか?
この辺の話も気になるところである。
もしも一緒に暮らしているわけではなく、あとからやってきて義弟が我が物顔でいるのならば、義弟がヴェルノワ公爵家を乗っ取ろうと画策する証拠となるだろう。
「オデット」
「は、はい!」
初めて名前を呼ばれた気がして、ドキッとしてしまう。
「我がヴェルノワ公爵家のために身を砕いてくれて、心から感謝する」
「いえいえ! 私はその、ご当主様に嫁いだ身ですので、これしきのこと、当然です」
「そうか。オデットは私の妻だったな」
そう言ってヴェルノワ公爵家のご当主様は私に手を伸ばす。
その姿は霧のように実態がないと思っていたのに、私の手に触れぎゅっと握ってくれた。
「ご当主様の手、とても温かいです!」
「当たり前だ。生きているからな。いや、ここは夢の中だから、不思議なことに変わりはない」
ただ温もりに触れただけなのに涙が溢れそうだ。
「どうした?」
「最初にご当主様の姿を見たとき、もうダメだと思ったんです」
ミイラのような死体が寝転がっていて、二度と話したり起き上がったりできないのだと決めつけていたのだ。
「オデットが嫁いでこなければ、今も私は死んだように眠っていただろう。改めて感謝する。ありがとう」
私の手を握りながら、ヴェルノワ公爵家のご当主様と言葉を交わす。
私達夫婦にとって、こんな些細なことも大きな一歩に思えてならなかった。
「あ、そうそう。ご当主様、お名前は思い出しましたか?」
「名前? すまない、まだ思い出せないようだ」
「残念です……」
もっと頑張って石板の欠片を探すしかないのだろう。
「本体のほうの意識も、だいぶ鮮明になってきている」
なんでもこれまではぼんやりした中で、私の声などが遠くから聞こえるような感覚だったらしい。
「オデットが毎日やってくれる清拭の薬湯の香りも、はっきりわかるようになった」
「わあ、よかったです」
「あれはいい香りだな。心が安らぐ」
ヴェルノワ公爵家のご当主様の癒しになってくれたらいいな、と思っていたが大成功だったわけだ。
「明日も薬湯を作りますので、楽しみにしていてくださいね!」
「ああ」
ここで夢が途切れる。はっと目覚めたときには朝だった。




