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短編

そんな事実はありませんでした

作者: 猫宮蒼



 リュケイルテッド王国。

 そこは魔導技術の発達した国だった。


 貴族は生まれながらに魔力を持って生まれてくるものの、魔法を扱える者は存外少ない。

 だが、道具に魔力を流す事で魔法のような事ができるようになり、その恩恵は平民にも与えられていた。


 余った魔力を魔石に込めて、それらを用いて火を熾したり水を出したり。

 未だ薪に火をつけてだとか、水を汲みにだとかいう面倒な事をしなければならない平民層はいたが、それでも国の大半は便利な生活を享受していた。


 さて、そんな便利な道具の中には、離れた相手と会話ができる道具というのも存在した。

 会話といっても直接話せるわけではない。どちらかといえば直通の手紙のやりとりのようなものである。


 その道具は魔力登録をした者しか扱えないようになっているため、魔力を持たない平民は使う事ができないけれど、しかし貴族たちは問題なく扱う事ができる。

 今までは手紙を使用人に渡し、人力で届けてもらっていたがそれだと日がかかるものだってある。

 だがしかし、この道具が出来上がってからは、お互いの連絡先を登録してさえあればすぐに連絡しあえるのだ。こんなに便利な物はない。


 それに魔力登録を行っての本人認証があるというのも大きかった。

 つまり、他の誰かの物を奪って成りすましてメッセージを送るという事はできない。

 今までの手紙は下手をすると政敵に奪われ改竄され、なんて事もあったが、そういった事がなくなったのだ。


 己の発言にしっかりとした責任さえ持っていれば何も問題のない便利な道具。


 携帯魔力式メッセージ送受信ボックス、確かそんなのが正式名称だっただろうか。

 ある意味そのままの名前であるのはそうなのだが長いし言いにくいため、世間では携帯の一言で言われるのが主流である。



 さて、そんな携帯を眺めながら、アンジェリカは溜息を吐いた。


 カフェテラスで新作フレーバーの紅茶を飲み、壁面が一面ガラスになっているところから見える景色を眺めながら。

 これがただの休日であったなら、なんとも優雅な事だっただろう。

 事実アンジェリカも本当なら普通の休日としてここに訪れていたかった。

 店内の雰囲気は明るく、またガラス面から見える外の景色は色とりどりの花が咲いているのが見えて、それはもう素敵なのだ。風に揺れる花を見て、そうして時折木の枝から姿を見せる小鳥の姿を確認しては、何とも心が穏やかな気持ちになってくる……のだけれども。


 それでもアンジェリカは知らず溜息を吐いていた。


 カフェテラスに不満などあるはずもない。

 問題は別にあった。


 アンジェリカの婚約者であるルイスとは、親同士が決めた婚約者である。

 政略結婚といってしまえばそうなのだが、婚約が決まった時点で二人は初対面だったわけでもない。

 一応親同士の交流があった時に何度か顔を合わせる事はあった。

 その時はまさか婚約をするなんて思ってもいなかったし、二人はそれなりに会話をしそれなりに会話が弾み、二人の関係をその時点で聞かれていたなら知人以上友人未満、まぁ、いいお友達にはなれるんじゃないかしら? といったところだっただろうか。


 可もなく不可もなく。


 余程の事がなければそれなりに仲が良くなっていくだろうし、会う機会がなければ進展もないため良くも悪くももあった話ではない。

 仲が良くも悪くもなるには、どちらにしろお互いの努力次第といったところだ。

 良い関係を築くならどちらか片方が頑張った所でいずれ破綻するし、悪い関係を築きたいならお互い、もしくはどちらかが相手を蔑ろにしていけば簡単にその関係は訪れる。誰だって自分を大切にしない相手を大切にしようとは思わないのだから。



 婚約が結ばれた時、二人の仲はとても良いというわけではなかったが元々顔見知りという事もあって、初対面で婚約を決められた相手と比べればそこそこ良好だと言えただろう。


 だからだろうか。

 アンジェリカの両親も、ルイスの両親も二人の婚約に問題はないと思っていたし、そのまま結婚しても上手くいくだろうと思っていたようだ。



 冷めた紅茶を飲み干して、アンジェリカは支払いを済ませ店を出た。


「よし、婚約は無かったことにしましょう」


 そう心に決めて。

 口に出したのは単なる決意表明である。



「――婚約を解消したい!? 一体またどうして!?」


 家に帰るなり娘のアンジェリカにそう言われ、父エドモンドは思わず目をかっ開いた。

 今までアンジェリカの口からルイスに対する悪口だとか、不満だとかを聞いた事がなかったためにまさに予想外。寝耳に水だったのだ。


「他に好きな相手ができたとか!?」


 母ジュリエットが目を煌めかせてそんなことを聞いてくる。


「いいえお母さま、生憎とそんな出会いはなくてよ」

「あら、じゃあ一体どうして」

「これをご覧くださいまし」


 言って、アンジェリカは自分の携帯を差し出した。


 ルイスとのメッセージのやりとりがずらりと並んでいる。


 それに目を通していくうちに、ジュリエットの表情がキラキラしていたものからすんっとしたものに変わっていく。


「わたくしとルイス様が婚約をしてから早一年。その間、わたくしたちにマトモな進展はありませんでした」

「本当か!?」


 流石に何もないと言われてエドモンドもジュリエットが手にしてメッセージを眺めている携帯を隣から覗き込むように見始める。


 目が文字を追いかけて、そうして――


「これは……婚約解消じゃなくて破棄でもよくないか?」


 父はそんな風にのたまったのである。

「いえ、破棄の場合はわたくしの経歴にも傷がつく恐れがあります。最初から無かったことにするのがよろしいかと」

「む、むぅ……確かに……」


 婚約破棄であるならば、相手を有責に慰謝料だとかを請求できる。

 エドモンドはルイスの両親とそれなりに仲が良く、家格もそう離れているわけじゃないし、お互い自分の子にはまだ婚約者もいないから……という事で手近な場所にちょうどいい相手がいる事だし、それじゃ二人をくっつけようか、みたいなノリで婚約の話を持ち出したのだ。


 お互いの家同士がくっつけばそれなりにメリットもあった、というのも勿論ある。

 別に二人を結婚させなくたって親同士の付き合いを続ける事は可能だろうし、もしもアンジェリカかルイスのどちらかが婚約に乗り気でなければ元々婚約させるつもりもなかった。

 二人は特に嫌がるわけでもなく、あ、そういう事なんですね、と軽いノリで反対もしなかったのでこの婚約は結ばれたのである。


 エドモンドは早速自らの携帯を取り出してルイスの父であるエリックにメッセージを送った。

 エリックからの返信は早く、一体どうしてという言葉が当然のように存在している。

 それに対して娘の携帯を見たからこその提案だと返されて、息子が携帯を素直に見せてくれるならいいが、そうじゃないなら娘のを確認した方が早いと思うともメッセージを送られて、エリックは急遽アンジェリカの屋敷に訪れる事を決めたのだった。


 両家の暮らす場所は幸いそこまで離れたところではない。

 馬車で精々一時間程といったところだろうか。

 魔導技術の進歩により馬車よりも早く移動できる乗り物がないわけでもなかったが、そちらは魔力消費が大きいのと使用の際にいくつかの手続きをしなければならない事もあって、ここぞという時だけに使われる。

 そちらの乗り物を主流にしてしまうと、今度は馬の世話をする者たちの雇用問題もあるのでそう簡単に馬を移動手段から切り捨てられないというのもあった。

 馬を育て世話をする者たちが一斉に雇用を失えば、職を失った者たちがすぐに次の仕事にありつけるとも限らない。そうなれば職を失い金もなくなった者たちは犯罪に手を染めるだろうし、そうなれば街の治安も悪化するのは言うまでもなかった。


 最悪それで貴族に恨みを向けられて暴動を起こされ、なんて事になればそれらを放置するわけにもいかない。無駄な対策に時間と人手が奪われるのは、どう考えても面倒の一言でしかなかった。


 それもあって馬車での移動なわけなのだが。



 あまりに急いで出てきたからか、エリックが到着した時には馬車の中にいたエリックも、馬もやたらとぐったりしていたのである。馬車の中は案外揺れるのでここでも魔導技術により開発された重力調整装置だとかが役に立つのだが、急いで出てきたエリックはそれを用意する間も惜しいとばかりに乗り込んでそうして出発したからこそ、腰と尻に多大なダメージを負ってしまっていた。

 よろよろとした足取りのエリックは傍から見れば息子が婚約解消されるかどうかの瀬戸際に急ぎ駆け付けただけの息子思いの父に見えるが、恐らくアンジェリカの携帯に残されているルイスとのやりとりを見れば今度はきっと息子の駄目さ加減を見せつけられて打ちひしがれる父の図へと変貌するのだろう。


 挨拶を軽く済ませ、早速どういう事かとエリックはエドモンドに問いかけた。

 そうしてエドモンドはアンジェリカに目配せし、アンジェリカは自らの携帯のメッセージ画面を開いた状態でエリックに渡した。


 エリックがアンジェリカの携帯で文章を打ち込んで誰かに送る事はできないが、それでもそこに書かれてある文字を読む事は可能だ。故にエリックはアンジェリカの携帯をそっと受け取り、アンジェリカとルイスとのやりとりをほぼ最初から見ていった。


 読めば読むほど青くなっていくエリックの顔色を、アンジェリカは逆に面白くなってきたなとばかりに眺めていた。人の顔ってあんなに青くなるのね。一体どこまで青くなるのかしら。完全に他人事かつ見世物を見ている状態である。


 アンジェリカからしてみれば、エリックはルイスの父であり、また自分の父であるエドモンドの友人という間柄の自分にとってはそこまで身近な相手ではない。

 お父さんのお友達。世間一般に説明する言葉としてこれ以上のものはない。

 ルイスと結婚したら将来的にアンジェリカも彼の事をお義父様と呼ぶ事になるのかもしれなかったが、精々呼び名が変わるだけのもの。それ以上でも以下でもなかった。


「……婚約破棄、ではなく解消、なんだな……?」


 一通り目を通し終わったのだろう。最終的に青を通り越して真っ白い顔色になったエリックは、エドモンドにそう問いかけた。

「あぁ、破棄の場合は下手をすればうちのアンジェリカにも傷がつく可能性もある。だが解消、もっと言うなら白紙化できるなら、最初からそんなものは無かったことになる。アンジェリカの事を考えるならその方がこっちとしては好都合だ」


 場合によってルイス有責の慰謝料を支払う事になれば、恐らくエドモンドとエリックの家の関係も今まで通りとはいかなくなるかもしれない。

 アンジェリカとしてはルイスとの関係さえなかったことにできれば父親同士が仲良くしてようとどうでもいいので、それについてあれこれ口を挟むつもりはなかった。

 遥か東の国には坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという言葉があるらしいのだが、アンジェリカは別にルイスに対して憎しみを持っているわけでもないし、ましてやルイスの両親・関係者だからという理由でそれ以外の誰かを嫌悪するまでにも至っていない。


 そう、アンジェリカは名前しか知らないルイスの幼馴染であるリーアという少女についても、何とも思っていなかった。

 アンジェリカの意見を聞きたいと言われたから、アンジェリカは思っていることを素直に答えた。

 好きだった気持ちが一転して嫌いに変わるどころか、そもそも興味すらもう持っていない程。

 道端の石ころレベルでしか認識されていないくらいの興味・関心のなさにエリックは息子の意思を確認する必要もないと判断し、その場で二人の婚約は無かったことにされた。




 ――さて、そんな二人が再会する事になったのは、王国の建国記念パーティーでの事だった。

 王都で盛大に祝われているが、城のパーティーに参加できるのはある一定の身分を持った貴族たちだけだ。

 アンジェリカは友人である令嬢たちと会話に花を咲かせ、カフェで出るお菓子とは当然圧倒的な違いを見せる見た目も味も洗練されたお菓子ににっこにこであった。


「そういえばアンジェリカ、貴女最近どうなの?」

「どう、とは……? あ、あぁ、そういえばわたくしも最近ようやく婚約しましたの」

「まぁ、どなた? どなたでいらっしゃいますの?」

「隣の領地の侯爵家のシリウス様ですわ」

「まぁ、あの方? 素敵な方という噂は聞いているけれど、あまり社交の場に出てこないから詳しくは存じ上げませんの。アンジェリカから見てどんな方なんですの?」

「そうですわね……話をしていて楽しいし、一緒にいて穏やかな気持ちになれる人、わたくしから見たシリウス様はそういう方ですわ」

「あら素敵。式はいつ? わたくしの事も誘ってくださる? 領地から沢山お祝いの品を持っていきますわ」

「まぁ、来ていただけるの? 嬉しいわマリアンヌ。そうだ、ローゼリア、スカーレット、貴方たちも式には来てくれる?」

「もちろんよ。友人を祝わないなんてあり得ないもの」

「そうよそうよ。むしろ誘ってくれなきゃわたくしとアンジェリカはお友達じゃなかったの!? ととてもショックを受けますわ」

「そうよね。もしそんな事になったらあまりの悲しみに屋敷に三年は引きこもってしまいそう」


 さめざめとした表情をしながらも、しかしその声は楽しげで。

 アンジェリカも思わず釣られて笑みを浮かべ――



「一体どういう事だ!?」



 割と近くで聞こえた大声に、思わずすんとした表情へ一瞬で変わった。


 紳士淑女の集まる場で、それに相応しくない行いをした者がいれば当然目立つ。

 それがちょっと見苦しい動きをしてしまった、程度ならそこまで注目は浴びない。ダンスの時に大失敗でもしたなら話は別だが。

 だがしかし大声を上げれば嫌でも注目は集まる。周囲がそれなりに騒々しければその声もかき消されたかもしれない。けれど、周囲はそれぞれ談笑し和やかな雰囲気ですらあったのだ。

 実際アンジェリカの近くにいた別の令嬢や令息たちはアンジェリカの婚約が決まったという話が聞こえてきても、まぁ素敵だとか、羨ましい俺なんてまだ決まってないぜ……とか、小声で言う事はあっても別段政敵になってる家の令嬢というわけでもなければおめでたい話だな、で終わる。

 これが家の敵と見なしているような相手であったら、もうちょっと反応は変わるのだが周囲で聞いていた者たちは別にそういうものでもない。

 いくら足の引っ張り合いをするのが常な貴族であっても、誰彼構わず他人の幸せを妬むというわけでもない。というか、人の不幸は蜜の味というがそれはそれとして人の幸せを素直に祝えないのは人としてどうかと思っている者も大勢いるのだ。


 アンジェリカにほのかな恋心を抱いていた令息は駄目元で婚約の打診しとけばよかった……なんて肩を落としたりもしていたけれど、その令息は友人たちに肩をぽんと叩かれ慰められている。

 シリウス侯爵令息の事はそう詳しくはないけれど、聞こえてくる噂に悪いものはない、というかそもそも噂になるほどのネタもないので、アンジェリカ本人が幸せそうならそれでいいと失恋したばかりの令息は友人に慰められながらも下手くそな笑顔を浮かべていた。


 そんな、恋敗れた男が近くにいる中で大声を上げたのはルイス・ガゼット伯爵令息である。

 彼はその表情に怒りを浮かべ、アンジェリカを睨みつけている。


「君は僕の婚約者だろう!?」


 そして次に言われた言葉に、周囲は一瞬ざわついた。

 対する伯爵令嬢アンジェリカ・ルルノールはかつて婚約者でもあった男を見た。

 一体何を言ってるのかしら。その関係が終わったの、もう半年以上前の話なんですけど。

 思わずそう言ってやりたかったが、アンジェリカは小首を傾げ、頭のおかしい人間を見るような目をルイスに向けた。


「一体何のお話ですか? わたくしとガゼット伯爵令息様が婚約者であった事などございません」

 どなたかとお間違えになっているのではなくて?


 本当に何を言ってるんだろう、とばかりの反応に周囲の目がこちらに向けられているのを感じる。


 王族の話が終わった後で、今はダンスをしている者もいるけれど、端の方で友人たちと和気藹々と談笑している者たちも多くいる。

 そんな中でゴシップの気配漂うものがあれば、そりゃあ周囲としては注目せざるを得ないだろう。もしアンジェリカが当事者ではなく第三者であったならば、彼女も目をまんまるにさせつつも、きっとその展開を見守ったに違いないのだから。


「確かに父から婚約は無かった事になった、と言われたけれど! けれどどうして!? 何故僕と話し合う事もなく婚約を白紙になんて!」


 うわ、とアンジェリカは内心でうんざりした。

 自分の恥をわざわざ晒しにくるとか、大丈夫かしらこの人……という気持ちだった。

 無かったことになった、そうルイスの父からも言われたのだろう。

 携帯には流石に元婚約者であろうとも男の連絡先をいつまでもそのままにしておくのはな……と思ったからこそ、消去――するべきなのだろうが、そうすると今までのやりとりのデータも消える。

 なので連絡先をブロックするだけに留めておいたのだが、あの日、婚約を無かったことにしようとアンジェリカが決めた日――幼馴染に頼まれてそちらへ行ったルイスがデートにこなかった日でもある――以降、アンジェリカからルイスにメッセージを送った事は一度もないし、連絡先をブロックされたルイスからも連絡が来る事は勿論なかった。



 アンジェリカは困ったように眉を下げながらも、とりあえずわざわざ恥を晒しにきたならまぁいいか、と開き直る事にした。折角白紙にして穏便に済ませたというのに自分の醜態を広めたいだなんて、ガゼット家の令息はおかしなヘキをお持ちでいらっしゃるのねぇ……と。



「確かにわたくしとの婚約の話が出ていた事はありました」

「だろう!」

「ですが、話が出ただけで結局はその話は無かったことになった、ただそれだけですよ。

 実際、わたくしと貴方様との間で婚約者らしい事など一度たりともしていませんでしょう?」


 アンジェリカの言葉に、今度はルイスへ向けられる視線が半分困惑、半分嘲り紛いのものに変わる。


 事情を知る前であったなら、婚約の話を持ち出しておきながらも他の男と婚約した悪女、という見方もできたがしかしアンジェリカの言葉が真実であるなら話は何もおかしくない。

 実際婚約の話が出てもそれが成立する前に無かったことになるなんて、割とよくある話なのだ。

 身分が上の――それこそ年齢もまだ一桁のうちから婚約をさせて国のために、というようなところならまだしも、それより下の身分の家の婚約は情勢によっても変わったりすることだってある。

 それに相手が病気や事故で亡くなる事も多くはないがあるのだ。


 三十年程前の話だが、公爵家の令息と伯爵家の令嬢が婚約をしていたものの、令嬢が病気で儚くなってしまい、公爵家は跡取りも必要だし新たな婚約者を、となったのだが。

 当時他に家柄が釣り合う令嬢は少なく、いてもとうに婚約者がいる家ばかり。

 公爵家の親戚筋から養子を迎えて跡取りを……とするには色々と問題もあったようで、結局別の家のご令嬢が当時結んでいた婚約を解消され公爵家の令息と結ばれる事となった、というものもあったりしたのだ。


 そういったお家事情も絡んでいたりすれば他の家でも事情を把握できただろうけれど、しかしルイスの言い分はそもそも婚約がマトモに成立していたかどうかも怪しい。

 婚約の白紙と言っていたが、成立する以前の話でアンジェリカは婚約者ではなく、婚約者候補だったのでは……? という疑念も生じたのか周囲のルイスを見る目はなんとも言えない微妙なものばかりである。


「えっ、ヤダ、婚約者でもないのにそう思い込んでらっしゃったの……怖いわ……」

 アンジェリカの近くにいた令嬢がそう呟いた。小声ではあるがその声は周囲によく聞こえた。


 思い込みが激しいのみならず、虚構を現実と思い込むような男が将来家を継いだら色々と面倒な事に巻き込んできそう、というのが暗に含まれていた。

 貴族は契約を重んじる。だが、己の頭の中の妄想を現実だと思い込んだ相手のありもしない契約を突きつけられてみろ、想像しただけでも面倒くさい。勿論相手の頭の中だけの出来事で物的証拠はないだろうとはいえ、真実を突きつけて相手の愉快な脳みそに理解させねばならないとなると、いっそネズミに芸を仕込む方が余程楽だと思える程だ。


 令嬢――スカーレットの呟きに一瞬で周囲はルイスの事を頭のおかしい可哀そうな人、という認識が植え付けられつつあった。


「ねぇアンジェリカ、念の為、そう、貴方の名誉のために聞いておくけれど、本当に何もありませんでしたの? 例えばほら、デートに行ったとか、そういうの」

「ありませんわね。わたくしとそちらの伯爵令息様が共に出かけた事がある、という事実は一切ございません。気になるようなら調べていただいてもよろしくてよ。目撃者はそもそも出ないでしょうけれど」


 マリアンヌの問いに堂々と答えたアンジェリカ。ルイスは若干たじろいだ。


 その反応で、アンジェリカの言葉は正しいのだと周囲は思った。

 仮にすぐに真実がわからずとも、こういうのは調べれば最終的にはきっちりと判明するものなのだ。人の口に戸は立てられない、もしルイスとアンジェリカが二人でどこか――例えば劇場だとか、服飾店・宝飾店だとかの店に行ったとなれば、店の人間ならば、しかも客が貴族であるならばなおの事覚えているだろうし、劇場だとかの不特定多数が訪れる場所であったとしても誰かしらの記憶に残っている可能性は高い。

 何の特徴もない平凡な平民であればともかく、貴族であるならば誰かの記憶に残らない方がおかしいのだ。


 ちょっと調べたらすぐに真実が明るみにでるようなこと。

 調べてくれて構わないとまでアンジェリカが言い切ったのであれば、本当にそんな事実はなかったのだろう。そう思わせるだけの説得力が言葉と雰囲気に確かに存在していた。


 実際に王都で生活をしているアンジェリカを何度か見かけた者はいるけれど、しかし彼女がルイスと共にいたのを見た者は少なくともこの場にはいなかった。

 彼女はいつも一人でのんびりと散歩に出るような感じでカフェなどに行き、そうしてお茶を楽しんで帰る――というのを目撃した者であればいた。だが、誰かと待ち合わせをしている風でもないし、お茶と茶菓子を楽しんだ後はそのまま帰っていったのだ。

 その足取りが重々しければ、もしかしてデートをすっぽかされたのか? と思う者もいたかもしれない。けれどもアンジェリカを見かけた事がある者は彼女が一人で散歩しているようにしか見えなかったのである。


 友人との時も大事にしているけれど、一人の時間を楽しむ事だってある。

 だからこそ別にアンジェリカが一人でいたとしても、その雰囲気があまりにも悲壮なものでなければ周囲は別段気にかけて声をかけにいくなんて事もなかったのだ。



「確かにわたくしとそちらとで婚約話が出たのはそうですけれど。ですが、出ただけで結ばれはしませんでした。現にわたくしには他に婚約者がおりますもの。

 お隣の領地のお相手ではありますけれど、シリウス様も今は王都で過ごしているのでよく一緒にお出かけしますの。

 わたくしとガゼット伯爵令息様がともにお出かけした事なんて一度もないでしょう?

 最初はそういう話も出ていたようですが……一度目のデートをすっぽかした挙句埋め合わせをすると言って一度もありませんでしたし、誕生日の祝いの言葉もなければそれ以外も何も……

 そういう事で婚約は最初から無かったことになったというのに、今更婚約者だと言われても……迷惑ですわ」

「それは……!」


 確かにそうであったので、ルイスは一瞬とはいえ言い淀んだ。


「けどすっぽかしたつもりなんて」

「その埋め合わせも一度も行っていないくせに?

 釣った魚に餌をやらない、という言葉がありますけれど、釣る前から餌もなければ釣れるものも釣れませんわよ?」

 そりゃそうだ、とローゼリアは思わず淑女の仮面を外して頷いた。釣りたいならば餌は必須だし、せめて疑似餌くらいは用意しておけという話である。というかそれは普通の釣りの話だ。餌も何もつけず釣り糸を垂らしたところで一体何が釣れるのかと。


「すっぽかしたって、どういう事ですの?」

 とりあえずマリアンヌが助け舟を出すような顔をして問いかけた。

 別にルイスを助けようとはこれっぽっちも思っていない。ただ、深く聞いた方が何だか面白い事になりそうな予感がしただけだ。



 アンジェリカはどうせそのうち友人たちには話をするつもりだったしな……と思ったのもあって、まぁ他にも話が広まるけど別に自分の評判に影響はないか、と判断して携帯のルイスとのメッセージのやり取りをマリアンヌに見せた。

 マリアンヌはローゼリアとスカーレットにも聞こえるように――あくまでそれ以外の周囲に聞かせようとは思っていない声量で読み上げる。


 最初はルイスの家の近所に住む幼馴染のリーアという少女が熱を出したからお見舞いに行くという内容の、デートに行けなくなった謝罪の言葉だった。

 幼馴染で昔からあまり身体が丈夫ではないため友人と呼べる者もほとんどおらず、心配なので様子を確認しにいきたい。リーアから辛そうな、それでいて助けを求めるメールにルイスは居ても立っても居られなくなって、看病に行きたいのだとアンジェリカに告げて、この埋め合わせは今度必ずという言葉で締めていた。


 ちなみにこの会場にリーアはいない。彼女は男爵令嬢で身分も低く、また特に何の功績も残したわけではないので招待状を送られる資格を持っていなかった。街で行われているお祭りには身分関係なく参加できるので参加するとなればそちらだろう。

 参加できる体力があるかどうかはさておき。



 マリアンヌはそのまま次のメールをつらつらと読み上げていく。


 一度目のデートとやらの埋め合わせのデートの日、またもリーアが体調を崩して中止になった。

 病気の時や体調が悪い時はどうしたって不安になるものだ。風邪を引いたとき、普段は思わないのに妙に心細くなって感染させてしまう事を考えれば誰かと一緒にいたいなど思わない方がいいのに、それでも誰かにいてほしいと思う時のような。頭ではわかっているのに心が寂しさを訴えて心細さからか知らず涙がこぼれて泣いてしまう、なんて事もないわけじゃない。

 こういう時、誰かしら相手をしてくれる人がいればいいが、友人も少ないとなれば縋れる相手は限られてくる。


 家族に頼ろうにもリーアの両親は仕事で家を出なければならないようだったし、使用人たちもそれぞれの仕事がある。ずっとリーアに付きっ切りというわけにもいかないのはどうしようもない事だった。


 だからこそ、自分に優しくしてくれる幼馴染に頼る事はリーアにとって最終手段だったのだろう。

 だが何というか、日が悪すぎた。


 大体アンジェリカとのデートの埋め合わせの日なのである。

 もしかしたらそれ以外の日にもそういう事があったのかもしれない。けれども、アンジェリカと出かける約束をしていた日は確実にそうだった。


 メールの内容を読み上げられていくルイスの顔色はお世辞にも良いとは言えなかった。

 それはそうだろう。

 一度目のデートの埋め合わせの埋め合わせの埋め合わせのそのまた埋め合わせの更に埋め合わせの……


 結局デートは一度もしていないのだ。


 一度目のデートの埋め合わせは果たされていないし、アンジェリカも何度目かのメッセージのやりとりでとっくに無いものだと思っている様子であった。


「凄い、埋め合わせするって言っておきながら結局一度もできていないわ……!」


 全てを読み終えたマリアンヌの感嘆の声は思った以上に周囲に響いた。


「まるで借金返済の期日を引き延ばそうとする人みたいな言い訳ですわね」


 スカーレットの庶民派な突っ込みに周囲で聞いていた一部がくっ、と忍び笑いを漏らす。


「あぁ、演劇で見た事ありますわ。この日までに返すって言っておきながら、いざ当日になったら三日まってくれとか言って、また三日後には明日には必ずとか、延々引き延ばすやつですわね」

 ローゼリアが結局返せるアテもなかったようですのよ、とその演劇の感想をぽそりと呟く。少なくともご令嬢が見る内容の劇なのだろうか、それは……と周囲の数名が困惑した。


 婚約者として何かしたか、と問われれば何もしていないのだ。

 これで婚約者だなんて言われても誰が信じるのか。それどころか、ここまでされたらいくらなんでも虚仮にされていると思ってもおかしくはない。ルイス有責での婚約破棄にして慰謝料を請求したって罰は当たらないと周囲は思っていた。

 だが、そうするとアンジェリカには婚約破棄をしたという事実が残る。それを考えると次の縁談がすんなりまとまるとも言えず、だからこそ、婚約は最初からなかったという意味での白紙にしたのだろう。

 周囲は事情をしっかりと理解した。


 そうなるとルイスに向けられる視線は、もしかしたら悪女に騙された可哀そうな男の可能性もあってまだ先程まではそうでもなかったが、今はただひたすらにどうしようもない生き物を見る目ばかりだ。

 なんでこの男自分の恥をわざわざ晒しにきたんだ? という目も勿論含まれている。


 メッセージの内容を読み上げていた時であれば、婚約者の男性に蔑ろにされている哀れな女性、という目をアンジェリカも向けられていたかもしれない。だがしかし、アンジェリカは割と早い段階で今日もこないんだろうなと開き直ってカフェのメニューを楽しみ、ついでに気になるお店に立ち寄って帰るというお一人様を満喫した休日をこれでもかと堪能していた。めっちゃエンジョイ。これで可哀そうな女性、と見るのは無理が過ぎる。

 むしろルイスがいない方がのびのびしているまであるくらいだ。


「一応一年程様子を見ましたけれど、一年経っても埋め合わせすらできない男と縁を繋いでも……と思ったので穏便に解消を申し出たのですよ」

 一見すると優しげな声ではあるが、その内容は暗に埋め合わせもできないぼんくらであると揶揄している。

「わたくし、学生時代の夏休みの宿題を最終日になって慌ててやる計画性のない人とはうまくやれる気がしませんし、ましてや夏休みが終わってもなお宿題に手をつけないような方、論外ですの」


 例えがアレだが、周囲はアンジェリカの言いたいことをはっきりと理解してしまった。

 この場にいるのは身分のある高位貴族が多い。中には子爵家や男爵家もいないわけではないが、そちらは極一部で明確に何らかの手柄をたてている家だ。高位貴族とのやりとりに慣れた者たちと言ってもいい。

 故に、その場にいてアンジェリカたちの一連のやりとりを聞いていた者たちのほとんどがアンジェリカの言葉の意味を理解してしまった。


 まぁそうだろう。平民が通う文字だとかを簡単に教わるようなところで宿題に追われて、というのならまだしも、ルイスは貴族だ。宿題に関しては個人のペースがあるので、早々に終わらせる者もいれば計画を持って毎日コツコツとやる者もいるとはいえ、終わっていないのは論外なのである。

 その程度の事を終わらせる能力もない者が、ゆくゆくは家の跡を継ぐなど不安しかない。


 しかも、いくら幼馴染が心配とはいえその結果放置されたアンジェリカへの埋め合わせが一度たりとも実行されていないというのも大問題であった。

 婚約の話が出た女性相手でコレである。

 他の家の貴族と何かの約束事をしたとして、それをすっぽかした後それに関する謝罪はあるだろうけれど、埋め合わせがマトモにできないとか貴族としての常識を疑うしかない。

 これが自分より身分が下の相手で軽んじているとかであればまだ、わからないでもないのだ。そこに付随する感情はどうであれ。

 けれどもアンジェリカの家もルイスの家も家格は同等。

 アンジェリカが穏便に済ませたいというからこそ何も起きていないが、そうでなければ今頃ルイスの家はルイスのぼんくらぶりに続いて家の評判だってそれなりに落ちるだろう。


 アンジェリカが親同士の友好を深める分には構いません、こちらとそちらを無理に関わらせようとしなければ、と言ったからこそルイスの家の評判がガタ落ちになる事だけは回避できたようなものなのだ。

 ルイスの評判に関しては何の保証もされていないけれど。



 アンジェリカはそれなりに優秀なお嬢さんとして社交界でも一応知られていた。上には上がいるけれど、アンジェリカの貴族の中での立ち位置は大体中間からちょっと上、くらいだろうか。まぁ嫁として迎え入れるのであれば、王家だとかであればともかく、そうでなければ全然文句のないご令嬢だ。


 ルイスがわざわざここで声をかけたのって、もしかして結婚後に自分がすっぽかしたあれこれの尻拭いさせるためじゃないだろうな……という疑惑がここで持ち上がり、もしそうならアンジェリカ嬢は苦労しかしない結婚生活になるところだったな……なんて声がひそひそとし始める。


 アンジェリカとルイスのメッセージのやりとりを聞く前ならともかく、聞いた後はそういう感想しか出てこない。埋め合わせは今度と言っておきながら、その埋め合わせは一度もできていないしデート以外の埋め合わせで何かお詫びの品とかもらった? という友人の質問にアンジェリカは首を横に振った。

 ひたすらにルイスの至らなさだけがぼろぼろ出てくる状態であった。

 なんだったらアンジェリカの誕生日当日にお祝いの言葉くらいは送ってくるかと思ったが、少なくとも携帯にそういったメッセージはどこにもなかった。アンジェリカはルイスの誕生日に祝いのメッセージを送っているのに。


 ある程度技術が発展したとはいえ、携帯のメッセージを部分的に選んで都合の悪いところを消去というのはできないのだ。つまり、メッセージは送ったものに関しては取り消しがきかない。文字を間違って入力して送った場合は直後に訂正の文字を送るなどするしかないのである。


 文字なのと、しかも携帯は個人認証されているのでなりすましもできず、送ったメッセージは全てその人の言葉である。言った言わないのやりとりも文字であれば遡って文面を確認するだけなので、貴族たちは今まで以上に己の発言に気を付けるようになっていた。


 そのメッセージによって、ルイスは今立場を悪くしているのである。

 幼馴染が心配なのはわからんでもないけれど、それにしたって度が過ぎている。

 一年も無駄にしたアンジェリカが可哀そう。いや実際はお一人様を満喫していたけれど。

 直接会えないにしても、だったらなおの事メッセージで沢山の会話をしておくべきだったのに、マリアンヌが読み上げたルイスとアンジェリカの全ての内容はどれもこれもデートをキャンセルしてお詫びは次に、というものばかり。


 婚約者どころか恋人だと言われても信用できるものではなかった。


 こんな事になっても一応アンジェリカはもしルイスと結婚したら……という未来を一度くらいは想像してみたのだ。自分は蔑ろにされて幼馴染を優先させる夫。苦言を零せば付き合いの長い幼馴染だとか言われるだろう事は予想できる。

 そしていざ子供が生まれたとして、きっと夫は幼馴染に呼び出されたら迷わずそちらへ行くだろうなとも。子も妻も放り出して。


 それならいっそ種だけもらって自分の家で生涯過ごせばいいかなと思わなくもなかったのだが、種だけもらうと考えても正直それならもっと上のいい男を狙う。ルイスは別段ブサイクというわけでもないが、顔がビックリするほど整っているとかでもない。そこそこ。中の上とか上の下とかだろうか。毎日眺めて目の保養ね、とか思う程ではないのだ。


 ならば婚約者でいる意味は最初からないし、結婚する意味などもっと無い。

 それでも一年という時間を与えていたのだから、アンジェリカからすれば充分だろうと思っている。

 まぁその一年の間にルイスのぼんくらぶりがコツコツ発揮されていったというのもあるので、果たして本当に慈悲かは疑わしいけれど。


 ――結局のところ、ルイスがこれ以上何を言ったところで婚約は最初からなかったという話だし、ましてや周囲にあまりにも詳しい事情が知られている。ルイスに場の状況を引っくり返す手は何もなかった。

 アンジェリカの次の婚約者に関しては、きっちりルイスとの婚約が白紙になった後で知り合ってそうして仲を深めているのも判明しているし、ルイスが何かを言えば言うだけ自分の立場が悪くなる一方なのである。


 一部から嘲笑を受けて、ルイスはその場からすごすごと撤退する事しかできなかった。仮に二人きりであれば縋り付いて復縁を迫ったかもしれないが、周囲に人が多すぎたのだ。

 この状態でアンジェリカに文字通り縋り付こうとしても、婚約者のいる女性に襲い掛かろうとした不届き者扱いを受けるだろう。このパーティーに来る時父はわざわざ彼女に構いに行くんじゃないぞと言い含めていたが、それでもこうしてやらかしてしまっている。その上でもし縋りつくような事をしていたら……その考えが浮かぶ程度にはまだ理性が残っていた。割と手遅れではあるけれど。


 アンジェリカは友人に災難でしたわね、とか言われて、しかし本人は一切気にしていなかったので再び美味しいお菓子に舌鼓を打った。どうでもいい事柄に心を向けるなんて無駄な事をするくらいならば、折角の機会だ。なるべく色んな種類のお菓子を食べておきたい。アンジェリカは色気より食い気の女であった。貴族令嬢として見た目は整えているからそうは見えないけれど。




 後日談として、ルイスの家はルイスが跡を継ぐのではなくその弟のシモンヌが跡取りになった、という話が持ち上がったくらいである。

 エドモンドとエリックの付き合いは今でも続いているが、ルイスとアンジェリカが関わる事はない。

 だが、ルイスを家の当主にしてしまうと問題しかないなと流石にエリックだってわかっていたのだ。だからこそ、もう少しだけ自分が現役で働いて、シモンヌを立派な後継者として育てる事に力を注ぐことにした。


 てっきり自分がどこかの家のお婿にいくものだと思っていたシモンヌは兄が他の家に婿に行くのだと聞かされて、深く考える事なく納得した様子であった。


 ルイスは婿として男爵家に入る事が決まった。

 幼馴染のリーアがいる家である。


 リーアは身体が弱く外に出る機会も少ないので友人もロクにいないとはいえ、ルイスに関しては兄のようにしか思っていなかった。それが夫になると聞かされて、大いに戸惑ったものの。

 ルイスが婚約していた事。しかしそれが白紙になった事などを聞かされて、そこでようやくリーアは自分が知らぬ間にとんでもない事をしてしまったのだと知ったのである。

 婚約者がいたの!? 言ってちょうだいな。私全然知らなくて、今までみたいに頼り切りだったの!? 知らないうちに私そのお嬢様に嫌がらせしてたみたいになってる!? ロクに外に出られない身とはいえ、そのかわりに本を読んだりする事で時間を潰していたリーアは、恋人たちを引き裂く悪役の立場になっていたのかと思ってビックリするくらい衝撃を受けたし、既に終わった話とはいえアンジェリカ様に申し訳ないとなってせめて謝罪の手紙を……! とバクバクする心臓をおさえてひたすら分厚い謝罪の手紙を書きあげた。

 どう考えても封筒に入りきらない量。いっそ本にでもして送った方がまだマシに思える分厚さ。


 こんなの送られてもアンジェリカだって迷惑だろうと思う心があればよかったが、リーアはやらかした事に対してとにかくお詫びをの気持ちしかなかったので、そこに考えが至らなかった。わざとじゃないけどやらかした事実に恐らくパニックに陥っていたのは否定しない。


 ある日突然分厚い手紙が送られてきたアンジェリカは何事かと目を疑ったが、読んで見ればそこには切々とひたすらに謝罪の言葉が書き連ねてあって、そこでようやく思い出したのである。あぁ、ルイスの幼馴染のリーアさん。

 アンジェリカも正直直接面識があれば、もしかしてあの女わざと邪魔してるんじゃないでしょうね、くらいは疑ったかもしれないが、しかしルイスのメッセージで名前を知った程度の存在。直接言葉を交わした事もないために、アンジェリカの中では別にリーア憎しという感情もなかったのである。


 むしろ兄同然に思ってた男が婿になったと聞かされて、まぁそれはそれは……という感情しか出てこなかった。


 リーアは身体が弱いのもあって嫁入りは難しいだろうと思っていたし、最終的には修道院へ行くつもりでいたようなのだ。

 ルイスについては一切恋心だとかを持っておらず、それどころか本当に婚約無かったことにしてよかったんですか!? ルイスの事下僕くらいにしてこき使ってやってもいいんですよみたいな事まで書かれていた。容赦がない。あと知らぬとはいえ自分もやらかしたも同然なのでお詫びに何でもしますとか書かれていた。

 何でもだなんて、なんて恐ろしくも後先を考えていないのだろうと思ったが、アンジェリカは面白くなってきたので一冊の本並に分厚い手紙を読み終えた後ペンを手に取った。


 何だかんだ彼女の手紙の文章は凄まじく大量のくせに読みやすかったので、なんだったら本でも書いてみないかと持ち掛けたのである。

 実際社交界でルイスとアンジェリカの出来事はそれなりに知られているが、二人の婚約が無かったことになった原因でもあるリーアは何も知らない者からすれば悪役みたいな認識なのだ。

 本人はルイスが婚約していた事すら知らなかったというのだから、流石にその認識は不憫に思えなくもない。しかも男爵家、何かあって社交の場に出た時に他の貴族に必要のない敵意を向けられればそれはそれで……となんだか哀れにも思えてくる。

 知っててやったならアンジェリカだってそのまま悪役の立場に甘んじていなさいなと思ったかもしれないが、恐らく本当に知らなかったのだろう。文面からもそれは訴えられていたし、ついでにちょっと調べれば知ってたかどうかなんて簡単にわかるのだ。


 身体が弱く外にろくに出られないとはいえ、なんだかおもしれー女の気配を感じたアンジェリカはリーアに手紙を出して、そうしてその中身を見たリーアは仰天した。お詫びになんでもとはいったけど、まさか本を一冊書き上げろだなんて返ってくるとは思わなかったのだ。


 とはいえお詫びに何でもすると書いてしまったのはリーア本人だ。

 死んで詫びろとか言われていないだけとても優しい。


 手紙には当時のルイスに関する思いが書かれていた。割とどうとも思っていないドライさに、リーアはすんっとした表情になってしまった。始まる前から終わってた。これに尽きる。

 折角なのでルイスからも当時の話を根掘り葉掘り聞きだして、全部終わった後で知ることになった自分の衝撃も書き連ねて、リーアは一冊の暴露本を完成させたのである。


 そしてアンジェリカはそれを面白がって出版社に持ち込んだ。

 とんでもない女である。

 まぁもう終わった話なのでというのもあったのかもしれない。リーアにとってはまだ終わってないというか心の中の消化が済んでいない話なのだけれど。


 本人の許可済み、という一言を前書きに記した状態でその本は出版された。

 面白がって買った貴族は多いし、一部富裕層の平民も貴族のあれこれを知る資料……と堅苦しい言い訳をしていたが興味本位で買った。

 驚くくらいに売れた結果、リーアのもとには結構な印税が入ってきてそれにも仰天した。ビックリしすぎて心臓が止まるかと思ったくらいだ。

 買った者の大半は面白半分だったが、一部では戒めの書として手元に置いた者もいたようだ。


 いくら知らぬこととはいえ二人の婚約を邪魔した形になってしまったのだから、慰謝料を支払えみたいに言われてこっちがお金を払う覚悟くらいはあったのに、なんでか逆にお金が振り込まれている。わけのわからない物をみる時の猫のような顔をして、リーアは何度か自分で自分の頬を叩いてみた。しっかり痛かったので現実である。

「どっ、ドーユーコト……?」

 妙な発音で呟いてみても現実に変わりはない。


 アンジェリカからまたもや届いたお手紙には、割と好評だったという言葉のほかにリーアの書いた文章が面白かったので他にも本を書いてみないかと出版社から打診されているというものもあった。

 何がなんだかわからなかった。

 更によくよく読んでみれば、アンジェリカの心遣いに思わず泣きそうになった。


 確かにリーアはルイスを兄のように慕っていたけれど、しかし結婚したいと思っていた事はないのだ。

 自分の身体の事を考えたら結婚するより一生一人でいた方が迷惑もかからないだろう。そう思っていたしそうするつもりだった。

 だからこそ、これからはルイスが夫なのだと言われても嬉しさよりも困惑が大きかったし、ましてやルイスは自分のせいで婚約が台無しになったと思っている事もあってか、婿としてやってきてからのルイスの態度にはほんのりとしたトゲがあった。

 今までの優しい兄の姿はもうどこにもなかったのである。


 二人の仲はギスギスしはじめるし、ましてやリーアの身体は弱いから初夜なんてもっての外。兄同然の男に抱かれるなど冗談ではないとリーアは思っているし、ルイスがどう思っているかはわからない。ただ、彼はリーアにそういった触れ合いを強制したりはしなかった。けれどもやはり態度の端々は刺々しく、正直息が詰まりそうだった。

 だから、リーアは今までと同じように部屋にこもっていた。誰かの手を借りなければならない時に今まで頼っていたのはルイスだが、何かあったら使用人を呼ぶようになった。


 恐らくいずれこの結婚は破綻する。


 リーアはそう思っていたし、きっとルイスだってそう思っているのだろう。

 離縁した場合、ルイスが帰る家はないのだけれど彼は果たして今後の人生をどう考えているのかさっぱりだった。我が家の跡取りはリーアである。女であっても当主にはなれる。ただ、身体の弱さでマトモに当主としての仕事はできないから、ルイスが代行として仕事をしているようなもの。

 実権を握ってあれこれやらかす、というのも考えられるけれど、お家乗っ取りは流石に問題しかない。ましてや跡取りはできない状態だ。どこかから養子を迎えて、というのもあるけれど、もしそれがルイスが他で産ませた子であったなら。


 色々考えただけで知恵熱が出たリーアは、あまり長くルイスといるのはお互いのためにもよろしくないなと思うようになっていた。

 彼女はろくすっぽ友人もいないけれど、しかし何も考えていないわけではないのだ。ただ、自分の周囲の世界があまりにも狭いだけで。


 けれどもアンジェリカの手紙で本を出してみないかといわれた事で、リーアには新たな道が拓けたのである。


 いざという時のことを考えて、やってみるのもいいかもしれない。どうせ部屋の中にいるだけで他にやる事もないのだから。

 そう思って、リーアはアンジェリカに前向きな言葉を返した。




 さて、そこから更に十数年後の話であるが。


 とある夫婦が離縁した。

 妻は作家として有名な女性であり、離縁する際に夫であった男に慰謝料として多額の金銭を渡した。

 男に悪い部分がハッキリとあったわけではない。ただ、性格の不一致だとか、とにかくいろいろなものが合わなかった。当主代行というものに夫が不満を持っていたのも理由として挙げていた。

 彼はこの家の人間ではなく婿としてやってきたので、どうしたって当主にはなれない。どこまでいっても代行なのだ。ただ、今までの働きに応じた分の金銭を慰謝料という形で渡した事で、男も新たな人生を歩もうと思ったのだろう。今まで代行であっても結果を残してきたのは確かだ。

 家に関しては親戚筋から養子を迎えそちらを跡取りとしたために、女も家を出た。長年身体が弱く引きこもっていたが、本を出した事で得た印税で王都の出版社に程近い場所の家を借りる事ができるようになり、そちらで執筆業に専念するという名目によるものである。


 家の中にこもってばかりだった女はとっくに少女という年齢を過ぎてしまったが、王都で様々な刺激を受け王都の中を散策していくうちに体力もそれなりについてきたのか、受けた刺激を創作にぶつける事でますます活躍していく事となった。

 稼ぎの一部を孤児院などへ寄付をして、生活自体は比較的慎ましいものであったとされている。


 夫であった男についてその後の事はあまり知られていない。

 どこかの街で幸せになったとも、どこかの町の裏路地で野垂れ死んだとも、様々な噂が流れたが。

 結局真実は不明である。

このお話の中のルイスくんは基本的に理由があればやらかしても問題がないと思っているタイプでなおかつ八方美人系です。

幼馴染の看病という理由がなければ勿論ちゃんとデートに行ったと思いますが、もし他に理由があったらそれを利用してたかもしれない。

その理由も大抵は〇〇だったら仕方がないね、と言えるようなものなのであまり非難するとこっちが悪者になりそうな感じのやつ。幼馴染を理由にする以前にも、多分友人相手にもやってたんじゃないでしょうか。作中ルイスくんに友人がいる描写が一切無いあたりお察しですね。

ちょっと一線引いて距離感をもって付き合う分には良い人だけど、仲良くなって距離が近くなった途端嫌な部分が目に付くタイプ。

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まぁリーアに非がゼロとは言わんけど、 風邪ひいた人が近所に住んでる身内判定の人に「ちょっとポカリ買ってきて」って言ったら食材ガッツリ買ってきて卵がゆ作ってくれたら 「ああありがとう、でも大丈夫?」って…
[一言] でもさ、リーアだって幼馴染とはいえ男性に心細いとか連絡とっていたんでしょ?兄のようだ、とか言ってたみたいだけど、具合悪い度に呼びつけたようなものでしょ?それなりの年頃になれば婚約者くらい出来…
[気になる点] リーアの両親も大事な一人娘ならもっと配慮してあげるべきだと思いました。 同年代の令嬢を紹介するとか気の利いた侍女を付けるとか。 幼馴染みとはいえ未婚の男が頻繁に出入りしていたら、色々噂…
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