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シノビの少女は暗殺対象の幼女に救われる

作者: 早見 羽流

 大陸を支配している強国であるエッフェンベルク王国は、国王を中心とした強権によって貴族たちや領民をまとめあげ精強を誇っていたが、その影で内乱の芽を未然に摘み取る「王家の影」──通称『シノビ』が暗躍していたというのは有名な話であった。


 市場、修道院、親衛隊、貴族の召使い……様々な場所にシノビは入り込み、内乱を企てる者や跡目争いの種になりそうな者を容赦なく殺害する。


 そんなシノビの中に齢十六にも満たない少女がいた。赤ん坊の頃にシノビの頭目である『ハンゾウ』によって両親から引き離された彼女は、頭目の跡継ぎとなるべくハンゾウから持てる全ての技とシノビの掟を叩き込まれていた。情が移らないようにと親代わりであるハンゾウからは名前を与えられなかったが、シノビの仲間内では密かに『チヨメ』と呼ばれていた。

 噂によると、既に刃物を握れるようになった頃からシノビとして人を殺していたという。ある時は陽気なパン屋、ある時は優しい修道女、ある時は姉御肌の女騎士……監視する対象に合わせて強靱な意志の力で人格を変え、外見までも変えるが、彼女のその内面は虚無であった。



 今、彼女はグライリッヒ公爵家に仕え、公爵の一人娘である五歳のシュテフィの世話役メイドとして『アヤ』と名乗っていた。染めたのか、あるいはそれが地毛なのか、黒い髪を長く伸ばしたアヤは、大陸の外れに住まう東洋人を思わせる出で立ちであり、少し異様ではあったが、妾の子で両親に疎まれているシュテフィにとって唯一無二の話し相手で、心を許す相手であった。

 そう、アヤの次の標的はシュテフィだったのだ。


「ねぇ、見てアヤ! アヤを描いてみたのよ!」


 金髪の美しいシュテフィが興奮した様子で言うと、紙に筆で描かれた似顔絵を手渡してきた。それは拙い絵ではあったが一目見ただけで自分であることが認識できる程の特徴を捉えていて感嘆してしまう。だが、それと同時に胸中から沸き上がるような喜びを感じたアヤは、すぐにそれを隠して笑顔を作る。


「とてもお上手に描けていますね。お嬢様」

「えへへっ、でしょ〜?」


 屈託のない笑みを浮かべる幼い主に対して、アヤは自身の中にどす黒い感情を抑えることに必死だった。今まで幾人の暗殺対象の前に立ってきたが、これほどまでに無防備で殺しやすい相手は他に居ないだろうと思った。

 殺そうと思えば簡単にその幼い命の灯火を消すことができる。……ハンゾウの命令さえ下ればすぐにでも。しかし、同時にアヤはなんとも言えないやりきれなさを覚えていた。


(こんなか弱い存在を殺したところでなんになるのだろう? これが、本当に私のやるべき事なのだろうか?)


 疑問を抱いたアヤはすぐに答えを出すことができずにいた。

 シノビの教えに従う彼女は、当然ハンゾウの命令に背けばどうなるか、痛いほどよく分かっている。だからこそ、今まで忠実に殺しを遂行してきたのだ。それに何よりこの子を殺すことを躊躇している自分がいることに気づいた時、アヤは自分の中で何かが変化し始めているのではないかと感じずにはいられなかった。


「どうかしたの? アヤ?」

「いいえ、なんでもありません」


 心配げに見つめてくる主人を安心させるためにアヤは再び仮面を被る。そして優しく頭を撫でると、嬉しそうな表情をする彼女を前に決意を固めていくのであった。




 アヤの中で揺れ動く思いとは裏腹に、ついにその時が訪れる。その日もアヤはいつも通り、公爵家の中庭にあるガゼボへと赴いて小さな主との一時を楽しんでいたのだが……。

 突如、天空から黒い大きな鴉が舞い降りて、口にくわえた紙切れをアヤの前に差し出す。そこには『公爵令嬢シュテフィを抹殺せよ』という簡潔に書かれたハンゾウからの密書があった。それを一読するとすぐに懐に収めて、アヤは何食わぬ顔つきで目の前にいるシュテフィをじっと見据えた。


(ついにこの時か訪れてしまったか……)


 アヤには政が分からない。だから、どのような思惑があってシュテフィが抹殺されようとしているのかなど知る由もないし知る必要もなかった。しかし、この時ばかりはアヤの心の中に王家やハンゾウに対する不信感が芽生えたのは確かだった。


「アヤ……?」


 突然腕を掴まれると振り向くように促される。


「最近元気がないみたいだけど、なにかつらいことでもあったのかしら?」

「……!」


 悟られまいとしていたつもりだったが、やはり子供というべきか敏感に察知していたらしい。無邪気そうに見えるが、時折こちらを見透かすかのような視線を向ける彼女の目は誤魔化せなかったようだ。


「いえ、そんなことは……」


 アヤは咄嵯に否定するが、真っ直ぐ見つめてくる瞳を見ていると全て話してしまいたい衝動に駆られてしまう。歴戦の暗殺者であるアヤは、明らかに動揺していた。


「……」


 だが、彼女はすんでのところで冷静さを取り戻した。それは、彼女が優秀なシノビだったからに他ならなず、長年に渡って染み付いた習性がそうさせたのだ。

 アヤは素早くシュテフィの前から姿を消した。背後で自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がしたが振り返らなかった。今はただ、この乱れた感情をシュテフィに悟られてはいけないという一心であった。




 ハンゾウから命じられたシュテフィの暗殺方法は毒殺であった。シノビに古くから伝わる調合方法によって毒草を調合し、それを飲ませ続けることによって対象を病死のように見せかけて殺すことができるのだという。


(これはあくまで任務だ。感情を殺し、淡々とこなしてきた私にとって造作もないことだ)


 そうして、アヤは料理に毒を混ぜてシュテフィに食べさせた。幼いシュテフィに、毒の効果はすぐに現れた。体調を崩して寝込んだシュテフィに、薬だと言って毒を飲ませながら、アヤはひたすら自問していた。


(私は……いったい何をしているのだろう……)


 暗殺者になって初めて、彼女の中で激しい葛藤が生まれていた。


「アヤ……」

「お嬢様?」

「なんだかとても眠いの……それに寒くて……ねぇ、お医者様は呼べないの?」


 アヤは何も言わずに黙ったまま首を横に振る。


「病気は……治るの? わたしは……死ぬの?」


 その問いにも何も答えることができなかった。この子を殺そうとしているのはアヤ自身なのだ。ただ、目の前の小さく震える幼女を抱きしめることしかできなかった。


「大丈夫です。もうすぐ楽になります」


 その言葉を聞いたシュテフィはアヤの服の裾を掴む。


「ありがとう、アヤ。貴女のことが大好きよ」


 そう言って力無く微笑む少女の笑顔はアヤの心に深く突き刺さるように残った。その日から、毎日決まった時間に食事と共に少しずつ、少量の毒を摂取させる作業を繰り返した。日に日に弱っていくシュテフィの姿を見るたびにアヤの心は締め付けられるように苦しかったが、任務を放棄することはできない。アヤは、必死に耐え続けた。そしてついに……。


 ついにアヤは、これ以上シュテフィが苦しむことに耐えられなくなった。

 せめて楽に死なせてやりたいと、弱った彼女の息の根を一思いに止めるべく、夜中にシュテフィの寝室を訪れる。


 寝ているシュテフィの身体に馬乗りになって首元に手をかけると、彼女が目を覚ました。


「……アヤ?」

「……お許しください、お嬢様。これがシノビである私の使命なのです……」


 アヤは涙を流しながらも両手に力を入れていく。抵抗する体力すら残されていないのかシュテフィは静かにアヤの手を掴んでいた。

 このまま絞め殺せば任務完了だ。それなのに、アヤは一向に力を込めることができずにいた。


 やがて、アヤは幼いシュテフィの胸の上に倒れ込むようにして泣いた。そんな彼女をそっと抱きしめた小さな腕が優しくアヤの頭を撫でた。それが引き金となり、ついにアヤは嗚咽を漏らしながら叫んだ。


「こんなの間違っている!」


 数多の人間を殺してきた自分は間違っていたのではないかと。王家やハンゾウに対して抱いていた疑念は確信に変わりつつあった。


「ごめんなさい、ごめんなさい……お嬢様……本当にごめ……っ……!」


 その時、アヤの中でなにかが音を立てて崩れた。それは、今まで自分自身を縛り付けてきた『なにか』であり、自分が拠り所としてきたシノビとしての『なにか』であった。


 顔を上げたアヤの行動は早かった。素早く自室に戻ると、毒草と薬草を調合して、シノビに伝わる万能解毒薬を作る。それを持ってシュテフィの寝室にとってかえすとアヤはシュテフィの口元に押し付けるようにして薬を投与すると、やがて小さな口から呼吸音が聞こえてくる。


「お、じょうさま……?」


 恐る恐る声を掛けると、シュテフィはゆっくりと目を開ける。どうやら命だけは助かりそうだ。ほっとしたアヤはベッド脇に腰掛けると、泣きじゃくりながらシュテフィの手を握った。


 シュテフィはアヤの手に自身のもう片方の掌を重ねて微笑んだ。


「ありがとう」


 その表情は天使のようであった。少なくとも、少し前まで自分のことを殺そうとしていた相手に向けるようなものではないはずだった。

 アヤは意を決すると、自分のことをシュテフィに打ち明けることにした。


「お嬢様……私は『王家の影』──シノビと呼ばれる者で、あなたの抹殺を命じられた身です」


 アヤの告白を聞いたシュテフィは驚いた様子だったが、少し考えた後に答えた。


「そう。でも、わたしはあなたを信じているわ。わたしはきっと誰からも愛されてはいけない運命なんだって思ってたけど、違うみたいね。だって、わたしはアヤに救ってもらえたもの」


 その言葉を聞いた時、アヤは自分の中にあった大きな迷いを振り払うことができた。


「そう……ですが、それは私にとっては掟をやぶることになります。お嬢様が生きていることが知られたら、すぐに他のシノビがお嬢様と私の命を狙いに来るでしょう」

「なら、わたしとアヤの二人だけで逃げましょう?」

「お嬢様……?」

「二人で遠くの国に逃げてしまえば大丈夫よ。ねぇ、いい考えじゃない? だから行きましょ? 一緒に」


 そう言って、アヤに手を差し伸べるシュテフィの顔には笑顔が戻っていた。

 この時、アヤは思った。

 この笑顔を守るためならばどんなことでもしようと。この子のためだけに生きていこうと。それがシノビの使命を捨てることになろうとも、構わない。ただただ目の前のこの子が笑っていてくれるのであれば、それだけで良いと。


「元より捨てたこの命、お嬢様のために使いましょう」


 その言葉を聞いたシュテフィは、まるで大輪の花が咲くような笑顔を見せた。その笑顔をいつまでも見ていたいと思ったアヤは思わず顔を逸らした。



 アヤはシュテフィの回復を待ってから二人でこっそり屋敷を抜け出すことにした。時間を稼ぐために、「シュテフィは始末しました」と偽の報告をしたりもした。


 そしていよいよ、闇夜に紛れて二人は屋敷を抜け出したのだが、アヤたちはすぐに複数の人影に囲まれてしまった。──かつての仲間であったシノビたちだった。


 アヤが反射的にシュテフィを背後に庇うと、覆面で顔を覆った男が、低い声で問いかけてきた。


「……問おう『チヨメ』よ。どこにへ行くつもりだ?」

「あなた方には関係ありません。私は私が正しいと思ったことをするまで」


 男は、アヤの毅然とした態度に苦笑する。


「我らの頭目であるハンゾウ殿の命に背くのか? それがどれほど罪深いことなのか、わかっているのか?」


 その言葉に、アヤは小さくため息をつく。


「やはりそういうことですか。ハンゾウ様の指示で私を見張っていたのですね?さすがはシノビの一族……侮れません」

「……ハンゾウ様のお心がわからぬお前ではあるまい。──あの方はお前の裏切りに気づきながらも挽回の機会を与えてくださったのだ。……今すぐその娘を殺せば今回のことは不問にすると仰せだ」


 男の言葉に、今度は大きく嘆息するアヤ。


(あのお方は何を考えておられるのだ……!)


 アヤの心の中では、ハンゾウに対する怒りの炎がメラメラと燃え盛っていた。


「アヤ、この人たちは一体……それにあなたが言っていた『王家の影』というのは何なの?」

「ご心配には及びませんお嬢様。お嬢様の身はこのアヤがしっかりとお守りしますので」


 そう言うと懐から短刀を抜いて構える。それを見て、男もまた抜身の刀を構えた。


「愚かな。生きて帰れると思うなよ?」

「私もそう簡単にやられるつもりはありません」


 アヤは五感を研ぎ澄ませて周囲の状況を確認する。


(敵は四人……いずれも手練のシノビ。油断ならないけど、勝てない相手ではない)


 相手の力量を分析し終えたアヤは静かに深呼吸をしてから、勢いよく地面を踏みしめて飛び出した。まず、手前にいた男に斬りかかる。


「こいつっ……!」


 仲間の悲鳴を聞いて、残りの男たちの間に動揺が走る。アヤはそれを狙っていた。敵の戦力を削いだ後は、敵が動揺する隙に速やかに撤退するのみだ。シノビの心得でも、戦闘を行うのは最終手段であり、できるだけ無用な戦闘は避けるべきとされている。

 素早くシュテフィを抱え上げると、闇夜に紛れて一目散に駆け出した。



 アヤはシュテフィを抱えて王都近くの街にたどり着くと、建物の影に隠れるようにして腰を下ろし、シュテフィの頭を優しく撫でると、目を細めた。シュテフィの顔にも自然と笑顔が戻る。そしてアヤは再び立ち上がると周囲の様子を伺った。

 人通りの多い街中とて一時も油断することはできない。シノビは相手の「ここなら安全だろう」とか「まさかここまでは追ってこないだろう」という心の隙をついて目標の命を奪うのだ。故に、たとえ人が大勢行き交う場所でも決して警戒を怠ることはない。



 ──その時だった。


 地面に耳を当てて足音を聞いていると、こちらに駆けてくる複数の足音が聞き取れた。おそらく新手だろう。


「……お嬢様、こちらへ」

「えっ……!?」


 シュテフィの手を引くと、反対方向へ走り出す。が、足音から逃げるうちに、二人は袋小路に追い詰められてしまった。


(しまった……罠だった!?)


 目の前には、五人の男の姿があった。背後には建物の壁、シュテフィを背負って登っては敵に隙を晒すことになってしまう。逃げ道は無い。


「ふっ……追い詰めたぞ!」

「観念するがいい!」


 勝ち誇ったように笑う男達を前に、アヤはシュテフィの手に布切れを手渡すと、耳打ちをした。


「お嬢様、私が合図を出したらそれで鼻と口を押さえてあの物陰に隠れてください」

「で、でも……!」

「大丈夫。私を信じてください」


 そう言って優しく微笑みかけると、彼女は再び正面に向き直る。そして腰に差した苦無を引き抜くと、臨戦態勢に入った。


「ほう? まだやる気のようだな?」

「無駄なあがきを……! やれ」

「おうよ!」


 男たちのうち三人が同時に襲い掛かってくる。その手にある武器はどれも殺傷能力が高い。まともに受ければ一溜まりもないだろう。


「今です!」


 アヤはそう叫んで、左手に忍ばせていた手に収まる程度の大きさの球体を思いっきり地面に叩きつけた。瞬間、凄まじい勢いで白煙が放たれ周囲を包み込む。


「クソッ! 小癪な真似を……ぐぁっ!」

「なんだ、何が起きている!? ……がぁッ!?」


 シュテフィが口元を布で押えて物陰に隠れたのを確認したアヤは、煙に紛れて敵の背後に回り込み、一人ずつ確実に苦無で仕留めていった。闇雲に振り下ろされた刃を身を屈めてかわし、男の鳩尾に肘鉄を打ち込んで昏倒させると、素早く男の喉を掻き斬ってとどめを刺す。


「……ふぅ」


 敵の気配がなくなったところで、アヤは大きく息を吐いた。とりあえずは危機を乗り越えることができた。しかし油断はできない。まだ仲間が近くにいるはずだ。早くここを離れなくてはならなかった。


「……お嬢様。お怪我はありませんか?」

「えぇ……。ありがとう。助かったわ」


 アヤはシュテフィの背中を擦りながら申し訳なさそうに謝罪する。


「申し訳ありませんお嬢様。嫌なものを見せてしまいましたね……」


 だが、彼女の顔に後悔の色は無かった。その姿を見たシュテフィは思わず言葉を失った。そして恐怖を感じてしまう。

 こんな状況でも平然とし、敵を躊躇なく殺せる。これが『王家の影』として暗躍しているシノビなのかと。


「アヤ……あなたは本当に『人殺し』なのね」

「……はい。私にはこれしかないのです」


 アヤの表情が僅かに歪む。シノビに『殺人』という概念は存在しない。邪魔なものは消して当たり前、情をかけることは自分や仲間の命を危険に晒すことに直結する。

 その信念は幼い頃から彼女に根付いている。そのおかげで今まで多くの暗殺を成功させてきた。


(だけど……)


 心の中で呟くと同時にアヤの目からは涙が溢れ出た。


(それでも……私はこのやり方でしか生きられない……)


「おかしなことです。殺すことしか能のない私は、あなただけは殺すことができなかった。……決して抱いてはいけない情を感じてしまったんです」


 涙を流すアヤに、シュテフィはゆっくりと近づき抱きしめた。


「それはきっと、アヤは本当は優しい子だからよ」

「私はただのシノビですよ。……お嬢様のような方を殺す為だけに育てられ、ただそれだけを考えて生きているような人間です」


 そう言い終えると、アヤは自分の胸の中にいるシュテフィの顔を見る為に体を動かそうとした。だが、彼女は力強く抱き着いてそれを許さない。


「わたしには……あなたの本当の気持ちはわからない。でも……一つだけわかることがあるわ。それはわたしがあなたのことを好きだということ」


 アヤは驚いて、シュテフィを引き剥がすと目を合わせた。その瞳は真剣そのもので嘘偽りの無いことを証明していた。

 シュテフィは、まるで穢れを知らない天使のように美しく微笑んだ。


「アヤがどんなに人を殺していたとしても、わたしの命を助けてくれた。そして鳥籠の中から救い出してくれた。──それは紛れもない事実でしょう? だったらもう気に病む必要なんて無いのよ。わたしにはアヤさえいればいいのだから」


 そう言ってアヤの手を握ると、彼女は真っ直ぐな眼差しを向けた。アヤはその手をぎゅっと握り返すと泣き崩れた。

 その時初めて知ったのだ。自分が誰かを愛することができたのだという喜びを。その相手が誰よりも守りたいと思える相手だったということに。


「私のことが怖くないのですか?」

「……もう大丈夫。それにアヤになら、例え今すぐ殺されたとしてもわたしは構わないもの」


 シュテフィがアヤを抱き寄せると、アヤはシュテフィの温もりに包まれた。小さくてか弱い存在なのにこれほどまでに温かいのかと、不思議な気分になってしまう。


「……お嬢様」


 二人は見つめ合う。互いの吐息がかかるほど二人の距離は近くなり唇が重なる寸前でアヤがそれを遮った。


 何も言わずにシュテフィを優しく引き離すアヤだったが、その顔はどこか嬉しそうな表情を浮かべていた。



 ◆



 翌日、どこからか馬を拝借してきたアヤは、シュテフィを乗せて、手綱を握って馬を走らせていた。屋敷を脱出してから追っ手を警戒して寝ずに神経を張り詰めさせていたので、さすがのアヤの表情にも疲れが見える。


「ねぇ、これからどうするの?」


 シュテフィはアヤの腰に腕を巻きつけて尋ねた。昨晩の一件があったせいなのか妙に甘えてくるのだが、アヤは嫌な気はしなかった。


「シノビは裏切り者に容赦はしません。たとえ地の果てまで逃げようと、探し出して殺そうとするでしょう。──しかし彼らにも王家の任務がある。ずっと私たちに構っている余裕はないはずです。……彼らが諦めるまで逃げ続けるしかありません」


 それはあまりにも過酷な旅路になるだろう。もしかしたら途中で野垂れ死ぬかもしれない。


「アヤ……大丈夫? 昨日も寝ていないのでしょう?」


 心配そうにこちらを見上げるシュテフィに、アヤは優しい笑顔を向ける。


「問題ありません。寝ないことには慣れていますので」

「でも、顔色が悪いわよ。少し休んだ方がいいわ」

「いいえ、こうしているうちにもたくさんのシノビが私たちの命を狙っています。……先を急がなければ」

「……わかったわ。でも、絶対に無理だけはしないでね」


 しばらく走り、木々が生い茂る森の中に入ったところでアヤは突然背後から冷たい刃のような鋭い殺気を感じた。

 反射的に首を傾けると、先程までアヤの頭のあった場所をなにか金属製の小さいものが駆け抜ける。

 アヤが抜き放った苦無を振るうと、同時に金属同士がぶつかり合った甲高い音が鳴り響き、なにやら矢のようなものを弾いた。


(これは……吹き矢?)


 危険を感じたアヤは、シュテフィを抱えると、馬上から転げ落ちるようにして身を投げ出す。そして素早く身体を起こすと背中に背負っていた刀に手をかけた。そして、どこからか目の前に降り立った人影を見て目を大きく開いた。


「……ハンゾウ様」

「腕を上げたな、我が弟子よ」


 そこには、幼いアヤを攫い、優秀なシノビに育て上げた『三代目ハンゾウ』の姿があった。黒い装束と頭巾で全身を覆ったハンゾウは、静かに佇んでいる。だが、その姿からは微塵も隙を見出すことができない。

 ハンゾウは音もなく跳躍すると一瞬にして距離を詰めてくる。アヤは咄嗟にシュテフィを背後に庇うと、苦無を抜いて振り下ろされた刀を受け止めた。

 激しい鍔迫り合いの末に、互いに飛び退くと、二人は向かい合って構えを取る。


「もう一度機会をやる。……いますぐそこの娘を殺せ。さすればこれまでの裏切りは水に流してやろう」


 そう言ってアヤに向けて切っ先を突きつける。だが、彼女は動じない。

 アヤとてこの期に及んで命乞いなどするつもりは無かった。──それは自分の弱さを認めてしまったことになる。自分はただの捨て駒に過ぎないのだから。だから、ここで自分が生き残る為にはこの人を倒すしかない。


「お断りします。私は私が正しいと思った道を歩みます」

「ならば是非もなし。……お前ならばあるいはと思ったが、残念だ」


 その言葉を皮切りに戦いが始まった。ハンゾウの放つ素早い突きをギリギリの所でかわしていくアヤだったが、ついに彼女の右腕に赤い線が入り、そこから血が滲み始める。


「どうした? ……動きが鈍っているぞ!」


 さらに勢いを増したハンゾウの攻撃がアヤを襲う。アヤは何とかそれを避けていくが反撃の機会が見つからないでいる。


(まずい……。このままではいずれ斬られる)


 焦りを覚えたアヤは懐にしまっていた爆薬の入った袋を投げつけた。爆発が起こる前にその場から離れようとした瞬間、彼女の脚が地面から離れた。ハンゾウは彼女の足を引っ掛けて転倒させると、間髪入れずにアヤの首に刀を押し当てた。アヤの額に脂汗が流れる。


「……一つ問おう我が弟子よ。お前がそこまでしてその娘を守る理由は何だ?」

「……っ!」

「抜け忍は決して許さぬシノビの掟を忘れたわけではあるまい? 死を覚悟してまで、その娘は守る価値のある存在なのか?」


 その質問に対する答えをアヤはまだ持っていなかった。だからこそ必死になって考えてみたのだ。だが、いくら頭を捻ってみてもそれらしいものは出てこない。だがそれでもアヤは思ったことをそのまま口にすることにした。それは彼女にできることの全てだったから。


「……わかりません。ですが私にはどうしても彼女を始末することができなかった。……それだけのことです」


 アヤの瞳には一点の曇もない。そこに嘘はなかった。それを見抜いたのか、ハンゾウはふっと笑う。


「ならばその覚悟、示してみせよ」


 ハンゾウは一旦アヤから離れると、背中に差していた二振りの刀のうち一振をアヤに向かって投げて寄越す。


「──初代ハンゾウが異世界よりこの地に迷い込んでからはや二百年。我らは彼の者より技を学びそれを用いて国の秩序を守ることを使命としてきた」


 そう言いながら、背中の鞘からすらりと刀を抜き放つ。


「我がお前に技の全てを仕込んだのも、我亡き後にはお前が四代目『ハンゾウ』としてシノビを束ねる立場になればと考えてのこと。だが、我は一つ思い違いをしていた。お前がその娘を殺さぬと言うのなら、お前にはシノビとしての素質がない」


 ハンゾウの言葉には重みがあり、それがアヤに嫌でも伝わる。彼は本気なのだと。そしてアヤもまたそれに本気で応えなければならないと感じた。


「ならば、師よ。……あなたはこんな子どもを殺すことで、どうしてこの国を守れると思うのです?」

「愚問。──我らは『王家の影』。王家に従い王家の敵を排除するのが我らの使命なり」

「…………私はそんなの認めない!!」


 アヤは自分の中に渦巻く感情が怒りだということにようやく気づいた。ずっと疑問だった。なぜこの人たちは、いや、ハンゾウは平然と人を殺せるのだろうと。まるで自分が正論を述べているかのように振る舞えるのだろうかと。


「もはや言葉は不要。刃を交えれば全てが分かろう」


 ハンゾウは再びアヤと距離を詰めると、目にも止まらない速度で刀を振るった。だが刀を拾い上げて抜き放つとアヤはそれをしっかりと受け止める。今度は先程のように一方的な展開にはならない。

 激しい打ち合いの末、互いの身体に切り傷を増やしていく。しかし二人の表情に変化はない。

 しばらくの後、鍔迫り合いに持ち込まれてアヤは後ろに飛び退いた。互いの技を知り尽くした二人にとって、数多のシノビの技など小細工に過ぎず、純粋な剣術のみでのぶつかりあいになる。


 ──それはどちらかが力尽きるまで続くだろう。そのことは両者共理解していたはずだが……。


「アヤ……!」


 見守っていたシュテフィが声を上げる。

 それを合図に、二人は同時に動いた。アヤは苦無を二本投げると、その陰に隠れるようにしながら接近する。ハンゾウはその攻撃を刀で弾き落とすと一瞬だけアヤの姿を見失う。その隙を突いて、アヤはハンゾウの背後に回った。

 苦無で注意を引き付けている間に死角から攻撃を仕掛けるという彼女の作戦は見事に成功した。アヤの鋭い一撃がハンゾウを襲う。

 だがハンゾウは瞬時に振り返ると刀を振り抜いた。


 二人の太刀筋が交錯し、次の瞬間には互いに背を向けた形で静止している。最初に口を開いたのはハンゾウだった。


「……見事。やはり我の見込んだ通りの……」

「──ハンゾウ様!」


 倒れ伏した彼の姿を見たアヤは慌てて駆け寄る。アヤに助け起こされたハンゾウは満足げな表情を浮かべていた。


「我が弟子よ、よく聞け。……我が倒れようと、シノビは滅びぬ。また新たな頭目が現れ、お前の命を狙うだろう」

「……心得ております」

「その日が訪れるまでに……、お前の進むべき道を見つけろ」

「ハンゾウ様! 私は……!」


 何かを言おうとする彼女を手で制すると、ハンゾウは静かに続けた。


「聞くところによると、海の向こうには我らのまだ知らぬ新たな大陸があるという。そこには世にも奇妙な異人が住まう異国があるのだとか……。そこまでは追っ手も来まい。我も見たことが無い故、噂話にしか過ぎぬが……その目で確かめてみるのも一興だろう」

「ハンゾウ……さま?」

「その娘と共に歩む未来を必ずや見つけ出せ……辛く苦しい道だが、お前ならば必ず……」

「……」


「──さらばだ、愛しき我が娘よ」


 涙を流すアヤに向かってハンゾウはふっと笑いかける。そして静かに目を閉じた。


(思えば、ハンゾウ様の技量があれば、無防備なシュテフィを殺そうと思えばいつでも殺せたはず……それでも彼は私しか狙ってこなかった……)


 その理由に思い至ったアヤはハンゾウの胸に顔を押し付けながら嗚咽を漏らす。


(ああ、なんて不器用な人なんだろう。ハンゾウ様は最初から私と死合うつもりで……! )


 アヤは思う。この人はきっと自分の命を捨てることで、最後の最後まで自分を試していたのだと。もしここでアヤがハンゾウに敗れていたら、シュテフィを守る資格はない……ということなのだろう。


「……アヤ? 大丈夫?ねえってば」

「ごめんなさい、少しだけこうさせてください」

「ええ、いいけど……」


 そうしてしばらくの間泣き続けていた。ようやく落ち着きを取り戻したアヤはゆっくりと顔を上げる。


「もういいの?」


 心配そうに訊ねるシュテフィに彼女は微笑み返す。


「はい。ありがとうございます」



 それからハンゾウの遺体を抱え上げると、土を掘り、丁寧に埋葬した。殺した人間を埋葬したのなんて、アヤにとっては初めてだった。


「その人、アヤにとっては本当に大切な人だったのね……」

「……はい。今思えば唯一の『家族』と言える存在でした」

「わたしは『家族』に疎まれ、アヤは家族と殺し合うことになった。……いつまで人は争いを続けなければいけないのかしら?」


 シュテフィはぽつりと呟いた。

 それは彼女がこれまでずっと抱えてきた疑問。それは幼い彼女の心の底からの願いでもあった。


「……それは、私にも分かりません。ですが私は命をかけてお嬢様をお守りすると誓います」


 アヤはまっすぐシュテフィを見つめた。


「……うん。ありがと。わたしもいつかアヤのことを守れるようになるわ」

「お嬢様……」


 思わずシュテフィの身体を抱きしめたアヤは、この日初めて、本当の意味で自分が生まれ変われたような気がした。


「──私はハンゾウ様の言う異国を目指そうと思います。船を探し海に出て、まだ見ぬ世界を見てみたいです。……お嬢様も付き合ってくださいますか」

「ええ、アヤの行きたい場所ならどこへでもついていくわ。アヤはわたしの召使いなのだから」

「ありがとうございますお嬢様」


 二人はハンゾウの墓に一礼すると、手を繋いで歩き出した。目指すは海の向こうにある見知らぬ世界。


 この先に彼女たちにとって想像を絶する試練が待ち受けていることを、このときはまだ知る由もなかった。しかし、二人ならどんな困難でも乗り越えられるという確信がアヤにはあった。

 それは彼女の主であり想い人である少女も同じ気持ちに違いないだろう。



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