3 逆法の世
その日のうちにしたもう一つの作業は、餅をつくことだった。
庭に臼と杵を用意して、炊きあがったご飯を拓也とその父が代わり番こに搗いていく。
そのような光景をエーデルは初めて目にし、驚きの様子だった。杵は巨大なハンマーに見えたし、いつもはおいしくいただいているご飯をこんなふうに潰していいのだろうかと思う。
「どうしてご飯を?」
驚きのあまりに質問を発したエーデルに、拓也と交代したばかりの父が笑って言った。
「これは普通のお米じゃなくて、もち米っていうお餅を作るための別の種類の特別のお米なんだ。お餅ができるよ」
それから、杵を振り上げている拓也に叫んだ。
「おーい。お餅って英語でなんて言うだべか」
「ライス・ケイク」
「おお、ライス・ケイク!」
エーデルが驚きながら納得して叫んだあと、拓也はまた杵を振り下ろした。
やがてご飯はみるみる「ライス・ケイク」に変身した。
「これを食べるのはあさって。あとは正月の飾りだ」
出来上がったお餅は拓也の母が食べる分と飾る分に取り分けた。
飾る餅は大きな丸くて平べったい大きさにして、それを三つ重ねる。上に乗る方がだんだんと少しずつ小さいものになっている。
そのいちばん上にはミカンを乗せ、そこから縦に帯状の昆布を垂らして完成。
これをお三方という特殊な台に乗せて、二階の部屋の床の間に飾った。
それを見に来たエーデルに、拓也がまた説明をしてくれた。
「これは門松と同じで、三段の餅のいちばん上が神の世界、二段目がご先祖様のいる世界、いちばん下がこの世で、いちばんてっぺんのミカンが天地創造の『神様』を現してます。昆布はその『神様』の仕組みの置き手(掟)が神界、幽界、現界の三つの世界を縦に貫いていることを現しているんですよ」
エーデルにはやはり少し話が難しいようで、彼女は首をかしげていた。
「要は火と水の性質が相反するものが十字に組んだ時、生命のパワーが生じるのです。でも、それを回転させれば円になるだけの平面的な文明ですよね。そこに縦の力が加われば十字の上に縦の棒を立て、これを回転させたら球になる。つまり立体的な安泰文明ができるのです。その縦の棒をこのお餅では昆布で表しています。そういえば、エーデルさんは漢字は分かりますか?」
「簡単なものなら」
「天地創造の神様を、あなた方は何とお呼びしていますか?」
「本来は『ヤハエ』というお名前ですけれど、モーセの掟に『神の名を口にしてはいけない』とありますので、『トーラー』でも『ヤハエ』というお名前は『アドナイ』と読み換えます。それは『主』という意味です」
「その『主』という漢字はご存知ですか?」
「はい。簡単な漢字ですから」
「このお餅を、もう一度よく見てごらんなさい」
「あ」
言われたとおりに餅を凝視したエーデルは、その三段の餅とその上のミカン、そこから垂れ下がる昆布という形が、漢字の「主」を表していることに気づいた。
「この国のキリスト教の人たちが使っている『旧約聖書』では、この『ヤハエ』と書いて『アドナイ』とあなた方が読んでいる箇所は、すべて『主』と訳されています」
「すごいです! この国ではどの家庭でもこんな飾り物をするのですか?」
「最近は少なくなりましたね。しかも一般の家庭では、お餅は二段です。ミカンも昆布もない家が多い。みんな正しいこととは逆のことをしている。こういう世の中を逆法の世というんです。仕方ないです。もう何万年も人類はその逆法の世を生きてきたんですから」
「何万年?」
ユダヤ教では人類の発祥は約六千年前と教えている。「トーラー」の記事で計算したらそうなるからだ。
だが、科学の世界では人類の祖先はもっと古く、何十万年もさかのぼる。だから科学と宗教は相容れないものという考え方が浸透してしまうのだ。
「そのへんの話は、また古文献の説明をするときにしましょう」
拓也はさわやかに笑った。
正月の準備はそこまでだった。
「ほかの家では玄関に注連縄という藁で編んだロープ状のものを飾るのですけど、うちでは飾りません」
「なぜですか?」
そう言われてもそれがどのようなものかエーデルにはわからなかったけれど、やはりなぜ飾らないのか気にはなる。
「一般の家庭はそれがいいことだと思ってやっているけれど、そこが逆法の世なんです。注連縄は実に恐ろしいもの、『神様』への反逆です。門松の竹の上を斜めに切るようなものです」
「それは確かに恐ろしいですね」
「エーデルさんは『天岩戸』を知ってますか?」
「はい。『古事記』で読みました。太陽の女神様が洞窟に閉じこもった話ですね」
「そうでしたね。もう『古事記』は読んでいるんでしたね。実は実際の『天岩戸』はもっと恐ろしい話なのです。その岩戸を封印したのが注連縄、つまり、妖怪や邪神に対して結界を張るならいいのですけれど、正しい神様を封印して神様に対して結界を張ったのですから、そんな恐ろしいことはありません。その象徴の注連縄はやめるべきでしょう」
「そうですね」
エーデルがあっさり納得したので、かえって拓也は驚いた様子を見せていた。
そのような感じでその日はバタバタと終わり、次の日が一年で最後の日だった。
聞くと、門松もお餅もこの最後の日ではだめで、どちらももう一日前にするものだとエーデルは聞いた。
そして夕食はなぜかそばで、そのあとで家族でテレビで歌番組を見て過ごしている。
「これは大みそかだけにやる特別な歌番組なんですよ。この歌番組を見るのがどの家庭でも大みそかの夜は普通だったんだけど、最近では見なくなった人も多いですね」
「それも逆法ですか?」
「いや、それは違うでしょうけれど」
拓也は声を挙げて笑った。
そしてその歌番組も終わり、すぐに時計は深夜十二時を告げた。この時間まで家族全員が起きていることなど、エーデルがこの家に来てから一度もなかった。
「今日は特別な日です」
そして一家は二階の、先祖の位牌の前に整列した。本当なら、先祖を祀る祭壇である仏壇の扉は、とっくに閉めている時間だ。
拓也の父が代表して、その仏壇に新年のあいさつをした。仏壇の中は仏壇とはいっても仏像はなく、また仏教という宗教関連のものは一切なくて、ただ位牌と生花があるだけだった。
仏壇は上部に据え付けられた蛍光灯で照らされ、ろうそくや線香台もなかった。
その仏壇への挨拶が終わると、拓也の父が上座に座って、家族が新年のあいさつをした。
エーデルは不思議だった。
この家の長老は婆様で、普段からそんな扱いを受けている。でも今日ばかりは婆様も下座にいて、自分の息子に挨拶をしたのだ。
エーデルが首をかしげていると、拓也が小声でまた説明してくれた。
「この家では父が家長ですから。もっとも今のこの国ではそのような制度はないのですけれど、我が家では伝統的にその制度を守っています」
そういった挨拶も終わって、やっと就寝していいとのことだった。
「昔はこの日は朝まで寝ないで一年最初の朝日を拝んだりしたものですけれど、今はあまりそういう人はいないですね、初日の出を拝むのも、早めに起きてって感じです。うちも、今ではもうこれでそれぞれ休みます。エーデルさんも休んでください」
エーデルはさすがに眠かったので、言葉に甘えることにした。




