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暁の歌、響け世界に2 《空の巻》  作者: John B. Rabitan
第9部 竹下古文献
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1 拓也先生

 エーデルはもう、半年もおツル婆様の家に滞在してしまっていた。

 もうすっかり冬だ。

 これまでは滞在はそう長くはなかったし、たいていがホテル住まいだった。それなのに今回は半年近くの長きにわたって、富士の山の麓の樹海の中の村落の民家にお世話になっている。

 その婆様のことは、もちろん彼女を派遣した組織には報告している。世界を破滅から救済し、真の人類の和平を構築することを目的として二千年以上の長きにわたって活動してきた組織にとって、高次元エネルギー体とのコンタクターであるおツル婆様は今一番必要な人材かもしれない。

 しかしいかんせん高齢である。機動力がない。海外へ行くどころか、村を出るのさえ自力では困難だろう。


 本国への通信環境は、彼女はすでに手に入れていた。

 前に来た時はホテルなどに備え付けの有線でパソコンをつなぎ、ネットに参入していたものだ。

 この分野の技術的発展はすさまじく、すでに四。五年で今昔の感がある。

 今ではポケットにも入るくらいの持ち運びのできるルーターで、どこへいてもWiFiでパソコンもスマホも使える。

 かつてはその加入手続きも煩雑で、特に一時滞在の外国人にとっては至難を極めたけれど、今はその点もかなり簡素化されていた。


 さらに彼女はおツル婆様を通じてさまざまなこの国の古文献に接した。

 まずはこの国の人ならだれでも知っている『古事記』と『日本書紀』だ。だかその超太古に関する記述はあまりにも神話化されており、また簡潔すぎた。

 次に、おツル婆様の地方のある神社に残る古文献に接した。その文献は学術的にはすでに偽書のレッテルを張られているというが、それを守り伝えた宮司さん(宮内さんは本家さんと呼んでいた)はそのレッテルに甘んじてはいないとのことだ。

 これは『古事記』の神話などに比べたらはるかにスケールが大きく、また詳細な超太古の記述があった。

 だが、最初は中央アジアを思わせる記載はあるけれども、その舞台はあの富士のお山の麓一帯に限定されていた。この国の全体に記載が及ぶのは、一般的な歴史時代になってからだ。

 その超太古の記載も『古事記』でいう「高天原たかあまはら」が天上の神界や神霊界を思わせる記載であるのに対し、宮内家の文書ではすべてが地上の世界の出来事で、登場する神々も肉体を持った歴史上の人物として書かれていた。


 ちなみに「高天原」は今では「たかまがはら」と呼ぶ呼称が一般化してしまっているが、それは一九一〇年代のこの国の学校における「国史」の国定教科書でそう記載されたのが初めてで、それで一般化してしまったが、それは誤りであるとおツル婆さんは強調していた。

「たかまがはら」では「まがつ神』、すなわち邪神につながってしまうかという。だから本来の「たかあまはら」と読むべきだということだった。


 そんなおツル婆様が、高次元エネルギー体から研究せよとメッセージを受けた文献がほかにもあるという。おツル婆様の家にも活字出版されたものがあったので、エーデルはそれを閲読した。

 だが『古事記』などのように英訳したものはなく、この国の言語をときには辞書を引き、ネットで確認しながら読み進めた。オンラインの自動翻訳も利用したけれど、なにしろ言葉が古くてなかなか思いようにいかなかった。

 自動翻訳ではテキストを入力しないといけないけれど、それがまたうまくいかない。漢字変換も難しい。しかも、エーデルの国では文字は右から左へ書くけれど、この国では英語と同じで左から右へ書く。それも慣れない。

 そんなわけだから、何巻もあるものでもない一冊完結のその文書を読むのにまた三か月くらいかかってしまった。

 だが、やはりまだよくわからない。

 そしておツル婆様との約束通り、一通り読み終えたら詳しい話を聞きに、おツル婆様の孫のところへ聞きに行くことになっていた。

 おツル婆様の孫はこの国の首都の高等学校の理科の教師だというが、その理科の教師が婆様の命を受けてこの文献の研究をかなり進めているらしい。

 エーデルも、八月に帰省したこの孫の拓也には一度会っているので、いきなり会いに行くとっても見ず知らずの人ではないだけに幾分気は楽だった。


 だが、その必要はなくなった。


「拓也ならわざわざ会いに行かんでも、正月には帰ってくるべえ」


 婆様の息子が言った。この国では八月と正月には、それぞれ親のいる実家に帰る習慣があるらしい。

 正月ならもうすぐだ。

 エーデルにとって、初めて過ごすこの国の正月ということになる。

 この国に来るのは初めてではないが、これまで正月をまたいで滞在したことはなかった。

 不思議なことにこの国はキリスト教国ではないのに、キリストの生誕を祝うクリスマスはテレビなどで見る限りかなり盛大に祝っていた。

 だかそれはテレビで見る限りキリストの生誕を祝うというよりも、サンタクロースというキャラクターのお祭りみたいな点があって、アメリカの影響だなとエーデルは思っていた。

 もっともこの田舎の村では。クリスマスの雰囲気のかけらもなかった。

 あくまでクリスマスはこの家ではテレビの液晶の中だけだった。


 キリスト教国ではないのにクリスマスを祝うというのは、世界的に考えてどうしても異常だ。

 この国は宗教的な節操がないと批判する人もいるが、あの神社で会った宮内さんや修行僧の松原青年の話だと、そういうことではないようだ。


「この国は世界のあらゆる宗教に対して寛容なんですよ。何でも受け入れてしまう。それは、世界の主要な宗教の元は、この国の神道にあるからです」


 宮内さんがそんなことを言っていたのを思い出す。

 そうこうしているうちに、さすがにこの田舎の村でも正月が近いとなると人々は慌ただしく動き回り、活気も出てきた。

 まずは家の大掃除をする。散々断られたけれども、エーデルは強引にそれを手伝った。

 村も人の往来が激しくなった。この村の住人の子や孫で、都会に住んでいる人たちが一斉に帰って来たのだから、村の人口が一気に増えたのだ。

 八月もそうだったけれど、ここまでではなかった。


 そんなある日、一台の車がこの家の庭に乗り入れてきて、数カ月ぶりに会う婆様の孫の拓也が元気そうな顔を見せた。

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