2 もう一つの古文献
食事が終わってから、婆様の息子はエーデルを、これまで彼女が足を踏み入れたことのない一つの部屋に案内した。
「私の息子の部屋です、やつも歴史、特に超太古の歴史にはかなり詳しい」
婆様の息子さんの息子となると、婆様の孫だ。エーデルは一度だけ会ったことがある。
先月の中ごろ、その孫はこの家に帰ってきた。名前は確か拓也といって、首都である都会の学校の教師だと言っていた。
その頃にこの家では先祖を祀る儀式があって、エーデルも参列させてもらった。この家の二階には先祖を祀る祠があり、毎日婆様の息子が夕食時には自分たちが食べているのと同じ食事を少量供えているのもエーデルは知っている。
この国の民族は先祖を祀り先祖を大切にする。それが驚きだった。ヨーロッパにはそのような習慣はない。
しかし、それが驚いた理由ではない。実はヨーロッパにはないが、エーデルの民族には同じように先祖を祀り、先祖を大事にする習慣があって、それとこの国の習慣が同じだったのに驚いたのだ。
その時に、エーデルは拓也を紹介された。
だが、生物や物理などの科学の教師だと聞いていたので、超太古の歴史や神話の話は全くしなかった。その時知っていたら、もっと詳しくいろいろ話が聞きたかったものだ。
拓也の部屋はさすがに教師の部屋らしく、本棚にかなりの数の本がある。しかも蔵書の大部分は今住んでいる住居に持って行って残ったものがこれだけだというから、かなりの資料を所有していることになる。
その本棚から、婆様の息子、つまり拓也の父は一冊のハードカバーの厚い本を取り出した。
『神伝富士山古文献』
それが本のタイトルだった。これだけではなく、本棚に残った同じような本があと六冊あるので、全部で七冊シリーズのようだ。
「これがさっき婆様の言っていた古文献ですよ」
中を開いてみた。しかし活字なのでは最初だけで、あとは手書きの文書の写真版のページが延々と続いている。しかもこれもまた古代語で書かれていて、この国の人でも一般の人には解読不可能ではないかと思われる。
もちろんエーデルはお手上げだ。
「もっとわかりやすく、できれば英語に訳されたものは」
婆様の息子は苦笑して首を横に振った。
「ないでしょう。この本とて貴重なもので、今ではほとんど手に入らない」
「とにかく、何が書いているのですか?」
「いやあ、俺にもわからねえです」
「拓也ならわかりますか?」
「あいつならわかると思いますけど、正月まで帰ってこねえですよ」
「拓也の住んでいるところは遠いのですか?」
「そんな遠くでもないけれど、でも近くもないです。それにあいつは仕事がとにかく忙しい。あ、そうだ」
突然拓也の父の口調が変わった。
「そもそものこの文献を伝承してきたお社の近くに、この文献を研究している人がいる、その人なら詳しく話してくれるでしょう。そのお社はここからも近いし、車で行けばすぐだ」
お社とは神殿のことだということも、すでにエーデルは知っている。
「会ってくれますか?」
「婆様の名前を出せば大丈夫。俺は忙しくて車だせねえけど、お寺の松原君に頼むといい」
拓也の父は本をハードカバーに戻しながら、ニコッと笑った。
「そのお社は、かなりのパワースポットですよ」
「え?」
エーデルの顔が輝いた。
翌日の午前中には早速黒い作務衣を着た若い修行僧の松原が、車を運転して彼が修行をしている仏教寺院から来てくれた。
住職は婆様が一声かけてくれているので、すんなりと出してくれた。さらには先方の研究者という人にも婆様が連絡してくれているはずだ。
「エーデルさん、久しぶりの外出ですよね」
松原はにこにこ笑っている、それに負けないくらいの笑顔を、エーデルもわけではなく、結構頻繁に森の中の集落は散歩していた。また、舗装されている道路を歩いて、車の走る道の方へ行くことはかまわにけれど、婆様からくれぐれも言われていたことは、集落を取り囲む密林の中へは決して入らぬようにということだった。
一歩足を踏み入れて少しでも遠くに歩こうものならばすぐに方角を見失い、下手をしたら二度と出られない場合もあるという。自分では元来た方角に戻っているつもりが、どんどん密林の奥へ向かってしまうこともあるそうだ。
だからその密林の中以外は、割とエーデルは散歩していた。
集落も住んでいる人は多くはないので、自然とエーデルは多くの村人と顔見知りになっていた。
松原が久しぶりの外出といったのは、車に乗って行くような遠くに行くのが三か月ぶりだという意味である。
「よろしくお願いします」
エーデルはそう言ってから、初めて松原の車に乗せてもらった時と同じように、運転席の隣の助手席に乗ろうとした。その時、松原は何かを思い出したように言った。
「そうだ。実はこれから行くところは道路の右側の方がすごく景色がいいんです。だから後ろの席の右側に座った方がいいですよ」
たしかにこの国は車が道の左側を通行するので車の運転席は右側についており、助手席は左となってしまう。エーデルにとって不慣れではあるけれど、実際世界には左側通行の国も時々あるので、そのこと自体にはさして驚かなかった。
そしてエーデルが松原の言う通りに後部シートに乗り込むと、すぐに車は出発した。
そしてすぐに走り出した車内で、自分の前の運転席の松原にエーデルは話しかけた。
「一つ聞いてもいいですか?」
「何でしょう?」
それは先程松原が車で現れたときから違和感を覚えていたことのようだ。
「あのう、あなたのその服装は仏教の僧侶の服でしょう?」
「ええ、まあこれは作務衣という普段着でして、本格的な法衣ではありませんけど」
「いえ、その、これから行くのはこの国古来の宗教の神殿だと言いましたね。仏教の僧が違う宗教の建物にその服装のまま入っても、いいですか?」
エーデルたちがこれから会う研究者とは、この文献が伝承されてきた神社の境内で待ち合わせだと彼女は聞いていた。だからそう質問したのだが、松原は運転しながら声を挙げて笑い、前を向いたまま言った。
「神社は違う宗教だとは思っていません。ていうか、神社はこの国土着の信仰であって、そもそも宗教だとは思っていませんよ」
エーデルはますます首をかしげた。
「たしかに神社はこの国固有の信仰で仏教は外来のものです。でも長い歴史の中で神社と仏教は全く混ざり合ってきたのです。近代になってから国の命令で切り離されて今では一応別々の宗教法人にはなっていますけれど、まだまだこの国の人々は神社もお寺も一緒くたにしています」
そこがエーデルにとって、この国のよくわからないところだ。
「この国の人びとは赤ちゃんが生まれたらお宮参りといって神社に参拝しますし、結婚式はキリスト教の教会で式を挙げて、死んだらお寺で葬式をします。一年のうちでもクリスマスを盛大に祝った後で正月には初詣で神社とお寺をはしごしたりしますからね」
松原はまた笑った。
「外国の方にはわからないかもしれませんね」
もうエーデルは首をすくめるしかなかった。だが、次の松原の声は笑い声ではなかった。
「一つはこの国の神道、唯神の道こそが、世界五大宗教の大元を説いているのですよ。それに、宗教なんて垣根があるのはこの人間界だけです。霊界や神界には宗教なんてものはない」
「おお」
エーデルの感心の声をも乗せて、車は国道を東へとひた走っていた。




