3 神の国
エーデル姫を乗せたMM964便は順調に目的地に着陸した。
その着陸前にシート脇の窓からその国土が見えた時、あまりにも神々《こうごう》しさに彼女は目を細めた。
それはまさしく『神の国』というのにふさわしかった。国土全体が緑に覆われたこんな高貴で神秘的な国は見たことがないというのが最初の感想だった。
そして着陸する間際に見えた平地に独立してそびえる円錐形の山、その山こそこの国の最高峰だというが、まさしく霊峰であるというのが直感だ。
フライトは予定通り十二時間。夜中の十一時半に離陸した飛行機だが、時差の関係で時刻はすでに夕方の六時半だった。
着陸したころはまだ明るかったが、入国手続きなどを終えて出国ゲートを出たころはもうすっかり外は暗くなっていた。
ともにゲートを通過する同じ飛行機の他の乗客たちの姿を見て、エーデル姫は胸をなでおろす思いだった。
この人たちは生きている。生きて無事に到着地に着いた。自分のことよりもその方が何倍もうれしくあった。
当然のことながら、今回のフライトでは姫と同列のシートはずっと空席で、例のイルグン・レビの男は乗ってこなかった。
あの浮遊感覚の世界で意識が遠のいた次の瞬間、エーデル姫は自宅にいた。
日付を見ると、あの爆破された飛行機に乗る三日前だった。ここまでの意識も記憶もすべてしっかりとある。記憶のあるまま三日前にタイムリープしたのだ。
姫はさっそく世界スメル協会の本部に出向き、上層部に自分の命が狙われていることを直接報告した。
どうやら記憶を持ったまま時間が戻ったのは、エーデル姫だけのようだ。
部屋内部がピラミッドの形をした巨大な会議室で、円卓に上層部メンバーとともに上座についたエーデル姫は詳しい情報経路は聞かないでいただきたいとした上で、イルグン・レビが自分の命を狙い、自分が登場する便を自爆テロで破壊する計画を察知した旨を告げた。
上層部メンバーはざわついた。
「信じないわけではないが、やはりニュースソースが明らかでないと」
姫の存在は組織にとっても重要な意味を持つので、彼らとて一蹴にはできない。だがその情報の出所が明らかでないと動くのに躊躇するというのはわかる。
だがまさか、実際に自分はすでにテロによって航空機もろとも破壊されて命を落とし、時間を逆行して今ここにいるなどとは言えない。言ってもいいのだが、言ったところで信じてはもらえまい。
今はただ、熱意を込めて状況を訴えるだけだ。
それでも、彼らは渋っていた。
「私は任務のためならばこの命も惜しいとは思いません。しかし、任務を遂行する前に無駄に命を落とすことが分かっている以上、この指令はお断りいたします」
もはや、エーデル姫にとって最後の手段だ。
「わかりました」
最高司令の老婆が、厳かに言った。
「何とか手を打ちましょう」
「往路の安全が確保できれば、行っていただけるのですね」
隣の席の副官である初老の男もそう言った。姫はうなずいた。
「要は、そのイルグン・レビの男を爆弾となる荷物とともに飛行機に乗せなければいいということですよね」
その通りだ。
こうして姫は任務を引き受けることになった。
当日、前に出発したときよりも数時間前に空港に出向いた。
一度目の時は組織が送別の夕食会を用意してくれて、午後九時ごろに空港に向かったものだ。だが今回は、送別会はキャンセルし、夕方六時には空港に入った、
姫が聞いていた話だと、組織が打った手は空港のセキュリティー部署に匿名で電話を入れ、今夜の出発便であるMM964便が自爆テロにさらされる危険性があるという情報を告げた。
あとはセキュリティー部門がそれをまともに取り合って動くかどうかだが、テロが横行している昨今、どんなに小さな情報にも彼らは機敏に動くはずだ。少なくともまず、手荷物だけでなく託送荷物までもが普段の数倍厳密に検査するだろう。時限爆弾は必ず見つかるはずだ。
要はその時限爆弾入りの荷物を飛行機に積まなければ済む話である。例の男が機内で姫を直接殺害することは、イルグン・レビの宗教上の信念からあり得ない。戦争での戦闘や刑罰などのほかは、個人を殺すことは固く禁じている。だからこそ戦争の一形態のようなテロという方法しか選べないのだ。
やはりセキュリティー部門は動いたようで、エーデル姫が空港についた時は、まず空港に入るための検査場が長蛇の列だった。普通なら荷物をX線に通した後、金属探知機によるボディーチェックだからそんなに時間がかからない。だが、今はすべての乗客の手荷物を開封チェックしている。さらに金属探知機も感度を高めているようで、何度も戻ってはくぐらせられている人が多い。
なんとか空港内に入ったエーデル姫は、例の男の姿を探した。
大胆にも男は、常にエーデル姫から見えるすぐそばの位置にいて、姫を見張っている。向こうは当然姫の顔を知っている。しかし姫に自分の顔が割れていることを彼は知らないから、大胆に近寄ってくるのだ。
そして今度はチェックインだが、ここもまた長蛇の列だ。ここでは託送荷物をX線に通して重量を量る。普段なら係官は重量ばかりを気にしていてX線の方はろくに見ていないが、今日ばかりはここでも託送荷物を開いて直接中身を調べられていた。中に時限爆弾などあろうものならすぐに発見されるはずだ。
こうして姫は当然何も問題がないので無事チェックインを済ませ、出国審査も終え、搭乗口に向かう。ここでもまた今度は手荷物の中身の検査だ。
こうして飛行機に乗り込んだエーデル姫だったが、その隣に例の男は来なかった。どうも乗っていないらしい。
携帯で組織の人に状況を聞こうと思ったが、通話が始まる前に客室乗務員に携帯の使用はやめるよう注意されてしまった。
間違いなくあの男は空港には来ていたし、トランクを持っていた。だから、本当ならこの飛行機に乗るつもりで来ていたはずだ。だけどいないということは、あまりにも荷物検査の厳格さにことの露呈を恐れて今回は搭乗をあきらめたようだ。
こうして姫は無事、目的地の空港に到着したのである。
入国手続きをしながらも、係官を見ながらエーデル姫は思った。この国の人々の顔つきは、故国とも欧米とも全く違うし言葉も違う。それなのに妙に親近感を感じる。
エーデル姫は、この国での任務を思った。
それは「因縁の魂を探せ」というものだが、あまりにも漠然としていて雲をつかむような話だ。
因縁といっても何に対する因縁なのか、その因縁があるというのはどういうことなのか……世界スメル協会の上層部に聞いても詳しくは話してくれなかった。行けばわかるの一点張りだ。
もちろん彼女はこの国は初めてではない。だが、こんな任務とともに来たのは初めてだ。
やはりこの国は特別なのだろう。
同じような任務で、組織からはアルツォ・ダブリートゥのロス・アンゲリウス、メクシコウ、ブラジーオのサウパウロやペオーのレイマー、オステリアのシッニー、パイーズ、ミアノ、ベルギア、エピカはホウ・ホシェファーブのアビガンなどに世界中のさまざまな国に派遣されている。
だが、みんな途中で妨害に遭うこともなく無事に現地にたどり着いている。なぜ自分だけ命まで奪われようとしたのか……やはりこの国は特別なのだと思う。
――おまえらがエフライムの流れのあの国の人々と融合すれば世界に恐ろしいことが起こる……
あの男はこんなことを言っていた。でも、エーデル姫のひらめきは真逆で、今こそ世界の救いのためにこの国とは霊的融合が必要だと感じた。
そして今この国に降りたって、その勘は正しかったと思う。
湿気の多い蒸し暑さを感じながら、とりあえず空港からこの国の首都に向かうリムジンバスにエーデル姫は乗り込んだ。