2 浮遊感覚
とにかく彼女は立ち上がった。
お手洗いに行くふりをして、機内を少し点検して回ろうかと考えたのだ。
だが、そのためにはすでに眠っている例の男を起こす必要があった。そうしないと、通路には出られない。
ところが起こす前に男の方が、パッと目を開けた。エーデル姫はかなり狼狽した。
男はうすら笑いを浮かべた。そして言った。
「エーデル姫、どちらへ?」
彼女は全身が硬直した。なぜ自分の名を? この男とは会話はしたけれど、彼に自分の名を名乗った記憶はない。
しかもその言語は、流暢なジュデズモ語だったのだ。
「あなた、もしかしてセファルディ?」
男は答えなかった。セファルディムとは中東系イェフディムで、顔つきはアラビーンと変わらない。だから、エーデル姫が男をアラビーンだと思っていたのも無理はない。しかも最初は、アーンミーヤ語で話しかけてきたのだ。
「そんなあいまいな定義はやめてもらおう。我われは正統なシオノートゥの継承者であるレビ人の組織、イルグン・レビである。我われは世界スメル協会が全世界に行動範囲を広げ、おまえがその任務を遂行するのを阻止しなければならない」
「どうして? イルグン・レビといえばアシュケナジムの人々と敵対しているとは聞いていましたけど」
アシュケナジムはいわゆる白人系イェフディー人で、イェフディムの民の正統な血統を受け継ぐセファルディムから見たら、アシュケナジムはアブラハム、イサク、ヤコブからは血を受け継いでいない偽物のイェフディムだというのだ。
だが最近では、「イェフディム」というのは人種や民族ではなくヤハドゥートゥという宗教を奉じる信仰集団であるという定義に傾きつつあるので、彼らの主張は根拠を失いつつある。
「お前らはエッセネの末裔、白色同胞団の流れであろう。そのおまえらがエフライムの流れのあの国の人々と融合すれば世界に恐ろしいことが起こると、我われの予言ではそう出ている。だから阻止するのだ」
「何を言っているのですか?」
エーデル姫にとっては全く逆だ。自分たちとエフライムの流れが手を結ぶことは東西霊界の融合となり、来るべき未曽有の大危機に対して人類を救う唯一の手立てなのだ。
今はセファルディムだのアシュケナジムだの、ひいてはイェフディムとムスリムで争っている場合ではない。
だが、男はエーデル姫に、そのような抗弁をする暇を与えなかったし、もし言ったとしても男は聞く耳を持たないであろう。
「間もなくこの飛行機は爆発する。俺の手荷物には強力な時限爆弾が仕掛けてある」
「そんな、手荷物とボディーチェックだけでも三回もセキュリティーチェックを受けるほど厳重な空港の検査システムをどうやって潜り抜けたというの?」
「どこにでも抜け穴はある。手荷物検査だって厳重なようで、案外いい加減だったではないか」
確かにそんな気もする。だが今は、そんなことにかまっている暇はない。
「やめて頂戴。関係のない多くの人まで巻き添えにすることないでしょう?」
周りの人々も二人の会話に目を覚まして聞き耳をたててはいるが会話がジュデズモ語なので、乗客の大部分を占めるアラビーンには理解できないようだ。眠りを妨げられ迷惑そうな顔をしているだけだった。
「もう遅い。そろそろ時間だ」
その言葉が終わると同時に、床の下からものすごい爆発音がして機体は激しく揺れ、アラームのつんざく音が機内に響き渡った。
人々が騒ぎだすのと煙が充満し、やがて客室全体が炎に包まれるまで数秒、機内放送も乗務員の指示も全く間に合わなかった。
最後に、今までにない爆発音を聞いたのが、エーデル姫の意識の最後だった。
熱の塊と炎が全身にぶつかり、そのあとは全く意識を失っていた。
※ ※ ※
どうやら眠っていたのかもしれない。
うっすらと意識を取り戻したエーデル姫は、周りを見回した。
自分は空中に横たわっている。しかし倒れているというのではなく、宙に浮かんで漂っていたのだ。
起き上がるとそのまま、空中に浮かんで彼女は立っていた。
周りは薄い靄がかかって、でも暗くはなくて、どこにも光源らしきものはないのに周り三百六十五度、そして上も下も全部が白く輝いていた。
目の前に映像があった。
飛行機が内部から爆発して、瞬間違木っ端みじんに飛び散った。残骸も乗っていた人々の肉体も粉々になって地上へと落ちていく。まったく原形はとどめていない。
それはあまりにも悲惨で残酷な映像だった。
だが、その空中の炎と黒煙の中から元の通りの彼女が乗っていたはずの787-9機がすっと表れて、何事もなかったかのようにそのまま飛行を続けていた。
エーデル姫はただあっけにとられていた。
――あの飛行機はあなたが乗っていたもの。でも、もうすでに実体ではありません。実体は砕けて地上へと落下しました。
突然心の中にはっきりとした声がする。
「ではあの飛んでいった飛行機は何なのですか?」
――乗っていた人たちはあまりにも突然のアクシデントに飛行機が大破したことも、自分が死んだことも知りません。まだ飛行機に乗っていると思っています。そしてその飛行機は順調にフライトを続けていると思っています。そんな人たちの想念が作り上げた幻なのです。
不思議な声だ。その言語は明らかにこれから彼女が行こうとしていた国の言語だ。その言語について、彼女はかなり堪能ではある。けれど、今はそれが胸の中でジュデズモ語に翻訳されて心に直接響く。
「ではあの飛行機は無事に目的地に着くのですか?」
――いいえ。残念ながら延々と飛び続けます。何十年でも何百年でも。あの幻の飛行機に乗っている人たちが、自分は死んだということを自覚すればフライトからは脱して行くべきところに行けます。でも、それを悟らない限り延々と飛び続けます。
やがて飛行機は飛んでいって見えなくなった。エーデル姫の目からは、どんどんと涙がこぼれ落ちた。
その時、声の主の姿がはっきり見えた。見えたといっても輪郭を認知できたくらいで、それはあまりにも巨大な人型の発光体だった。山のように見上げる高さだし、その眩しさに直視できなかった。ものすごい光圧である。
「私はなぜ、あの飛行機に乗り続けなくて済んだのですか?」
――あなたの魂はあの人たちのような普通の魂ではありません。任務を持って神界から直接降ろされた魂です。ですから、あなたはまだ死ぬわけにはいかない。まだ任務を果たしていないので、あなたが死んだら神界としては計画が狂ってとても困るのです。
「そんな、神様の勝手で生かされたり殺されたりするんですか?」
――『神様』は勝手に人類をお創りになったのですから、勝手なさいますよ。ここは、時間も空間も存在しない世界です。時間が存在しないということは、地上界すなわち人間界の時間など簡単に飛び越えられます。戻ることもできます。時空列はありません。あったかなかったかですから、ある程度の時間をなかったことにもできます。あなたにとって地上の時間で十二時間ほどをなかったことにしますから、やり直してください。
そこでエーデル姫の意識はふっと遠のいた。