1 MM964便
フライトは順調だった。
夜半近くに中東諸国とは地理的には別大陸だが文化的には中東に属する国の首都にある空港を飛び立った787-9機は、すでに三時間ほど飛行していた。
フライト時間は十二時間とアナウンスがあったので、もう四分の一は過ぎている。
当然のこと外は夜の闇が続くだけで、いちばん窓際列の座席を確保したエーデル姫はずっと窓のブラインドは降ろしていた。
本当ならもう眠りたいところだけど、乗ってすぐ真夜中なのに機内食が出たりで目が冴えてしまった。
夕食ということだけど、どう考えても夜食だ。それでいて、オムレツにパンが三つもついた結構まともな食事なのだ。
実はエーデル姫は搭乗前に、今回彼女を派遣する世界スメル協会の幹部たちと豪華な食事をしたばかりだ。
それでも適度なアルコールがあればそのまま眠りにつけそうだけれど、残念ながらこの地域の国々を発着する飛行機は酒類の提供はない。
ブラインドを少し開けて外を見ると、本当ならば朝までまだ三時間ほどあるはずだけどもう空は明るくなってきている。
もう何度もこの便で往復しているエーデル姫は、経験として間もなく夜が明けることも知っていた。
自転する地球の上を東に向かって飛んでいるのだから、当然時計の時刻よりも三時間も早く夜が明ける。
時計は目的地に到着したら、現地時間に合わせるつもりでいた。
現地での使命を、眠れぬままエーデル姫は考えていた。
別に今寝なくてもあと九時間はこの飛行機に乗っているのだから、眠る時間はいくらでもある。
エーテル姫は「姫」という称号で呼ばれてはいるが、別に国王のプリンセスではない。ただ、それに準じた血筋の家柄の息女であることは確かだ。
だが今はそんな身分よりも、世界スメル協会の幹部としてなすべきことをしに因縁の国に向かっている。
その証拠にSPをつけることもなくただ一人で、しかもファーストクラスはおろかビジネスクラスでもないエコノミーの席に座っている。
姫という称号にしては服装も普通のスーツである。
それでも、人々ははっと驚いて振り返るような美貌の持ち主の若い女性だ。
ただ、白人種ではなく中東系の容貌だ。しかし彼女はムスリマではなかった。
経験通り、飛行機の外は夜が明けたようだ。
だが、ほとんどのシートが窓にブラインドを下ろしているので機内は夜のままであり、エーデル姫は自分のシートの窓のブラインドをほんの少し開けてみたことによって外は明るいことを知った。
だが、雲の上のまばゆい光が急に機内に射しこんだので、すぐに彼女はまたブラインドを下ろした。
外の明るさとは別に機内は再び夜の暗さを取り戻し、そのシートを七割方埋めている乗客たちもほとんどが眠っているようだった。
「見たところ、お仕事ですかね」
窓側三列シートの、空席である彼女のシートの向こう、通路側に座っている若い男が、眠っている他の乗客を気遣って小声の飛行機が離陸した地ミツライムの口語であるアーンミーヤ語で話しかけてきた。
姫は愛想笑いを見せた。
すでに機内食が配られたころに、二、三会話はしている。ただそれは、ほんのあいさつ程度だった。
男も空席をつめて姫の隣に来ようなどということはしなかった。
「ええ、いささか面倒な仕事で気が重いわ。あなたもそんな感じ?」
「商用ですよ」
たしかに二人とも、観光旅行という感じには見えない服装だ。
だからエーデル姫は、これ以上その男と会話はしたくなかった。そう。観光旅行ではないのだ。
観光旅行ではないからといって、ではビジネスかというとこれも違う。
彼女の任務は、ひとに話していいものではない。そもそも彼女が属する組織自体が、人に知られてはいけないものなのだ。
世界スメル協会……ひとに知られてはいけない存在といっても某フ●ーメ●ソンやイ●ミ●ティのような政治的秘密結社ではない。
もちろん宗教団体ではないし、学術団体でも慈善団体でもない。テロリストの地下組織などでも、もちろんない。
だがその実態は最後のテロリストを除けば、先に挙げたすべてを包括するといってもいいようだ。
もっとも起源は紀元前からヤハドゥートゥの一派として身を隠してきた。本部も正統ヤハドゥートゥであるハレーディームと同じ国内ではなくミツライムにある。それも紀元前以来そうだという。
実は当のエーデル姫も、いやその成員のほとんどが自ら属する団体の究極を知らずに活動している。
はっきり言ってメンバーも自分たちの団体について詳しくは知らないのだ。
幸い、男はもうエーデル姫に話しかけてくることもなく、シートを最大リクライニングにして仮眠を始めたようだ。
到着までまだだいぶ時間がある。
エーデル姫も少し眠ろうかと思って、もう一度隣の男を、そして機内をさっと眺めた。
異変はその時に気づいた。
男のオーラがない。
他人のオーラが見えるという異能力があるエーデル姫なのだが、一つ開けた隣の席で眠っている男のオーラが消えている。
不審に思った彼女は少し腰を浮かして、機内のほかの乗客に視線を這わせた。
見事に全員のオーラは消えていた。そして自分のオーラは……それもない!
かつて高層ホテルのエレベーターに乗ろうとしたら、同じくそのエレベーターに乗り込もうとしていた数人の人のオーラがことごとく消えていた。だから彼女は乗るのをやめた。果たしてそのエレベーターはワイヤーが切れて落下し、乗っていた全員が即死したという事件があった。もし自分にオーラが見えるという異能がなくそのエレベーターに乗っていたらと思うと、彼女はぞっとしたものだ。
そうなると今回もただごとではない。もしかしたらこの飛行機は……。
その時、例の男がうっすらと目を開けた。
「何か不都合でもありましたか?」
エーデル姫は迷った。この飛行機に何かしらアクシデントが近づきつつあることを、この男に告げたものかどうか。
そもそも一般の人にとっては、オーラが消えているという状況を説明するのが大変だし、そのことが大惨事を招くというのはいくら説明しても納得してもらえる自信はない。
しかも今はこの男を納得させることなど、寸分の意味も持たない。
何百人乗っているかは知らないが、この機に搭乗している乗客と乗務員のすべての命が危機に晒されているのだ。
だが、彼女は状況はわかっても、自分が何をすべきかがわからない。
この上空からでは、自らの組織に連絡を取って指示を仰ぐこともできない。
そもそも危機は迫っているようだが、具体的にどのような危機なのかまではわからずにいるのだ。
エーデル姫は息をのんだ。