004 悪夢からは逃げられない
アングラズという男は、領主に雇われ、街の治安を維持するために衛兵として働いているが、元はこの国、アザルド軍の兵士であった。
しかも、ただの一兵卒ではない。
隣国との戦争が起きていた頃は、敵地のど真ん中で大暴れして、鬼神と呼ばれたこともあるほどだ。
だからこそ、オーグリスであるフウカを一方的に打ちのめすことが出来た。
彼がいなければ、彼女を捕らえることはできなかっただろう。
もっとも、アングラズ自身は、危険なオーグリスを処刑せずに何かを企む領主に、不満を募らせているようだが。
シルキィが捕らえられた日の夜。
アングラズは仕事を終え、詰め所を後にしようとしていた。
そんな彼は、とある部屋の前で足を止める。
「……かわさん……ちゃ……」
中から誰かの声が聞こえてきたのだ。
「物置か……誰かいるのか?」
訝しむアングラズ。
彼ほどの使い手になると、気配で人の所在はわかるものだが、この部屋の中には誰もいないはずである。
ただ積み上げられた荷物が音を立てただけなのか。
屋内で大きなハルバードは振り回せないので、腰にさしていたナイフを引き抜き、扉に手を当てる。
そして一気に開くと、室内を素早く見回した。
「誰もいない……か」
暗い室内には、荷物が置かれた棚が並んでいる。
中には、シルキィから押収された証拠品もあった。
ひとまず無人であることは確認できたので、アングラズは部屋を出ようとしたが――
「くろ……さん……」
再び声が聞こえてくる。
今度は人間のような気配も。
「そこかッ!」
彼は勢いよく手にしたナイフを投げた。
だが、刃は床に突き刺さっただけだ。
侵入者の姿はそこにはない。
気配も、まるで霧のように消えていく。
「一体何なんだ……」
気配がした場所に歩み寄り、突き刺さったナイフを引き抜くアングラズ。
すると、その真横には赤いペンダントが落ちていた。
「あのシルキィとかいう女が奪ったペンダントか。なぜこんな場所に落ちている?」
荷物の入った袋から落ちてきたのだろう。
だが肝心の袋は、離れた場所にあったのだ。
落ちて転がったにしても遠すぎる。
「まったく、整理整頓はしっかりしろと指導したはずだがな」
軽く愚痴りながら、元の袋に戻そうとするアングラズ。
すると、手にしたペンダントからか細い声が聞こえてきた。
「まゆ……ちゃん……」
「っ……今、確かにここから……」
彼は恐る恐る、赤い宝石の部分を耳に近づけ――
「わたしを」「ぼくを」「おれを」「あたしを」
『たすけて』
何人もの声が重なって助けを求めてくるのを聞いた。
「うわあぁああっ!」
さすがに驚き、ペンダントを投げ捨てる。
アングラズは額に冷や汗を浮かべながら、転がり、壁にぶつかって止まったそれを凝視した。
「た、確かに聞こえたぞあのペンダント。ただの装飾品では……ないのか?」
とにかく気味が悪くて仕方なかった。
彼は足早に物置を後にすると、何も見なかったことにして詰め所を出る。
「クソッ、オーグリスなんかに関わるから碌でもない事が起きるんだ……!」
城郭都市イニティは、アザルド国の南に位置する、蒸し暑い街だ。
アングラズは、この気候にもとっくに慣れたと思っていたが、今ばかりはまとわり付くような暑さが鬱陶しくて仕方がなかった。
◇◇◇
シルキィは夜遅くまで、穴を掘り続けた。
深さはたった一日で彼女の体がすっぽり収まるほどになっている。
しかし、まだ穴がどこかにつながる様子はなかった。
「シルキィ、そろそろ止めたほうがいい」
「わかった、見張りが来たんだね」
「いや、そういうわけではなく……さすがに疲れただろう?」
すでに何時間も、スプーン片手に穴を掘っている。
とうに体は疲れ果てているはずなのだが――不思議と、今のシルキィはそれを感じなかった。
大丈夫だよ、答えようとしたが、寸前で思いとどまる。
(徹夜で勉強した次の日って、ハイになるけど反動あるんだよね……)
要は、脳内麻薬の分泌によって、体が疲れを感じない状態になっている、ということ。
この場合、大体翌日ぐらいにガタが出るので、全体の効率で見るとプラスマイナスゼロになっていることが多い。
処刑が近いとはいえ、さすがに明日すぐということはないだろう。
シルキィはフウカの言うことを聞いて、大人しく穴掘りを止めることにした。
「それにしても、一日でここまで……明日にはもう逃げられるんじゃないか?」
「できるだけ早く脱出したいね。まだ遠いけど、水の音みたいなのも聞こえる気がするから、出口まで案外遠くないかも」
「本当か? それはよかった」
自分が逃げるわけでもないのに、自分のことのようにフウカは喜んでくれた。
それだけでも、彼女が悪人だとは思わない。
人を喰らう衝動は本能――善人だとか悪人だとか、そんなのは関係ないかもしれないが、シルキィはひとまず今は彼女を信じたいと思っていた。
「今日はゆっくりと休むといい。明日に備えてな」
「うん、おやすみ」
「おやすみ、シルキィ」
こんなふうに、誰かと寝る前に言葉を交わすのは、お互いに久しぶりだった。
フウカは壁の穴を隠すように座ったまま眠り、シルキィは床に薄い布を敷いてその上に横になる。
しばらくすると、フウカは寝息を立てはじめたが――
「……ぜんぜん眠くない」
シルキィは、脳が覚醒したまま元に戻らないため、なかなか眠れないでいた。
慣れない場所で緊張しているのもあるし、ひょっとすると明日もう処刑されるかもしれないという不安もある。
色んな感情がごちゃまぜになって、何もしてなくても頭がフル回転してしまっているのだ。
加えて、この寝心地の悪さと暑さである。
「最近はベッドで寝てたからなぁ……慣れちゃったのかも」
職業柄、野宿ということも多かったシルキィ。
だが、野宿でも下は柔らかい土だったり、ハンモックの上だったりと、牢獄よりはかなりマシである。
こんな悪い環境で眠る経験は、意外と無いものだ。
なかなか寝付けないままゴロゴロと転がること2時間。
先に眠ったはずのフウカが、寝言をつぶやきはじめる。
「んぅ……お母さん……」
つい耳を澄ましてしまったが、聞いてからシルキィは軽く罪悪感を抱いた。
(最後の一人ってことは……そっか、家族も……)
どういう経緯で狩られたのかはわからない。
だが、見たところフウカはシルキィとそう変わらない年齢に見える。
(辛かったろうな)
同情――と呼びたくは無いが、共感せざるを得ない。
「どこ……お母さん……置いていかないで……」
フウカの声を聞いているとシルキィも家族のことを思い出す。
(私も2年会ってないんだっけ。みんなどうしてるんだろう。私のこと、まだ探してくれてるかな)
普段はできるかぎり考えないようにしているが、一度頭に浮かべてしまうと、意識せずにはいられない。
父、母、そして妹。
四人で幸せに食卓を囲んでいた頃の風景を想起し、涙腺が緩む。
それを誤魔化すようにシルキィは両手で顔を覆った。
(ダメだダメだ。考えるなー、忘れろー。思い出したって、どーせ戻れないんだから)
彼女は必死で、自分にそう言い聞かせた。
そうしているうちに次第に眠気がやってきて、意識が閉じていく。
◇◇◇
暗闇の中、ぽつんと一人、シルキィが膝を抱えて座っていた。
彼女がぼんやりと前を見つめていると、突然目の前に少女が現れる。
『どうして私のことを置いていったの?』
彼女はシルキィを攻め立てるように言った。
直後、少女の腕が一本吹き飛び、散った血がシルキィの顔を汚した。
『どうして一人だけ逃げたの?』
今度は下半身が弾けて、べちゃりと上半身が床に叩きつけられる。
苦しそうな顔をした少女はシルキィに手を伸ばし、憎しみに満ちた表情で糾弾する。
『どうして助けにきてくれないの?』
さらに少女の体はどろどろに溶けて、まるで血のスライムのようになっていく。
『どうして? ねえどうして?』
スライムはシルキィに這い寄り、脚に絡みつく。
そして彼女の肉を、骨を、どろどろに溶かして同化しながら顔に近づいてくる。
『繭ちゃん』
少女がそう言葉を発した次の瞬間、赤色が視界を覆い尽くして――
◇◇◇
「シルキィ。大丈夫か、シルキィ!」
「……っ!?」
シルキィは体を勢いよく起こした。
そして「はぁ、はぁ」と肩を上下させる。
彼女の横には、心配そうにその様子を見守るフウカの姿があった。
「わ、私……」
手で額に触れると、吹き出した冷や汗でべっとりと濡れていた。
「ひどくうなされていたから、慌てて起こしたんだ。体の調子はどうだ? どこか痛くないか?」
「平気、大丈夫。ちょっと夢見が悪かっただけだから」
「そうか……ただの夢ならいいんだが」
「下が硬かったせいで、眠りが浅かったのかもね。でもありがとう、起こしてくれて助かった」
シルキィは無理して笑顔を作る。
だがそれは余計にフウカを不安にさせたのか、彼女はしばらくシルキィにつきっきりで、体をさすったり、膝枕をして面倒を見てくれた。
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