読書の友
1965年が初版だった。紘一が実際に手にしているこの本は、その四年後に8版としてこの世に出ている。もうすでに半世紀が経過していて、紙は全体に焼けていて印刷も薄い。だが、これは慣れてしまえばどうという事はないのだった。一回読み出すと、こんなことは問題にならない。紘一は高校生だが、大の読書好きだった。ゲームなんかしないのは、時間が勿体ないからだ。こうして奥付けや、解説までも含めて読んで、本のすべてを堪能するのはいつものことだった。奥付けによると、訳者は1901年生まれ。翻訳の作業は訳者が少なくとも60を過ぎてからの作品ということになる。訳者紹介欄に現住所とあって、そこには実際に住所が載っていた。今の感覚では考えられないが、ずいぶんとのんびりした時代だったようだ。グーグルアースでそこを訪れてみると、白い大きな家が今も建っていた。訳者自身はもうこの世にいないわけだから、誰が住んでいるのかはわからない。よほどの田舎でない限りこうして誰の家と雖も、道路から見上げる格好で、ネットから見ることが出来るのだから、この当時には想定すらしなかった事だろうと思う。思えば、最初にこの地球儀を言い出した人は、その段階ですら笑われたことだろう。ある人は冗談だと言い、話を聞こうともせず、ある人は絶対無理だと言い、その予算を聞いて大いに腹を立てて人もいたに違いない。SF小説ですら、考えもつかなかったことだ。
ちなみに手に取った本はSFの古典的名作だった。作者は19世紀の最後の年に生まれ、60歳で亡くなった。一次大戦に従軍し、二次大戦ではもうそのような年齢ではなかったが、志願兵となり兵器の開発に当たった。この小説でも主人公は軍人で、作者の経験が生きているのだろう。小説自体は仕事の傍らで、余暇を利用して20代後半より書き続け、本作に至っては晩年57歳で書き上げた。その三年後に無くなっているので、本作が日本で初版として売り出されたころには、もうすでに亡くなってから五年がたっている。舞台となる年代はちょうどその真ん中だ、どこかに1963年とあった。六年後の未来を描いて、三年後に亡くなったわけだ。60歳くらいで亡くなるのは紘一には若いように思えた。本人はまだ生きていると思って書いたのではないだろうか。ちなみに、この手にしている本に至っては亡くなってから九年というわけだ。69歳ならそれもまた十分に若いと思えた。出来る事なら、生きているうちに極東での出版を確認したかったろう。作者はともかく、さて、これを読者として最初に手に入れた人はどのような人だったのだろうか。この本は当時アメリカの最新ベストセラーだった。価格は210円と書いてある。ネットで消費者物価を調べると、当時なら、ラーメンを二杯食べれるくらいの価格である。同じサイトに載っている当時の大卒の初任給は34000円ほどだった。給料の0.6パーセントだ。今、初任給が20万ほど。つまり、今の感覚で言うと、1200円ほどとなる。ラーメンが一杯600円。妥当な数字だろう。
ちなみに今同じ出版社で同じ本を買えば、1100円である。こうしてみると今も昔も購入に関する感覚は同じようなものだったことだろう。高校生が少ない小遣いで買うにはちょっと高いかなあと言ったところだ。だから高校生である紘一は、古本屋によく行く。肝心なのは中身であって、外側は関係ないのだった。また、紘一には本を手元に置いておく趣味はない。そんなことをすれば読み終わった本が部屋にたまって仕方ないだろう。だから、読んで、ある程度まとまった時点で古本屋に売りに行くのだ。古本屋と言っても本専門ではない、ゲームソフトや、フィギュアなども並んでいる。古本ではなく、古書と言ったほうがふさわしい書物はこういったところには置いていない。また古書を扱うような‘’本物‘’の古本屋はここら辺りでは見たことがなかった。こういったところの‘’本物ではない古本屋‘’の価値づけは質を問わず、古いか新しいか、流行りかそうでないかなのだ。だから売り買いされる本は残念だが、どのようなくだらない内容であろうが、流行りのものは高値で買ってもらえる。逆に歴史的作品であろうが、古いものは値段が付かなかった。つまりゴミ扱いである。古書の店に行けば、高値で取り扱われるプルーストや、セルバンテスがゴミとして処理されるのは耐えられなかった。「これすごい良い本だよ」値段が付きませんがどうしましょう、と店の人に言われた時に思わず口走った言葉だ。しかし思い直すと、それだけに紘一にとっては面白い場所でもあった。ここに来るときは一番安いたたき売りの100円のコーナーを覗くに過ぎない。それはある意味では宝探しなのだった。それこそ紘一にとってはゴミのような本の間に宝物が挟まっていることがあり、そういう時は嬉しくなるのだった。こんな名作をこんなところに置いておくなんて、馬の耳に念仏だ。豚に真珠だ。豚から真珠をだまし取るようなものだ。しかし、念仏も真珠も相手によっては価値のないことは百も承知なのだ。それこそラーメン二杯の価値がどこに行こうが、相手が誰であろうが、それほど変わらないのに対して、念仏や真珠の価値はやはり圧倒的普遍性はないのだった。だが、価値のあるものというものは往々にしてそういったものだ。その価値を理解できる人間だけがそれを宝として楽しめるのである。そのものに込められている、思想や、技術や、時間や、作家の克己心などが理解できるからこその宝なのだ。或いはその成り立ちを理解しているが故の希少性というものだってあるだろう。これには運命めいたものを感じることが出来る。
そして、紘一が本屋というものに期待できなくなって久しくなる。店に行っても全然うれしくない。平積されているのは手軽で安っぽいラーメンのような本ばかりだ。別にラーメンを悪く言うつもりはない。だが、ラーメンの奥には念仏や真珠があってしかるべきだろう。商業的に流通するものと、文化遺産。しかしそういった品ぞろえをしている店は、よほど大きな店でないとダメなのだ。田舎に住んでいる紘一にとってはつらいところだ。ちょっと昔の名作を読もうと思ったら、インターネットに頼るほかない。数年前にエリオットのミドルマーチを読んでみたくなったが、絶版だった。これはインターネットで古本を取り寄せた。どうやら今は新訳があるらしい。読みたくなったのは、イギリス人が読んでおくべき古典名作のベスト3に入っていたからなのだが、そのような名作が絶版になっていることにとてもがっかりしたものだった。出版不況もわけないな、というところだ。ミドルマーチこそ平積みにふさわしいのだ。こうした真の良作が、読書の楽しみを人に伝え、読者層を増やすのではないか。名作に共通するのは言葉の力だ。プロットの巧みさや、作中の刺激的な出来事で引き込んでいく物語も多いが、ミドルマーチなんて変わったことは何も起こらないのだ。それでいて、人を引き込むのはやはり言葉の力だ。物語が言葉で出来ている以上、逆に言葉だけという制約を受けている以上、言葉に力のあることがやはり物語の価値なのだと思う。
ちなみに、揺るぎない、これは絶対に読んでおくべき名作という作品はあるものだ。時を超えて生き残り、上質な喜びと、驚きをもたらしてくれるこれらの名作たちは読書の最奥部を見せてくれる。これらに取り組んだ後で、平積のラーメン本に目を通すと、名作の名作たるゆえんがよくわかる。家電商品の取説のような最低限の、味のない文体で、プロットだけは面白いとかいうのは、どうしても馴染めなかった。物語というのは映像用の脚本ではないのだ。それなら映画を見たほうがいい。こういうのに限って平積みになっているのである。知的で刺激的なダイアログなんてものも望めない。型にはまった説明セリフのオンパレードだ。ダイアログは、ドリアングレイの肖像のような本文と全く関係ないところで展開する世間話のような、けれども火花が散るほど知的なものでもいいし、ドン・キホーテの二人の掛け合いの様に皮肉とユーモアをぎりぎりで混ぜ合わせたものでもいい、そこには無知を装った知性が潜んでいる。また、長ければいいというものでもなく、マルティンベックシリーズの様に最低限だが、重圧感があって、ハラハラできるというのもいい。これは余白に意味を見出した初めての小説だった。ところで、絵画の世界だと、名作なら高値がついてしまって、誰もがその絵画を手に入れて、楽しめるとは限らないが、書籍と言うものは面白い一面があって、子供の落書きのようなものであろうが、世紀の名作であろうが、同じ条件で誰もが簡単に手に入れられる。
そして紘一は100円コーナーで名作という宝物を見つけたのだった。
半世紀前の宝だ。これがどこに誰の手で保管されていたのかはわからない。売り物としては中途半端だ。コレクターの垂涎というわけでもなく、こういう廉価コーナーに並ぶとしてもぎりぎりのラインだ。だが紘一にとって、探していた一品ではあった。内容に変わりはない。
これは核戦争で滅亡してゆく人類を描いたものだ。北半球で戦争が起こり、そこは既に全滅。南には放射能の影響が出て、街並みなどは変化がないが、人類はゆっくりと確実に死に絶えようとしているという筋立てだ。この手の作品ではかなり早い時代に出たといえる。最初期のSF作品、科学的なアイディアがあって、実験はできないが、こういうことが起きたら、或いは発明されたらという、紙上における思考実験とも言うべき作品の一つだ。ウェルズの‘’タイムマシン‘’、タイムマシンを日常の小道具で使うのではなく、80万年後の未来はどうなっているのか、という全く日常から離れたレベルでの考察をする。同様に‘’宇宙戦争‘’、‘’透明人間‘’、などもそれに近い作品だ。だから、こういった作品はいわゆる文芸派とはちょっと違う。言葉の遊びは皆無に近いが、その新しい考えを物語に落とし込んでゆく丁寧さが勝負どころだ。人物や設定を際立たせるエピソードを的確に重ね、小さな出来事をおろそかにしない。当然、字数は増える。作家も読者も我慢のしどころだろうが、華々しいプロットを期待してはいけないし、そもそも不要なのであって、良い作品というものはこの地味丁寧さが大切なのだ。心にくさびを打ち込むのはこの作業以外に考えられない。だからこの作品もまた字数は多い。ページは400ほどある。最近はやりの大きな活字ではない。改行だらけのスカスカな白い紙面でもない。場面設定が変わるごとに一ページ使って数字だけを振るスタイルでもない。単行本ならともかく、文庫本でそれをやる意味が分からない。小さな活字でぎりぎりに詰めればいいのだ。岩波文庫みたいに。読みにくいのは最初だけで、あとは慣れるから。ともかく、ああいうスカスカ物はがっかりするのだった。特に大きな活字でさらに薄く作って、上巻と下巻に分けたりするやつ、あれはたちが悪い。さらにたちの悪いのは抄訳という短縮版だ。‘’レ・ミゼラブル‘’のどこを切ることが出来るのか、物語と関係ない下水の話が延々と続いたところでそれもまたユゴーではないか。フランス男はおしゃべりだというけれど、このユゴーの脱線ぶりは文化遺産である。その文章のすべて隅々まで味わい尽くしたいと思うのだ。また、韓国の小説に‘’土地‘’という素晴らしいものがあるがこれも短縮版でしか読めなかった。今は完訳版プロジェクトもあるけれど、残念ながら高いのだ。500ページほどなのに一冊が3000円ほどする。それだけでマルケスの‘’100年の孤独‘’が買えるなあと思いつつ、しかも全体で20巻あって、すべて読んだら6万円以上かかる。これは残念だが、さすがに無理と言えた。韓国人だったら読んだかもしれないけれど。ところで、韓国と言えば反日だが、流石にいい作家の筆は素直だ。時代が戦前の話なので、たしかに反日の部分もあるが、反日一辺倒ではない。ここら辺はあくまでも公平に、韓国人でも様々だし、日本人でも様々に描かれている。これを国民的な作品だとする韓国には、半日は嘘だろうと思わしめるほどなのだ。まあ、完訳を読んでないから何とも言えないけれども、訳されてない部分に反日の言葉が詰め込まれているとは思えないのだった。
本を持ってビーチチェアに横になる。ビーチチェアは室内に置いてある。ビニール製の、その名の通り浜辺とかに持っていくやつだが、これが室内でも結構使える。そこは紘一の特等席なのだ。本の表紙はすっかり色あせている。折り目はちょっとでも力を入れると裂けてしまいそうだ。華奢な体裁となってしまったその本をそっと開く。茶色に変わった中身の紙も弱っているように見えた。優しく扱ってやらなければならない。その優しさに相応しい中身の文章に没入していく。人類の滅亡というテーマに対して、物語は穏やかにのんびりと続いてゆく。人々はどこかほかの星の出来事の様に、別次元の世界の出来事の様に滅亡を語り合い、生活は普段通りに続いてゆく。年内に滅亡する予定に対して、小さな赤ちゃんがいて、来年の家庭菜園の予定を話し合う人がいるかと思えば、既に滅亡した地域に住んでいた、今はもう確実に死んでいる家族のために、町でお土産を買う軍人がいる。作者は軍に居た経験があって、主役も軍人だった。科学者が道具を開発し、軍人が戦争をして、だから人類が滅亡したなんて大雑把な理屈はこの物語では主流ではない。軍の装備はあくまで道具にすぎず、使い方次第ではとても便利で、軍人はただそれを扱う、訓練された集団に属するたまたまそこに居合わせただけの人間でしかない。短絡的に物事をカテゴライズして、それをもとに批判を繰り広げるようなやり方はしないのだ。もっと、詳細な視点で、個々の問題として物事は述べられていく。登場する人物たちは、あくまでも普通の人々だ。突出した個性の人物は、現実にあまりいないのと同様にこの物語世界には登場しない。せいぜいが自分の楽しみとして他人に迷惑をかけることなく、フェラーリを乗り回す科学者が登場するくらいで、終末物にありがちなどんちゃん騒ぎは皆無である。‘’霊長類南へ‘’がそのエキセントリックさでは漫画のレベルで、‘’復活の日‘’がカテゴライズされた単純さの面であくまでもSF小説であったのに対して、これはやはり文学的手法だと言えた。古い池にカエルが飛び込むだけというやつなのだ。放置されたままでは誰も何も価値を見出さない、単なる通りすがりの出来事に集中、或いは没入させることで、そのものを深堀りさせる、そうしてその真価をそっと見出させる、それを言葉の力だけでやり遂げるのが文学的手法だ。集中は、時折は‘’つかみ‘’を使って強化される、それがこの物語にあっては、終末という場面設定なのだ。‘’つかみ‘’の強弱は好みだ。ディケンズはこれが強いし、エリオットは弱い、どちらがどうという事はないが、作家のサービス精神の表れなのだろう。ディケンズの趣味は手品だった。意識は外に向いている。反対にエリオットは同じ女性として紫式部に近かったのではないか、その後半はともかく最初は自分の手慰みだったような気がする。ペンネームだってあえての男性名だし。これはもう意識の方向は内側なのだ。そのバランスとしてはいろいろあるけれども‘’嵐が丘‘’が紘一としては好みなのだった。‘’嵐が丘‘’はキングの‘’シャイニング‘’以上のホラーであり、同時に素晴らしい文学作品である、と紘一は思っている。恐怖をあおる部分の抑制の具合が絶妙なのだ。エミリーがホラーを狙ったかどうかは別にして。物語というのは面白いものだ。ただ赤信号を無視してわたるだけほうが、宇宙ロケットに穴が開くような事態よりも怖かったりする。
ふと紘一の視線に何かが引っ掛かった。顔を上げると、ギャバジンのスラックスを腰回りゆったり目に仕立て、サスペンダーで吊った男がテーブルの前に座っていた。男は足つきのグラスに何かを入れて飲んでいる。グラスの縁にはライムの輪切りが刺さっていた。
「ギムレットにはまだ早いね」紘一は先週彼とずっと過ごしたのだった。「マーロウさん」
「短気なナルシストとはひどい言い方じゃないか」マーロウと呼ばれた男は、苦笑いをした。もちろん彼はフィリップ・マーロウだ。‘’長いお別れ‘’の世界に先週、紘一は浸ったばかりだった。SNSに感想文を書くのが習慣で、紘一はマーロウの事をそう書いた。このマーロウがそれを知らぬわけがない。彼は紘一が作り出した読書の友なのだ。
「僕自身が短気なナルシストだからね。友人は最低限見た目で選ぶ。あとは興味をそそる生い立ちだな。マーロウさんがあの白髪のイギリス人を友人として一目ぼれで選んだようにね。彼の立ち居振る舞いと雰囲気に惚れたんでしょう。もちろん、頬の傷はそそるよね。悲しげな瞳と相まって必ずそこには物語があると思うもんね」
「ドワイト艦長みたいに生きたいとは思わないか」ドワイトは今読んでいる小説の登場人物である。よき家庭人、愛国者、よき軍人だった。また、とことん利他の人でもある。ナルシストとは全く逆の人物だ。
「人類の命があと半年だとしたら、ドワイト艦長みたいに生きれるかな。ドワイト艦長だって、半年より前の事は誰も知らないんだし、ほんとはマーロウさんみたいだったかもしれないよ。浮気者でさ」言ってはみたもののこれはないだろうと思えた。可能性としてはゼロではないが、それに近い。ただ、何もかもが終わってしまうのなら、やりたいことを無秩序に行うよりも、ドワイト艦長の様に自分を律して規律正しく生きるのは結局一番あとくされがないようにも思えた。
「人生で、何にかはわからないが、何かに勝ったと思いたいだろう。勝ったような気分になりたいだろう。そのためには、分析せず、考えすぎず、ただ感謝あるのみだって、ドワイト艦長は言ったろう?」
「何かに勝つというのは自分に克ったという事なのかな?でも、何かしら分析せずにはおれないんだよ。そのままうけとるだけなんて、実際のところ、どうなんだろう?それって何かを放棄しているような気がするんだけど」
「何かを分析して答えを出している時の自分が好きなんだろう?自分の頭脳の明晰さを感じていい気分だろう?仮に正しい答えを出せたとして、そのおかげで物事がよりよくなるかね?」
「・・・いや、よくはならないことの方が多いね。もちろん屁理屈を言うつもりはないよ。分析というのはあくまでも対人関係の話だよね。対物なら話は簡単だけど。どのみち自分の中での問答なんだし、わかっているんだ」
「分析の仕方が間違っているという事はないかな?だから、分析してもそれで却ってよくなることがない。正しく分析すれば、正しい行動に出れる、物事は改善する」
「今もこうして分析してるよね。おそらくこんな分析もまた違うのかな。これは自分に対する分析だ。そして考えすぎてる。ドワイト艦長ならダメ出し食らうね。正しいというのは何だろう。・・・でも分析よりも感謝のほうが自分を正しく導いてくれるような気がするな。そこには分析や考えすぎは入り込めないよね。入り込めないように感謝を癖づければいいのかな。元の性格がこうだからね。よほど言い聞かせて常に気を付けなければいけないね」
「お釈迦様の言うとおりだね。感謝の心は最強だ」
「結局いつもそこにたどり着くね。ぐるっと一周回ってさ。孫悟空の気持ちよくわかるよ。彼が言っていたと後世に伝わっていることで、女性は救われないといった事以外では、間違っていたことないもんね。自分が死にかけた時には女性に救われたくせしてさ。僕は宗教家ではないから、仏教徒として言うんじゃないけれど、あのお経というやつ、もう少し簡単だったらいいのにと思うよ。少ない文章に意味が深すぎるよね。うっかりしていると、大概読み飛ばしてしまうだろ。それでもいいって後世の人たちは言うけどさ、あれは宗派集めの勧誘文句にしか聞こえないね。途中の人はどうでもいいから、お釈迦様の言葉だけを極めたいもんだね」
「ヘッセの`’シッダールタ‘’はいまいちだったそうじゃないか?」
「ヘッセには悪いけどね。そういう意味ではね。お釈迦様が普通の無力な人間として描かれすぎてるね。もっと苦悩して、快刀乱麻に活躍してほしかったな」
「お釈迦様の知恵を自分の理論武装ネタにしようとしてるだろ。悪い癖だね。人間としての釈迦をありのまま感じなくちゃ」
「考えるな。感じろ、ってやつ。マスターヨーダは偉大だね。ところで、‘’戦争と平和‘’のプラトンはどう?僕にはあそこまで徹底した利他の人だと、何か人間を超越したものを感じるね。お釈迦様の言う悟りともまた違う気がする、同じく無欲ではあるもののね。むしろ逆説的だけど、ある意味下等な動物的と言っていい。いわゆる反射で生きているような。彼はまさに考えない、感じるだけ、あるいはある種のしつけに伴う反射だろう?ある入力に対しては、決まったある返答を返すだけに見えるよ。望むと望まざるを別にして。そんなことは誰にもできないから神々しくはあるけれどね」
「トルストイが描かなかったからと言って、彼が何も考えてなかったと言えるかい?あの自己犠牲のすべてが考えた末の事だったらどうする?それは誰にも分らないだろう?誰の心の中も誰にもその真実はわからないのさ」
「考え抜いた末でのあの自己犠牲だっていうの?どちらかと言えば‘’塩狩峠‘’のわが身をもって列車を止めて、大勢を救った永野さんみたいに?三浦さんは一冊丸ごと使って、永野さんの様々な苦悩や喜びを描いたよね。いや、苦悩する人永野さんといったほうがいいね。苦悩するプラトンは想像しにくいけれど、彼の行動は自己犠牲があたり前の様になっていたからね。ごく自然で嬉々とした行為には苦悩や考慮は見えないけれど、確かに真相は誰にも分らないね。プラトンの様に一見知性的でないタイプの人間には、あまり物事を深く考えていないと周りは思い込みがちだけれど、それは思い込みなんだよね。あれが、考えた末での自己犠牲だとしたら、改めてプラトンの行動には鳥肌が立つ思いだね。我ながら浅いなあ。狭いし、偏ってる」
「でもさ、行動としては同じだろう。考えてやったにしろ、そうでないにしろ。あらためて鳥肌が立つのはおかしくないかね?」
「確かにおかしいね。まさにこれが分析の落とし穴だね。何かを発見した気になるけれど、現実は同じなんだ。素直にありがたく好意をいただくだけのほうが、気持ちがいいね。僕がプラトンだったらそれだけで良いのに、あれこれ詮索されると鬱陶しいよね」
「分析して分析の正体を見たね」
「まるで、素粒子の世界だね」
「どういう意味だい?」
「話せば話すほど分からなくなってくるってことさ。そして、本人もわかってない。観察者の影響が、観察物に及んで、そのものはウナギみたいにつかみようがない。スルスル躱されてしまうのさ。もう少しで真理に到達しそうなんだけど、つかんだと思ったら、違うものだったりする。ある時の振る舞いに関する理屈は、ある時には通じない。かと思うと、両方ともに条件を満たしたりもする。分析は禁じ手だけど、分析しないとその理由に行き当たらない。この禁じ手を、あくまでも禁じ手として封印する中で、どこで繰り出すのかがポイントだね」
「まあ、現実世界でやってみることだね。先生にも言われたろう。現実が一番大切だって、あまり本の世界に没頭しないことだね」
「わかっているんだけどね。まあ、自己満足なんだよ。ナルシストはそこを極めたいだろう」
「抜け出せないね。君は君だったな。ドワイト艦長ではない。次はどこに行くんだい?」
「次は大罪の世界がいいね。強欲と、自己中心の世界。今回は善人ばかりだろう。逆の方向に振り切りたいね。エルロイなんかちょうどいいかなと思ってる」
「‘’アメリカンタブロイド‘’あたりかな」
「そうだね。これを読むと、かのモルドールは遊園地だよ。それにしても結局言葉なんてさ、芸術も含めて娯楽以上の意味はないんだよ。一時期道教に凝って、そればかり読んだけど、血肉にはならなかった。あのキリストだって、一番身近な弟子たちを変えるのにすら、言葉では無理だった。自身の死を必要としたんだ。」
「言葉の力に落胆したかい?」
「いや、それとこれとは別さ。そういう落胆したりするものに夢中になるのが、人間だろ」
「そうだな。そろそろお別れの時間だ。さようなら紘一、またな」
「さよなら、マーロウさん、またね」
紘一は本棚に取って返した、手にはエルロイが握られている。マーロウはまたとない話相手だった。ここで、彼の同類は見つかるだろうか?
了