王子の花瓶
とある国の王子に、彫刻を愛する者が居た。その青年はとりわけ花瓶作りを好み、その愛情は彼の身を崩壊させる程の物だった。
日が輝く時も月が朧なる時も、王子は自室に閉じこもって小刀を握り、瞼を閉じず口を開かず彫刻に没頭し続けた。日は沈んでもまた上るという言葉はよく聞くが、彼の場合は日が沈んでも月が現れると言った具合で、明朝を待たず一睡もせず、ひたすらに花瓶を磨くのであった。とても王子とは思えない下品な風貌になるのも、仕方のないことだろう。
彼の世話係達は、王子を大変気味悪がった。狂人だ気違いだと貶し、あろうことか蔑称を付ける者もいた。そのような人間は、誰か一人が嘲ればあれよあれよと群がるもので、彫刻小僧や乞食王子など、多くの仇名が作り出された。更に、世話係だけでなく王様や王妃までも彼を哀れんで見る為、王宮に居る者で王子を味方する者は無に近かった。
今夜もまた、城の一室で陶磁を掘る音がする。月の艶やかな眼差しだけが、王子を照らしていた。
ある日、珍しく王子が睡眠を摂取し終えると、部屋の扉が三回ノックされた。数秒経ち、王様が入室する。王子の瞳はまだ覚め切っていないが、王様は険しい面持ちで歩を進め、辺りを無言で見回した。
王子の部屋には、数多の花瓶が所狭しと並べられている。壁沿いに積まれていると言った方が相応しいかも知れなかった。そしてその陶器達は、全てが全て異形の元に完成されている。常人が見れば、およそ何物か理解出来ない程、それらの花器は、花の器と思えぬ形を成していた。
そもそも、王子の作品は花瓶と呼ばれているが、花の差してある物は唯一つもなかった。それどころか、この部屋には一輪の花、一欠片の花弁とて見当たらない。それもその筈で、王子は花を差すことが嫌いなのである。だが件の言葉通り、王子は花瓶を好いている。愛している。そして花を持たない自らの作品を、花瓶と思い続けるのである。
この思考を矛盾だと思う者もいるだろう――実際、城の住人殆どはそう嘲笑している――が、地球が回ることを止めないように、王子のその思想には絶対の真理として言える程に覆らない理由があった。また、それは花の存在を好まないという単純な訳でもなかった。
王様は、山積みにされた花瓶の中からとある一つを見詰めた。別段その花瓶に興味が湧いたのではない。なぜなら王様にとって、全ての異なる花瓶が全て同等に見えるので、全て一様に、興味の湧かない対象だったからだ。
王様は一つの花瓶を通して、息子を憐憫の情で見据える。
王子は、全ての花瓶を、美しいと思って作った。しかし王様や家来には、まるで綺麗だと思えないのだ。全て、背骨の折れ曲がった深海魚か、崩れた瓢箪のごとき奇妙な形をしている。醜く感じるのは普通だった。それらの外見は、誰が見ても顔を顰めるような出来である。
王様が嘆息を漏らすと、王子はベッドから起き上がり、本棚から作りかけらしい陶器を取って作業を始めた。彼は、親など気にかけない。
王様は言った。
「息子よ、今日はお前に会わせたい人がいるのだが、少しいいかね」
王子の返答を待たず、王様は廊下に居た女性を連れ込んだ。その女性の美麗さと言ったら、濡れた椛より煌びやかであり、浮かべた微笑は吸い込まれる程魅力的である。派手なブロンドの長髪を靡かせ、女は王子の前へ出た。王様が紹介する。
「彼女は国一番の美女で、お前の妃にと選んだのだが……」
言葉の途中で、王子は王様へ紙切れを渡した。そこにはこう書かれている。
『麗しい月に許される醜悪な兎は一羽だけだ。もう一羽は出て行け』
王子は、国一番の美女を一蹴し、小刀に力を入れた。王様と女が愕然とする仲、陶磁は硬い音を鳴らす。
太陽の眩しい視線だけが、王子を照らしていた。
ある日、王宮で事件が起きた。世話係の女が、王子の花瓶を不注意で割ってしまったのである。女は、どうしたものかと泣き狂った。王子の花瓶をぞんざいに扱った為に流刑を命じられた者を、彼女は知っている。思わず踵から旋毛までが凍り付いた。死を覚悟した。しかし未練の涙が止まらなかった。彼女はまだ十九歳であり、故郷で病に倒れた母を養う夢があった。だが己が悪いのは明らかである。諦める選択肢しかなかったが、夢を叶えるという彼女なりの正義は、それを選ぶことを許さなかった。
花瓶が割れたのは、王子の部屋だ。王子は快音のした方を向き、数分固まった。女も必死に試行錯誤しながら、硬直する。沈黙の時は、氷河期のように長く狂おしかったが、それを破ったのは驚くことに女だった。
「……も、申し訳ございません……ワタクシ、もう、な、なんと……申し訳、ございません……」
彼女は嘔吐を堪えつつ、喉を振り絞り、必死に謝意を口にし続けた。横溢する感情に顔面は歪み、その凹凸を涙が通る。彼女の言葉には、これ以上ない程に誠意が込められていた。
王子は、やがて動き出す。極めて鈍間な挙措で、頭を下げる女の前へ立った。その表情は澱んだ河川のようであり、深く嘆き苦しんでいるかに見えたが、濁った瞳の奥には仄かな光があった。見る見る内に、王子の干からびた雰囲気に潤いが見えてくる。そしてエネルギーが漲っていく。彼の顔に、燃え盛る火のような活気が生じた。
そして、王子は言う。
「私と結婚してくれ!」
今までの表情が嘘のように、王子は笑顔で溌溂と続けた。
「好きだ。君を好きだ。今は何時だ。もう月が出てるだと? 日が出るまでに式を挙げよう! 今すぐにだ! 私には、君が誰かに奪われる前に夫となる夢ができた! 私は、夢は可能な限り早く叶えなければ堪らない主義なのだ! さあ式を挙げよう!」
王子は言い終えて部屋を飛び出すと、自分の姿に驚愕する使用人を構わず廊下を駆けた。そして広間で王を見付け、世話係の女と結婚したい旨を告げる。王様は無論反対したが、不可能と申すならば喉を切ると王子が叫び、判決を下せなくなってしまった。
さて、王子が奮闘している間、部屋に取り残された女は呆気に取られて立ち尽くしていた。未だに少量の涙が零れる。しかし悲しい訳でも嬉しい訳でもない。現在の状態が理解できずにいた。しかし幾らかの時が経って事が分かると、彼女は気を失ってしまった。これまた悲しい訳でも嬉しい訳でもなかった。
女が倒れたと同時に、王も天を仰いだ。
王子の奇異言動に王宮が振り回されたが、結局その日の内に式は挙げられ、王子は世話係の女と婚約を結んだのだった。
翌日、王様は酷く思い悩んだ。あのような息子に国が任せられるものか。折角麗しい女を連れてきても断り、あのような決して美しくない女を選ぶとは。ここは一つ叱るべきだ――と、王は遂に立ち上がる。
王子の部屋へ悠然と足を運ぶと、中には誰も居なかった。妃と庭にでも出ているのだろう。このところ王子は、彫刻に向かうことが少ないのである。
王様は部屋を出ようとしたが、とある一つの陶器に目を奪われて立ち止まった。その一つの陶器が特別に感じた訳ではない。王は変わらず、王子の作品を全て同等に感じているのだ。だが、手に取った時、あることに気付いた。花瓶にはしっかりと水が張ってあったのだ。これまで上から見たことがなかったので、知らなかったのも無理はない。
王は花瓶内の水を見て、思わず目を見張った。
――美しい。
花瓶の中で存在する水は、何か幻想的で、不可解な形を成しているようで、揺らせば綺麗な幾何学模様を描き、優しい渦を表せたり温和な波を立たせたりした。それは複雑な容姿がなければ作られず、奇怪な外見だからこそ生まれる芸術なのだった。
王は、水に見蕩れる。我知らず、顔が火照る。
初めて見る美しさが、花瓶の内側にはあったのだ。今まで外見ばかり見ていて醜いと罵っていた自分が、酷く滑稽で、情けなくなる。そして、息子の真意に気付けなかった己に、落胆してしまった。
そこへ、世話係が数人入室してきた。陶器を手に落ち込んでいる王を見て心配するが、王に差し出された花瓶を見て、言葉を失う。みな、その移り変わる誘惑的な造形美に惚れ惚れし、また、今までの自らを呪った。
自分達は、物を外見上でしか判断しなかったのだ。今理解したが、王子の妃となったあの女は、この王宮で一番の正直者であり、一番の良心の持ち主だった。
翌日には、王宮の至る所に王子の花瓶が飾られるようになった。良い戒めとなるだろう。
その日から、王子は陶器を作らないようになった。作る必要が、ないからだ。