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「いえ。今回は本当に申し訳なく」
今度はあたしのお母さんがおばさんに頭を下げた。
おばさんは今度は真顔になって、あたしのお母さんに言った。
「北関先生。頭を上げてください。翔太がサッカーで足首を負傷した時、親身になってくれたのは先生ですよ。生きてりゃいろんなことがある。でも翔太はそれを乗り越えて行くだけの力がある。自慢の息子ですよ」
後ろでは中松警部が涙ぐんでいた。
「なんてすげえ母ちゃんだ」
その時のあたしはただただ守られる身でしかなかった自分が情けなかった。先行きが見えない翔太のこと、何も出来ない自分。本当に自分がもどかしかったんだ。
◇◇◇
すっかり笑顔になった翔太とおばさんは、おばさんの車で帰宅することになった。翔太も「気にすんな。彰子」と言ってくれたが、どうして気にせずにいられよう。
「よしっ、帰るぞっ! 彰子。中松警部、お世話になりました」
お母さんの声に中松警部も応えた。
「こちらこそお世話様でした。北関先生」
お母さんは車で警察に来たので、その車であたしも帰宅することになった。
あたしは落ち込みっぱなしだ。翔太もおばさんも上泉先生もお母さんもみんな大人で強いと思った。弱いのは自分だけだと思った。
お母さんはそんなあたしに何も言わず、運転していた。長い沈黙が続き、破ったのはあたしの方だった。
「ねえ、お母さん」
「ん?」
「翔太、どうなっちゃうのかな?」
お母さんは少し考えてから答えてくれた。
「今の彰子に中途半端な気休めは逆効果だと思うから、はっきり言うね。刑事では事件にならないけど、民事では分からない」
「それって……」
「いくら私や中松警部が翔太君に非はないと論証しても、相手の赤神先生が認めなければ、争いになる。最後は民事の裁判。翔太君は『被告』になる」
「そんな『被告』って」
「最終的には負けないと思う。でも、裁判は長引く。普通はそれを嫌って早めに示談になる。だけど、赤神先生は分からない。逆恨みから執念深く認めないこともあると思う」
「ひどい」
「救いなのは彰子と翔太君の担任の上泉先生は立派な人だし、校長先生も話が分かる人だ。そうすることは赤神先生にとっても損になると説いてくれるはずだ。そこに期待したい」
「うん」
確かに上泉先生は尊敬できる人だ。
グオオオーン
お母さんが急にアクセルを踏み込んだ。ど、どうしたの?
「彰子っ! これからあたしは盛大な愚痴を言うっ! 耳を塞げっ!」
何のことだが、分からないまま、あたしは両手で両耳を塞いだ。
「バッキャローッ! 赤神っ! てめえのちんけな根性はこちとらお見通しなんだよっ! 整形外科医を舐めんじゃねぇっ!」
お母さん、そんな大声じゃあ耳塞いだって意味ないよ。でも、やっぱりかっこいいと思った。そして、この時、初めて医者もいいかもと思ったんだ。
◇◇◇
夏休みに入ってしばらく経ったある日、あたしとお母さんは上泉先生の家に呼ばれた。そこに翔太と翔太のお母さん、上泉先生とその娘の信那ちゃんが待っている。
信那ちゃんは「私は席を外そうか」と言ったけど、あたしは同席してほしかった。そして、その気持ちは翔太も同じだった。
上泉先生の家の和室でみんなでテーブルを囲んで座った。最初に上泉先生が真剣な表情で言う。
「鈴木のこれからの身の振り方が決まったので、伝えたい。鈴木、俺が言おうか?」
上泉先生の問いに翔太は微笑を浮かべながら、首を横に振った。
「いえ。俺が自分の口で言いますよ」
上泉先生は無言で頷いた。それにしても「身の振り方」って何だ? 翔太は「正当防衛」だって、中松警部も言ったじゃないか。
「彰子……」
翔太はあたしの目を真っ直ぐ見据えると言った。
「俺、学校やめることにした」
◇◇◇
「なっ」
あたしはその言葉に反射的に立ち上がった。
「何でそうなるっ? 今回のことは翔太には何の非もないじゃないかっ! 何で学校やめなきゃならないっ?」
翔太に飛びかからんばかりの勢いのあたしをお母さんは右手で制した。
「彰子。落ち着いて。上泉先生。これは何か理由があってのことですよね。お話してもらえますか?」
お母さんの問いに上泉先生はゆっくりと口を開いた。
「はい。確かに今回のことは鈴木には非がない。それは校長も分かっている。鈴木に処分が加わることはない」
あたしには分からない。だったら何故翔太が学校をやめなければならない?
「だが、今回のことを赤神先生が鈴木が北関に性的暴行を加えようとしたことが原因だと学校中に言いふらして回った」
なっ、そんなことを……
「もちろん、鈴木と北関をよく知る者はそんな下世話な話は信じない。だが、そういう話を信じたい人間もいるんだ。話が一人歩きを始めた。このままでは北関が傷つくと鈴木から俺に相談があって、最終的には鈴木の強い希望で自主退学することになったんだ」
「そんなのおかしいですっ!」
あたしはまた立ち上がっていた。
「それじゃあ、翔太があたしを襲おうとしたと認めたようなもんじゃないですかっ! それにあたしはそんな噂になんか負けませんっ!」