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「そりゃあ、あたしは翔太に何の断りもしないで、突然ボクシング部の見学に乗り込んだ挙句、いきなりバックレたし……」
「いやっ、いやいやいや」
翔太が高速度で立てた右手を振る。夏ならさぞや涼しかっただろう。
「俺。彰子が来てくれて、すげー嬉しかった。なのに、あんな目に遭わせちまって……」
「いやっ、いやいやいや」
今度はあたしが高速度で立てた右手を振る番だ。夏ならさぞや(以下略)。
「やっぱ、いきなり行ったあたしが悪い。あの後、大丈夫だったのか? 翔太?」
翔太は少し考え込んだ後、答えてくれた。
「正直、あの後の赤神先生はすげー機嫌が悪かった。でもまあ、年中イライラしているようなところもあるし、気にしても始まらないよ。だけど……」
「?」
「もう、彰子はボクシング部の部室には来ない方がいいな」
それは言われるまでもない。頑張っている翔太も見たいが、明らかなあたしにとっての危険人物のいるところには近づきたくない。うーん。それなら……
「翔太。頼みがある」
「何だ?」
「これから帰りは毎日、翔太の部活が終わるまでこの公園で待つから、一緒に帰ってくれないか?」
「なっ……」
翔太は真っ赤になった。やめろ。あたしまで赤くなるじゃないか。
「い、嫌か?」
「そんな訳ねーだろ。大歓迎だぜっ!」
「良かった」
かくて、あたしは下校時に信那ちゃんと一緒に公園まで行き、翔太の帰りを待つ毎日を送ることになった。
翔太が来ると、信那ちゃんは別ルートで帰る。あたしは翔太と一緒に帰る。
いくら自宅の方向が別と言っても、これは信那ちゃんに失礼だろう……あたしはそう思って、信那ちゃんに聞いてみた。
すると、信那ちゃんは大笑いしながら、こう言ってくれた。
「私は彰子ちゃんと話せる時間が長くなれば嬉しいし、彰子ちゃんとも鈴木君ともいい友達でありがたいと思っている。今のこの形は私にとっても心地良いんだよ」
うーん。何ともいい親友に恵まれた。
後はあたしと翔太の関係なんだが、やっぱり、あたしは翔太が好きなんだと思う。翔太もあたしを好きでいてくれるんだろう。
だけど、あたしにとって、毎日、いろいろなことを話して帰る翔太との関係が、距離感的にもとても良いのだ。
時々、もっと距離を縮めた方がいいかなと思うこともある。翔太もそれを望んでいるんじゃないかと思うこともある。
一度、マイフレンド信那ちゃんのご意見を仰いでみた。
彼女はこの時も笑顔だった。
「私も恋愛経験ないし、よく分からないけど、彰子ちゃんがそれが落ち着くなら、それでいいんじゃないかって気がする。変わらなければならない時が来たら、変わればいいって気がするよ」
後から思えば、彼女の識見は驚くほど的を得ていた。それは高三の七月……
◇◇◇
あたしは昼休みと放課後は殆ど信那ちゃんと共に行動する。それが心地よいからだ。でもいつでも一緒という訳でもない。トイレとかは別だ。
そして、ボクシング部の部室にも近づかないようにしていた。それでも、近くを通らなければならない時もある。
そういった条件が揃った時、事件は起こった。
その時、あたしはトイレに行くと言った信那ちゃんを待っていた。特に何かを思うことなく。
そして、腕を掴まれた。声を上げる暇もなく、引き込まれた。ボクシング部の部室に。
あたしを引き込んだのは、そう、赤神先生だ。ちいっ、油断した。
赤神先生は、あたしの背中を部室の壁に押し付けると、囲い込むようにして、右手で壁を叩いた。先生、壁ドンなんて、もう古いよ。
「彰子……」
いきなり呼び捨てかよ。あたしはあんたの何なんだ。
「初めて見た時から好きだった。この国におまえみたいな『やまとなでしこ』がまだいるなんて、夢のようだ。俺のものになれっ!」
ああ、あたしは平安文学に憧れて黒髪ロングにしてるからね。だけど、勝手に「やまとなでしこ」にしないでくれっ! そんなこと言ってるのは、あんただけだよ。他の男はあたしの中身がディープなオタクだと知ってて、告っても来ないぞ。あたしの中身を知って近づいて来たのは翔太だけだっ!
「俺の気持ちを知りながら、職員室で古典の上泉といちゃつきやがって。お前のためを思って言ってやってるんだっ! あんなカビが生えたじじいとは縁を切って、俺のところに来いっ!」
まっ、待て。あんたにはあたしと上泉先生がいちゃついているように見えるのかっ? 古典の話をして盛り上がってるだけじゃないかっ! 他の先生たちはみんな「また、古典談議が始まったよ」と言って、笑って見てるぞっ!
「おまけに上泉の娘とまでつるみやがって。おまえが好きなのに声もかけられないじゃねえかっ! あんな『私って、頭いいのよ』って年中言ってる性格の悪い女とは縁を切って、俺とつきあえっ!」
親友の信那ちゃんと一緒にいちゃ悪いのかっ! あんたはあたしの束縛夫かっ! それに失礼なこと言うなっ! 信那ちゃんは自分の成績を自慢したことは一度もないっ!
「おまえみたいなおとなしい女は、俺のような『明るいスポーツマン』に守られてるのが一番いいんだっ! 俺と付き合えっ! どうせ、付き合ってる男はいないんだろっ!」