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「明子。俺は耳の調子が悪くなったらしい。彰子が『医者になる』と言っているように聞こえる。耳鼻科の鳴神先生はもう帰っちゃったかな?」
父のオオボケに母はさすがに呆れたように言う。
「鳴神先生ならとっくに帰っちゃったよ。耳は正常。彰子は確かに『医者になる』って言ってるよ」
「何っ、本当にそうなのか?」
振り返る父に、兄と姉は淡々とご飯を食べながら、答える。
「まごうことなき『医者になる』と発言している。それも複数回に渡って」
「聞いてれば分かるでしょう。1回目で気が付いてよ」
「そうか。そうか」
途端に顔がほころびだす父。
「やっと、やっと分かってくれたか。学校には志望校の変更を言ってあるのか?」
「もう、言った」
「そうか。そうか。うん。彰子なら俺に似て優秀だから大丈夫だよな。そうかあ。彰子も英一や秀子と同じ大学に行くんだなあ」
うーむ。やはり早合点していたか。しかし、ここは早期に言っておかねばなるまい。
「いや、大学は『石狩医科大』に行くよ」
「ん? 『石狩医科大』? どこにあるんだ、その学校?」
「北海道」
ドドーン 次の瞬間、あたしは幻の火山の噴火音を聞いた。
「北海道だあ?」
「うん。北海道」
「ゆっ、ゆっ、ゆっ、許さんっ! 彰子っ! おまえは英一や秀子と同じ地元大学の医学部に行くんだっ!」
「あたしの志望校は『石狩医科大』一本っ! 他にはないっ!」
「許さんっ! 北海道なんて、氷山の上でペンギンがシロクマに飛び蹴りをかまし、一年中吹きすさぶブリザードの中で、タロとジロが月に向かって遠吠えするようなところに娘をやれるかっ!」
待てっ! とーちゃんっ! その発言はあまりにも道民の皆様に失礼だっ! あたしが代わりに謝ります。ごめんなさい。
「お父さんのご意見は拝聴しますが、あたしの志望校は変わりません。『石狩医科大』一本っ!」
「いかん。秀子を地元大学の医学部に行かせたように、娘を他県の大学には断じて行かせんっ!」
「ほおお、すると、この私の存在はどういうことになるのかしら?」
ここでやっとお母上、御出馬ですね。お待ちしておりました。
「むっ、明子っ!」
「他県の出身で、ここの医学部に入ったこの私はおかしいのかな?」
「むっ、むう」
「おまけに地元の病院の跡取り息子北関君の熱烈なプロポーズを受け」
「うっ、うぐ」
「結婚して一緒に北関病院を発展させてくれと。さて、この私がこっちの大学に来なくて、地元の大学に行っていたら、どうなっていたか」
「明子ーっ、勘弁してくれーっ! 英一っ! 秀子っ! 助けてくれっ! お前らだって可愛い妹がいなくなったら嫌だろう?」
「離れて暮らしていても、妹は妹。『可愛い子には旅をさせよ』という言葉もある」
「お父さん、もう諦めなよ。彰子一人ぐらい他県の学校行ってもいいじゃない」
「なんてこった。彰子。でもな、お前に何かあったら俺は東北自動車道三百キロで飛ばして駆けつけるからなっ!」
とーちゃん。それは警察の世話になるよ。でも、ありがとう。
◇◇◇
その後、翔太は正月休みに一度帰省した。
半年弱、離れていただけなのに、翔太は随分と逞しくなっていた。
でも、はにかんだような笑顔は全然変わっていなくて、とても嬉しかった。
「何だ? この風の強さと冷たさは。寒いぞ」
翔太の言葉に、あたしは驚いた。
「北海道から来たのに? ここは北部とは言え、関東だぞ」
「いやこれは結構たまらんよ。寒い」
そのセリフは、あたしにとって未知の場所、北海道への不安を少し和らげてくれた。
竹上さんとは、自衛隊で初めて会った時から意気投合して、今では駐屯地内部では「竹上の弟分」で通っているそうだ。
その話を聞いた上泉先生は涙を流して、翔太の背中を叩きながら「良かったなあ。鈴木。良かったなあ」と繰り返していた。
「家ではいつも『鈴木、どうしているかな? 元気でやってるかな?』と言ってたんだよ」
信那ちゃんが後でそう教えてくれた。
いよいよ北海道に戻る日、あたしたちは駅まで見送りに行った。
「彰子。おまえのことだから、絶対四月には北海道に来てくれると確信している。待ってるからなっ!」
そう言う翔太とあたしは固い握手を交わした。いや、固すぎるよ。翔太。自分の握力が大きく増したこと、分かってないだろう。
それでも、一気にごつく、大きくなった温かい手とのお別れは寂しかった。でも、感慨に耽ってもいられない。翔太は約束を果たしてくれた。後はあたしだけだ。
◇◇◇
初めての そして 受験のため降り立った北海道 新千歳空港。
翔太のいる駐屯地もそう遠くないところにあるのだろう。
「自衛隊の駐屯地ってどっちなのかなあ」
何の気なしに呟いたあたしの独り言に
「北東の方角だよ」
見知らぬおじいさんが笑顔で教えてくれた。
あたしはおじいさんにお礼を言い、志望校のある札幌に向かう電車の走る駅に向かって歩いて行った。
気分はとても良く、そして、落ち着いていた。




