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「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」と川端康成は書いた。
だけど、こっちはそのトンネルに入る手前だから、山脈から雪ではなく、身を切るような乾いた冷たい風が吹きつけてくる。
あえてそんな風に身をさらすあたしのスマホが鳴った。
LINEだ。あいつからだ。
「うかったな~。まあ、うかるとは思っていたが。でも、良かった」
あたしも返信する。
「ふふん。ほんの実力だよ。でも、ありがとう」
すぐにまた返信が来る。休憩時間に入ったのだろう。
「四月から北海道だな。覚悟しろっ! 寒いぞっ!」
「ほほう、正月に帰省して、こっちの風の冷たさはたまらんと言ったのは誰だっけ?」
「訂正。雪の多さを覚悟しろっ!」
あっ。
次の返信を打とうとしていたあたしに向けて、一際強い風が吹いた。
その風には煌めく雪の結晶が混じっていた。
◇◇◇
あたしの名前は北関彰子。高校三年生。18歳。
そして、この4月からめでたく北海道の石狩医科大への入学が決まった。
北海道には彼氏鈴木翔太が待つ。
だが、ここに至るまでの道はまさに波乱万丈であった。
◇◇◇
「彰子っ! 将来の職業はっ?」
「文学部国文学科で古典文学を学び、平安時代を舞台にした漫画を描く漫画家になるっ!」
「ええいっ! まだ変わっていないのかっ! 大人しく医者になれいっ!」
「医者にはならんっ!」
恒例の父と私のバトルだ。母は何事もなかったように兄の求めに応じ、ご飯のお代わりを盛っている。姉は兄に醤油の瓶を取ってくれと頼み、兄は無言で姉に渡している。
まあ、要するにそのくらい日常茶飯事のバトルということだ。
もう、想像がつくと思うが、わが一族は父は医者、母も医者、祖父母は父方も母方も全員医者。兄は地元大学医学部の五年生。姉は同じく二年生。まさに医者一族なのである。
当然、父はあたしも医者志望だと信じて疑わなかった。だが、そうならなかったのは結構母に原因があったりする。
兄の名前は英一。姉の名前は秀子。これは父が命名した。理由は医者に相応しい頭のいい子になるようにだ。
そして、兄と姉は見事その期待に応えている。
しかし! あたしだけは母の命名だ。上の二人は父の命名だったので、三人目は自分が……と頑張った結果だ。
かくて、あたしの名前は「彰子」。名前の由来は平安期の最大の権力者藤原道長の娘にして、稀代の賢帝一条天皇の中宮にして、日本が世界に誇る文学作品「源氏物語」の作者紫式部の主君、藤原彰子だ。
あたしの命名理由については、母が熱く語ってくれたもんで、進級のクラス替えごとに藤原彰子から「彰子」と名付けられましたと自己紹介していたが、小5まではみんな「ふーん」以上の反応はなかった。
そして、あたしは小五までは男子に混じりサッカーをやるスポーツ少女だったのである。同じメンバーの中に翔太もいた。
母は「せっかく雅な名前をつけたのに」と嘆いていたが、学業成績は悪くなかったので、父は何も言わなかった。
いやむしろ「医者には体力も大事だから」と奨励していた。この時のあたしは自分も将来医者になると思い込んでいたのだ。
◇◇◇
一大転機が訪れたのは、小六のクラス替えだった。
例年とおり、藤原彰子から「彰子」と名付けられましたと自己紹介したら、後ろの席でガラガラガッシャンと大きな音が。
みんな当然あたしのことより、音の発生源に注目。
するとそこにはノートを床に落とした小柄な眼鏡っ娘が一人。
「ごごご、ごめんなさい。ちょっとびっくりして」
クラスは大爆笑。先生は大慌てでクラスを静めにかかった。
そして、次の休み時間。
一冊のノートを大事そうに胸に抱えたさっきの眼鏡っ娘があたしのところにやってきた。
「あ、あの、藤原彰子さんですか?」
あたしは何だかおかしくなり、吹き出した。
「ぷ、違うよ。藤原彰子じゃなくて、北関彰子」
「そうなんですか。でも『彰子』って素敵な名前ですよね。憧れます」
「そ、そう」
そう言われれば悪い気はしない。でも……
「クラスメイトなんだから、敬語は止めようよ。あなたは上泉さんだっけ?」
「うん。ありがとう。私は上泉信那。平安朝の物語とかが大好きで、藤原彰子も好きで、だって、紫式部の優しいお姫様で……」
今まであたしの周りにいなかったタイプだ。だけど、素敵な名前と言ってもらえたせいか、不思議と嫌じゃなかった。あれ?
「そのノートは?」
信那ちゃんは一瞬ためらったが、やがて、意を決したようにノートを渡して来た。
「良かったら見て下さい。あたしの平安朝愛を……」
「……」
十二年間生きてきて見たことのない世界だった。ノートの中に広がっていたのは色とりどりの平安朝のお姫様たちのイラスト、漫画、そして、二次創作の小説。
ゴーンゴーン
あたしの頭の中で鐘が鳴りまくった。そして、頭の中で大きな扉が鈍い音をたてて開いた。この世界に魅せられてしまったのだ。