あなたに悲恋をしたあの日に
雨は僕を、切なくて寂しい気持ちにさせるのはどうしてなんだろう。雨自体は嫌いではないが、
少し複雑な気持ちにさせる。
傘は嬉しそうだ。梅雨なのに、一ヶ月近く雨がほぼ降らずで、傘の出番がなかった。
だけど今日出番が来たからか、傘に当たる雨がやたらとリズミカルに聞こえる。僕の心のことなどお構いなしに。いつも通るこの小さいトンネルは、入るとかなり薄暗く、若干景色が赤く見える。
夜は本当に何か出てきそうな雰囲気をしている。
このトンネルはあまり通りたくないが、この場所を通らないと帰れないので、通らざるおえない。
僕はこの道を通るたびに、そして雨が降るたびに、大好きな人を思い浮かぶ日々が続いている。
それぐらい未練がたらたらとも言えるし、最高の恋愛をしたとも言えるだろう。
今この刺している傘も、その大好きな人からのプレゼントと言いたいところだが、ずっと返しそびれているものだ。勝手に使っているが、これよりもいい傘が見つからない。それはまだ忘れらずにいるからだと改めて痛感した。
貴女は今どこにいますか、元気ですか
僕は空に問いかけた。
今からちょうど8年前の話だ。高校二年生だった僕は、正直あまり真面目な生徒ではなく、ノートも取ることもせずに大概隠れて寝ているか落書きするかだった。だが、先生たちは真面目に見えているらしい。ノート提出の時は、友人に貸してもらってそれを写して提出していた。
「清水は凄いよな、ノートも取ってないのに真面目な生徒って。しかも、ほぼ聞いてないのに成績も悪くないんだもんな」
友人の竜也は、僕にノートを貸すたびに呆れながら言う。幼稚園からの幼馴染みなので僕のことを一番知っている唯一の友人だ。
「僕は天才だからな、決まってんじゃん」
少し自慢げな顔をしてそう答えた。これは僕と竜也のおなじみのやりとりだ。そんなたわいもない普通の日々が俺は大好きだった。人見知りが激しく、クラスに話せるやつも少なかった僕は、竜也と一緒にいることが多かった。僕はそれで満足だった。
だけど、先生たちの僕への評価には僕は寂しく感じていた。普通ならサボってます、やる気がないです、みたいな事を言われたり書かれたりする筈なのに、注意すらほぼされることもない。無関心どころか、僕を見ようともしてくれていない気がして、大人ってこんなに適当なのかと少し疑心暗鬼になっていた。
竜也は、一番の理解者で信頼しているので何でも話が出来るのに、このことに関しては一度も話したことがなく冗談で交わしてきた。
それは何故なのか正直分かっていない。
「じゃあ、授業始めるわよー」
教室のドアを開け、突然現れた謎の女性に教室中がガヤガヤしている。
お願いしますの挨拶を終え、突然チョーク持って黒板に何か書き始めた。
「今日から国語の授業を担当します
七瀬あゆみです、よろしくね。」
黒板には大きく七瀬あゆみと書かれていてその横にはニコちゃんマークが書かれていた。字は国語の先生をしているだけあって、とても達筆で、どこか温かい印象を受けた。
文字とゆうのは、人の性格が出るとゆうのはよく聞くが、それは間違っていないというのが大人になって分かった気がする。
七瀬あゆみは、一昨日この学校に赴任してきたらしい。綺麗なストレートヘアで髪が腰の長さまであり、目もくりくりしていて、幼い顔をしていた。色白で身長は平均より小さめだろうか。三十二歳だとゆうが本当に見えないぐらい可愛らしい印象だ。
「清水くん、清水くん」
突然肩を叩かれて、寝ていた僕は慌てて目を覚ました。
「授業中だからって…ノートに何も書いてないじゃない、ちゃんと受けなさい」
七瀬あゆみは、目を見開きながら言った。
「はい…」
僕は仕方なく起きてノートを取る事にした。
放課後、竜也が慌てて僕の元にやってきた。
「清水が珍しくノート取ってたからびっりしたよ、本当に小学校の時ぶりだぜ」
竜也は興奮しながら言った。それもそうだ。普段ノートを全く取らないやるが、急に本当に真面目にノートを取るのだから。竜也には冗談だが、晴天だけど雨が降るんじゃないかと笑いながら言われた。でも、絶対に雨は降ることはない。降水確率0パーセントなんだから。
五時間目の休み時間、竜也と話しながら廊下を歩いていると前から七瀬あゆみが歩いてきた。
「清水くん、清水くん」
こっちこっちと手招きしながら僕を呼んだ。
「はい、何でしょうか…」
僕は呼ばれると思っていなかったので、ドギマギしている。
「国語準備室に放課後来て」
七瀬あゆみは少し微笑みながら言った。
「国語…準備室ですか」
まさかの放課後に呼び出しなんて、ほぼ初めてなので動揺が隠せなかった。
「そうよ、絶対に来てね、」
そう言って七瀬あゆみは立ち去った。
隣にいた竜也が僕の肩を何度も叩く。竜也はかなり興奮していた。
「清水何やったんだよ!びっくりだわ」
僕の肩を叩きながら話すが叩いた所がジンジンしている。
「何にもしてねーよ、いつも通りだよ」
僕も内心戸惑っていた。頭の整理が出来ていない。
放課後、重い足取りで国語準備室へ向かった。本当は竜也とゲームセンターに行く予定をしていたが、先に帰ってもらった。廊下を歩いている途中、ふと外を見ると雨が降っていた。今日は降らない筈なのに、竜也の言う通りになったなと苦笑いする。
国語準備室のドアの前に着いた。何故か緊張して心臓がドキドキしている。一度深呼吸をしてドアを三回叩いた。しかし、中から反応がない。不安になってもう三回叩いたが、反応がないので中に入ることにした。
「失礼しまーす…」
恐る恐る僕は入っていくと、七瀬あゆみが椅子に座って、机に肘を置き外を眺めていた。外は雨が静かに、ただ静かに降っていた。
七瀬あゆみが見つめているその姿は、どこか寂しそうで、悲しそうで、辛そうで。どうしてそんな顔をしているのだろう。だけど、凄く絵になっていて綺麗だった。思わず見惚れてしまって声をかけることすら忘れてしまっていた。
「あ、ごめんね、来てって言ってたもんね
声かけてくれたらよかったのに」
七瀬あゆみはやっと僕に気がついた。本当に気がつかなかったらしく、少し恥ずかしそうに微笑んでいる。
「あ、す、みません」
あまりにも絵になっていて綺麗だったんですとは言える筈もなく、少し気まずくなった。
「まあいいや、話しよう、とりあえずもう少し中に入っておいでよ」
七瀬あゆみは手招きをした。とりあえず中に入り、椅子を勧められたのでとりあえず椅子に座った。
「そう、今日ここに呼んだのはね、清水くん図書委員会のリーダーになってもらおうと思っているの」
七瀬あゆみはにこっと僕に微笑んだ。まるで幼い子供のように無邪気な笑顔で。
「僕は…活字を読むのは苦手で…」
本当に本を読むのが苦手だ。昔は図書館へ行って色んな本を片っ端から読み、本を読むのが趣味なぐらいだった。だけど、今は本の世界に中々入れず一冊読むのにもひと苦労している。なので全く手をつけなくなった。
「実は…私も本を読むのが苦手…というか嫌いなの」
七瀬あゆみは眉間にしわを寄せて言った。
「え、国語の先生ですよね」
国語の先生というのは、本が大好きで詳しくイメージがある。必然的に本に触れなければならないのに、初めてそういう人を見た。
「昔は好きだったんだけど段々しんどくなっちゃって、だから清水くんもおんなじ本が苦手そうな気がしたから誘ってみたんだ」
七瀬あゆみが、まさかそんな理由で誘ってくると思っていなかった。授業中に寝ていたからかと思っていた僕は、気が抜けてしまいそうだ。まして、そんな理由で誘ってくるなんて、先生らしくない。
「お願い、一緒に図書委員しましょう」
七瀬あゆみは手を合わせてお願いしてきた。
かなり必死さが伝わってくる。
「ええっ…分かり、ました…」
ここまで頼まれたらと仕方なく承諾した。そのあと、ありがとうと僕の手を握り何度も頭を下げた。さらに、推薦も取りやすくしておくからと言ってくれたがそれは違うと思いそこは丁重にお断りした。しかし、そこまでお礼を言われると思っていなかったので、正直驚いた。全然この先生のことがわからない。そして、全く掴めなかった。
そして、放課後の図書委員会の仕事が始まった。図書室の本の貸し出し、返却の確認、本の整理整頓という単純な仕事だ。僕にとってはかなりめんどくさくて図書室というこの静かな空間がとても不安になる。ずっとソワソワして落ち着かないのだ。
「落ち着かないの?」
少し意地悪そうな笑顔で声をかけてきた。
「そうです…」
そんな姿を見られると凄く恥ずかしい。
「ちょっと寝たらどう?静かだから寝れると思うよ、授業中よりはね」
七瀬あゆみは睡眠を勧めてきた。図書室なので本を勧めてくるのが普通だろう。やっぱりこの先生は掴めない。
「先生がそんなこと勧めていいんですか?」
僕は聞きたくなった。勧めてくる理由も。
「確かにね、変人だから仕方ないわ」
明るく笑って言った。少し楽しそうに。
七瀬あゆみは奥の本棚へと行ってしまった。
眠たかったのもあって、僕は椅子に座りそのまま伏せて寝た。怒られても、七瀬あゆみ先生が良いと言いましたと言えば良い。怒られてもその時だ。
「清水くん、清水くん」
肩を叩かれて驚いて飛び起きた。見ると七瀬あゆみが横に立っていた。
「あ…すみません」
気がついたらもう図書室が閉まる時間になっていた。かなり寝てしまったと少し後悔した。
「帰りましょう、もう遅いし」
七瀬あゆみが微笑んでいる。先生なら怒ってもおかしくないのに。しかも、この時間まで起こさないというのもやっぱり先生らしくない。でも、そのおかげで、目も脳みそもスッキリしている。睡眠の力はやはりすごい。
図書室には僕と先生だけだ。もう外も薄暗く夜になりかけている。図書室を出て、長い廊下を歩いた。隣で歩く七瀬あゆみは、やっぱりどこか寂しそうな感じがした。
「どうしてそんなに寂しそうな顔をするのですか?
何か抱えているものとかあるんですか?」
思わず気になって、聞いたが聞いてはいけない気がした。
「大人って色々あるのよ。まだまだあなたは子供だから…気にしないで大丈夫よ」
そして続けてこう言った。
「今は少し人が怖い…怖くて堪らないだけ、ただそれだけなの、本当に」
大人ってどうして大丈夫じゃないのに大丈夫って言うんだろう。僕の母もそうだった。僕の家は母子家系で、母が働いている姿をよく見ていた。毎日仕事を三つ、四つ掛け持ちしてふらふらになるまで働いて、結局倒れた。今もまだ病院に通いながら、学費のために必死に働いてくれている。
母と七瀬あゆみが同じような雰囲気をしていて、なんだか倒れてしまうんじゃないんだろうかと思った。
「本当に…大丈夫ですか?」
僕は七瀬あゆみを目を逸らさずに見つめた。
七瀬あゆみも僕から目を逸らさない。
この見つめている時間が長く感じた、時が止まるとはこの感覚なのか。
僕にはやっぱり大丈夫ではないと感じる。この目が目の奥がそう言っていると思った。
僕は、七瀬あゆみの手をとった。綺麗で小さな手だ。そして手をぎゅっと握った。
「っ…」
七瀬あゆみは、一瞬目を見開いたがそのあと優しく微笑んだ。その微笑んだ顔が今にも泣きそうだ。
僕と七瀬あゆみは見つめ合っていた。
そして僕と七瀬あゆみは、しばらくの間手を握ったままだった。まるで何かで繋がれた様に離れられない。七瀬あゆみも何も言わない。その時間は本当に短い筈だが、とても長い長い時間のようだった。スローモーションでもかかったように。
家に帰ってもあの握った感覚が忘れられない。あの柔らかくて小さくて温かい、だけどどこか壊れそうで。
あの瞳が忘れられない。透き通っていてどこか悲しそうで、今にも泣き出しそうだった。
「あ…すみません…」
先に手を離したのは僕だった。これは色々まずいと我に帰ったのだ。
「いえ…清水くん、ありがとう」
そう言ってにこっと泣き出しそうな顔で微笑んだ。そして僕は、急に恥ずかしくなってさよならした後に慌てて帰った。
本当にやってしまった。相手は先生だ。しかも、僕から手を握ってしまった。まるで吸い込まれるように。これは明日会いづらい。
これは睡眠の力で、この出来事を消してしまえないんだろうか。
朝目が覚めても、やっぱり記憶は消えてくれない。さすがに睡眠の力では無理だろう。
今日に限って国語がある。かなりタイミングが悪い。自分で撒いた種だが、気まずくて逃げてしまいたくなった。
授業が始まり、机と机の間を通りながら教科を読む七瀬あゆみを意識してしまう。通るたびに心臓が音を立てて、教科書で顔を隠した。結局、話すことも目を合わすことすらもなく授業は終わり、ため息をひとつついた。
僕は意識しすぎだ、
本当に何をやっているのか…
「清水、大丈夫か?汗凄いけど」
気がついたら、汗をかいていた。しかも運動したんじゃないかというぐらいだ。
「ああ、大丈夫だよ」
人生で初めて、こんなに心を乱された気がする。こんなことになるなんて、去年の自分は予想していただろうか。
食堂の自動販売機でかなり悩んで、レモンティーのボタンを押した。
「レモンティー飲むんだね。」
後ろから聞き覚えのある声がした。
この声はもしかしてと振り返ると、そこにいたのは七瀬あゆみだった。
油断大敵だった、まさか会うとも声をかけられるとも思ってなかったので、声も出なかった。
「私、苺ミルクがいいな」
七瀬あゆみはそう言って、にこっといつもの無邪気な笑顔を向けた。
国語準備室は、静かで居心地よく感じる。窓から見える空は雲ひとつない、色で言うとスカイブルーのような透き通った空だった。僕と七瀬あゆみは、お互い向かい合わせで椅子に座った。、
「じゃあ、乾杯」
さっき自動販売機で購入したレモンティーと苺ミルクが合わさる。二つとも缶のジュースだったので、カツンと缶の良い音が響いた。苺ミルクを飲む七瀬あゆみは、本当に僕と同い年の様に幼く見える。苺ミルクの効果は絶大かもしれない。
「昨日は…その…」
僕は昨日のことを謝らねばと思ったが
「謝らないで。嬉しかったの、そうやって気にかけてくれたことが」
七瀬あゆみは遠くをどこか見つめていた。
「まだ人は信じてないし、怖いんだ…
でもね、清水くんと出逢って少し信じてみようと思ったの。」
そう言うと、足をぶらぶら動かしながら、またひと口苺ミルクを飲んだ。僕もひと口飲むと、レモンティーの爽やかさが口に広がった。このなんとも言えない照れ臭さと、距離感と、ムズムズするこの感覚は初めてだった。大人になりこれが青春というものかと、振り返り考えると改めて気がついた。
それからというものの、七瀬あゆみがより気になっていた。すれ違うたびに、姿が見える度に、目で追ってしまう。気がつけば、国語の授業も楽しみになっていた。それぐらい七瀬あゆみに惹かれていたのだ。図書委員の仕事でも、前よりも話すようになり、日々距離も縮まった気がしていた。そして、レモンティーと苺ミルクの乾杯もよくするようになった。国語準備室は僕にとっては、秘密基地のような場所になっていった。
「清水くんと一緒にいると安心するんだ、ねなんでだろう」
七瀬あゆみはふと僕に言った。
惹かれている女性に、そう言われて嬉しくない人はいないだろう。七瀬あゆみは、もしかしたら魔性の女なのかもしれない。それぐらい本当に、純粋で素敵な女性で、日を増すごとに先生ではなく、一人の女性にしか見えなくなっていた。
そして僕は、どんどん距離を詰めていって、さらにもう一歩踏み込んだ。
それは、雨が降る夏の暑い日だった。
僕は、いつもどおり図書委員の仕事をこなしていた。図書室での仕事は、以前はあまり乗り気ではなかった。
だけど、今は案外やりがいを感じている。あれだけ嫌いだった活字も、今は結構読むようになっていた。
しかし、七瀬あゆみの姿が見えなかった。
僕は気になっていたが、とりあえず図書委員の仕事をこなした。もしかしたら後で、来るのではないかとも思ったからだ。
しかし、やっぱり来ることはなかった。
僕が図書委員になってから、今まで図書室に来ない日はなかった。こんなことは初めてだった。僕は、ふと初めて国語準備室で会った七瀬あゆみの姿を思い出した。あの窓の外を眺める寂しそうで、悲しそう、辛そうなあの姿だ。
図書室の鍵を閉めて、僕は国語準備室へ向かった。国語準備室の扉を静かに開けて、中に入ると初めて会った時と同じように外を眺めていた。その姿を見ると、何故か心が苦しくなった。貴女が抱えているものは何なのか、僕には分からない。だけど、複雑な感情や思いは伝わってくる。
何かをしてあげたい、力になりたい、味方はここにいるよと伝えたい、その気持ちが先走っていた。
気がつけば、僕は七瀬あゆみの側まで行って、後ろからそっと抱き締めた。
「っ…」
七瀬あゆみは驚いた様子だったが、すぐに身を委ねたのが分かった。
「何が…そう…悲しくさせるんですか」
僕はそっと聞いた。聞こえるか聞こえないかぐらいの音量で。
「…ごめん」
七瀬あゆみは泣いていた。静かに、ただ静かに。
その姿を見た瞬間、僕の中のネジが外れた。
僕は七瀬あゆみの顎を軽く掴み、自分の方へ顔を向けてそのままキスをした。
拒めた筈だ。嫌なら突き放すことも叩くこともできただろう。だが、七瀬あゆみはむしろ、受け入れるように瞼をとじた。静かに頬を濡らしながら。その行動に一瞬戸惑ったが、七瀬あゆみに僕の思い全てが届くようにとキスをやめなかった。
どれぐらいしていたか分からない。短いキスだったと思うが、体感的にかなり長く感じた。このまま時が止まって欲しいとさえ思った。だが自然と僕と七瀬あゆみの距離は離れた。かなり気まずく、言葉が見つからなかった。
「私のために…本当にありがとうね
もっとしっかりしないとだよね…」
少し俯きがちに、頬を若干赤く染めて言った。もう泣いてはいないようだ。
「いえ…本当にごめんなさい」
僕は全力で頭を下げた。我に帰り、これはもう流石にやってしまったとかなり後悔をしている。しかも、弱っている女性に漬け込むようにキスをしたのでより申し訳なくなる。
だが、僕は聞きたかった。
「キス…嫌がりませんでしたよね?僕は先生が好きなんです、ほっとけないんです。
これって、先生も僕を受け入れてくれるってことですよね?」
嫌がらなかった。だからこそ聞きたい、もし違うならどうしてキスを受け入れたのは知りたかった。
「私も…清水くんのこと大好きよ」
七瀬あゆみはそう言って微笑んだ。
僕はその好きの言葉が嬉しかった。だけど、両思いになって付き合いたいという感情よりも、支えたかった。ただ、隣でそばで見つめていたかった。笑顔でいられるようにしてあげたかったのだ。これで、それが少しでもできると思うと嬉しかった。
「雨だって天気予報で朝から言ってたのに傘を持ってきてないなんて」
そう言って笑う七瀬あゆみは、僕に傘を貸してくれた。濡れて帰ると言ったが、僕の話は聞いてくれなさそうだったので、お言葉に甘えて借りることにした。
「ねぇ、一緒に帰ってもいい?」
七瀬あゆみも帰るということで、途中まで一緒に帰ることになった。僕はドキドキしていた。隣に七瀬あゆみがいる、それが今も信じられない。いつも通る小さなトンネルを通った。この道が駅にも家にも近いからだ。このトンネルはなかが薄暗く、夕方なのに何が出てきそうだ。
「ここのトンネルって暗いよね、電気を家庭用にすればいいのに」
七瀬あゆみは楽しそうに話をしている。
「僕もいつも思っていました。
いつ事件が起きてもおかしくないですよね このトンネル」
そう言うと、七瀬あゆみとふと目が合い微笑みあった。
たわいも無い会話は続いたが、やっぱり恥ずかしくて、ドキドキしている。
急に沈黙が起こった。この間はなんなんだろう、何か話さないと…
「好きな花は何ですか?」
僕は沈黙が耐えられなくて、質問した。
突然何よ、とかなり笑われて恥ずかしかったが、
「カラーって言うお花よ、白色のね」
笑いながら答えてくれた。
僕はこの時間がもっともっと長ければと思った。それでもやっぱりそうはいかない。
「今度返してくれたらいいよ、国語準備室へ
いつでもおいで」
七瀬あゆみは今まで見たことがないぐらいの笑顔で、僕に手を振っていた。借りた傘は折りたたみだったので、僕には少し小さかった。だけど、今日は色々あったけれど満足出来た一日だった。今日の雨は、人生で一番好きだ。
次の日の朝、いつものように教室に行くと竜也がやってきた。
「おはよう清水、なあ聞いたか?」
竜也は珍しく困った顔をしていた。目が伏し目がちだ。
「どうした?何かあったのか?」
竜也のこんな姿は珍しい。やな予感がして、一瞬鳥肌がたった。
「七瀬あゆみ先生、結婚したんだって」
竜也からまさかの一言が出てきた。
僕は、動揺を隠せなかった。
昨日大好きと言ってくれたのに、一緒にいる時間も長かった筈なのに、ずっと笑って過ごせると思っていたのに。
気がつけば僕は走り出していた。
七瀬あゆみのもとへ。
探していると、廊下で他の生徒と話す七瀬あゆみを見つけた。声をかけようとしたがふと会話が聞こえた。
「おめでとう、よかったねー」
他の生徒は凄く嬉しそうに祝福していた。
「ありがとう」
七瀬あゆみは嬉しそうに、話をしていた。
右手の薬指には、シンプルなシルバーの指輪が光っていた。
その様子に僕は、声をかけずに教室に帰った。声をかける勇気もなく、そして幸せそうだと思った。僕は、役割を果たしたのかもしれない。これで笑顔が沢山見れるんだと。
これで…さようならだな…
僕はほっとしたような、寂しいような、悲しいような気持ちになった。心が締め付けられて苦しかった。
それ以降も、図書委員で会っても普通に話はしていた。だけど、前のように沢山話すことはなかった。レモンティーと苺ミルクの乾杯もしなくなった。それと同時に、僕は生徒会に入って忙しくなり、より一層会う機会も減ってしまった。
それは、僕が避け始めたわけでも七瀬あゆみが気まずくなったわけではない。単純に、お互いが前に一歩ずつ進み始めたからだと思う。靴紐が解けた状態から、しっかり結び直して背筋を伸ばして歩き出したような。
僕は七瀬あゆみが幸せならそれでよかった。
七瀬あゆみが結婚して、一か月と少しが経った雨の日の朝だった。
「昨日、夜十時頃に妻を刺したという警察への通報あり、夫を殺人容疑で逮捕しました」
毎日、朝のテレビ番組を見て学校へ行く。それが僕の日課だった。今日も、沢山の事件が起きているのが当たり前かのように、ニュースキャスターは淡々と話すへ。もう少しで、学校に行く時間だ。テレビを消そうとチャンネルを掴んだ。
「被害者は七瀬あゆみさんで、自宅の寝室で発見されました」
僕は耳を疑った。
画面には七瀬あゆみの笑っている写真が写っていた。優しそうな、そう、間違いなくあの七瀬あゆみだった。
僕はチャンネルを片手に持ったまま呆然としていた。固まって動けない。信じられなかった。
僕は学校に行くまで、信じていなかった。
同姓同名なんて日本には沢山いるに違いない。
だけど、教室に入るとその話で持ち切りで、悲しい雰囲気が漂っていた。それで、本当に起きたことなんだと確信せざるを得なかった。
信じたくなかった。また今日も会えるんだと。
あの笑顔も、
可愛い姿も、
窓の外を見つめる姿も、
子供のような幼い顔も、
無邪気な姿も、
全てもう見れないんだ。
。
そう思うと、悔しくて息が出来ないぐらい苦しくて胸をぎゅっと締め付けられた。
僕は足から崩れた落ちた。開いた口が塞がらなかった。その場で泣き出したかったが、教室だったのでぐっと何とか堪えた。だけどダメージはかなり強い。
「大丈夫か…清水…」
あまりに落ち込んでいたのがわかったのだろう。竜也が、背中をそっと撫でながら声をかけてくれた。その優しさに心がより締め付けられた。
今日に限ってやっとこさ返そうと思っていた折りたたみ傘が、鞄の中に入っていた。
聞いた話では、七瀬あゆみの旦那はお見合いで無理やり結婚をした相手だった。しかも、影で女遊びも凄かったらしく、気性が荒い人だったようだ。殺人を犯してもおかしくないぐらいの男だったと近所の人は証言しているらしい。
もしかしたら、僕の前で見せていたあの寂しそうで悲しそうで辛そうな姿は、旦那のことがあったからだったのかもしれない。
それを思うと自分が嫌いになった。何故気が付かなかったのか、気が付いていれば絶対七瀬あゆみの手を引いて、何処へでも連れ出せたのに。
僕は窓の外を眺めていた。
雨はさっきまで小雨だったのに、大雨になった。降り続く雨は、まるで僕の心を代弁してくれているように、どんどん激しく降り続いた。返すことが出来なかった折りたたみ傘がより心残りを感じさせた。
僕は、生徒会の仕事も勉強も真っ当にした。
そして有名大学へと入学し、順風満帆だった。
だけど、大人になった今でもまだ七瀬あゆみを忘れることはなかった。
雨が降るたびに、等身大で
僕の目の前に現れるのだ。
彼女が殺された日、僕は毎年カラーの花を買って家で飾る。花屋へ寄り、僕は家へと向かった。いつも通る小さいトンネルの中に入った。七瀬あゆみと一緒に帰ったあの日を思い出す。
やっぱり忘れられない、楽しかったあの日は辛い思い出であり、良い思い出だ。
今でも、好きになって良かったと心から思っている。
突然腰にズキっとする痛みを感じた。その痛みはかなり痛くて立っていられない。腰に手をやると、何故か濡れている感触がした。手を見ると綺麗に赤く染まっていた。
さらに痛みは激しくなり、膝から崩れ落ちるように蹲った。まさかここで死ぬのか…
頭を上げると、目の前に男が立っていた。
僕はこの男を見たことがあった。七瀬あゆみの旦那だった人だ。手には赤く染まった鋭利な刃物を持っていた。
男は僕を悲しそうな目で見た。
僕は正直嬉しかった。
この思い出のトンネルで死ねるなんて。
しかも七瀬あゆみが殺された日に。
もう過去に苦しまずに済む。
もしかしたら向こうで会えるかもしれない。
耐えられなくなって倒れ込んだ。
七瀬あゆみの好きな花と、
返せなかった折りたたみ傘と共に。
今日は最低で、最高な一日だ。
あたりは赤く鮮やかに染まっていった。