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郡上八幡 少し昔の不思議な話~小さな下駄~

作者: こにゃんこ

 今日も夫の嘉男は帰って来ない。いつものことだが、いつまでたっても慣れる事はない。よくもまあ、この狭い町の中で面目ないことをしでかしてくれたものだと、公子は思う。

 自分では気付いていないが、公子はずっと強気で生きてきた。強気、というのは、がむしゃらに、ということではない。いつも、自分は人より一段上、という奢った気持ちだ。

 他人から見ると、ただのサラリーマンの妻なだけで、どこの何が公子をそういう気持ちにさせているのか、よくわからないのだが、きっと、それは生まれつきの性分なのだろう。だから、公子は、人のことを褒めた事が無い。幼なじみが茶道の師範になって教室を開いていると聞けば、あんな子に作法なんか教えられるのか、先生だなんて呼べるものか、と言い、踊りの先生をしていると聞けば、あんな子の踊りなんか見たくもない、と言い、パッチワークをやっていると聞けば、あんな不器用な子が作ったものなんか、ろくでもないものだと決め付ける。

 つまりは、負けず嫌いで、負け惜しみが強いのだ。では自分は、と言われれば、取り立てて、人に自慢できるようなことは何も無い。自分が出来ないことを人がやっていると、すぐに僻んで、その人を貶めるようなことを言うのだ。

 八幡の町は狭い。良くも悪くもすぐに噂になる。噂好きのオバサンたちが、あちこちでしゃべりまくるからだ。そのおしゃべりオバサンの親分格が公子だった。

 人のことは、どんなことでも、面白おかしくあちこちでしゃべってきた。女好きの誰が、今度手を付けたのがどこの人か。誰々の息子夫婦が離婚したのは、どこの誰が原因か。そんな話から、犬や猫の話まで、会う人会う人にべらべらと話してきた。

 それが今は、町のあちこちで自分のことを、こそこそと噂されていると思うと、悔しくて仕方なかった。自分が勝手にしゃべってきた人物評価を、今、自分がされているかと思うと、腹が立って仕方が無かった。

町の人たちは、当然公子本人には何も言わなかったが、知り合い同士会って、その話になれば、旦那もよそに逃げたくもなるわな、というのが概ねの見解であった。

 公子は、嘉男にも、相手の女にも無性に腹が立ってきた。自分にこんな思いをさせておいて、二人して楽しい夜を過ごしているのかと思うと、悔しくて悔しくて仕方がなかった。人のことを馬鹿にして!

 女の家は小野にあった。それも嘉男が買ってやったと専らの噂になっていた。子持ちで、大して綺麗でもない女の、一体どこがよくて、そこまで入れ込んでいるのか。自転車なら大した距離ではない。嘉男の車があるかどうか、女の家まで見に行ってやろうと思いついた公子は、人気の無い夜の町に、自転車を走らせた。

 夏の郡上踊りは終わり、観光客の姿が失せた町は、平日の夜中など、ろくに歩く人も見当たらない。

小野の女の家に近付くと、嘉男の車が停めてあるのが見えた。女の家に続く、最後の曲がり角で自転車を降り、公子は長いことそれを眺めていた。嘉男の車は、当たり前のような顔をして、そこにいた。女の家は、それを許していた。小さな自転車が置いてあり、その様子は、無防備な子供の存在をを思わせた。

見ているうちに、公子は、感じたことのない焦りや、絶望感、惨めさ、といった感情がないまぜになり、涙が溢れてきた。

 若い頃、自分は美人だ美人だとちやほやされた。嘉男と結婚した当初、若くてきれいな嫁をもらったと、嘉男の友人たちは羨ましがった。町内でも一番若い嫁で、子供が生まれると、若い母親であることが自慢だった。それなりに、幸せな家庭だと思っていた。

 娘は早くに嫁いだ。息子は、公子の口うるさいのに辟易している様子で、家には寝に帰るだけだ。嘉男は、というと、子供たちが成長し、子育てについての会話も減った今、公子と二人になるのが嫌で仕方がないようだった。

 公子は、人の悪口が大好きだった。悪い噂を聞くと、楽しくて話したくて仕方なかった。いつも嘉男との食卓では、近所で聞いた噂話ばかりを話した。嘉男がうんざりしていることにも気づかず、人よりも自分が一段上に立って、偉そうにまくし立てた。自分のことは棚にあげて。それがほぼ毎日だった。

 嘉男が女を作って、家に帰らなくなってからも、公子は反省などしなかった。女に対する憎しみや、夫に対する悔しさばかりで、少しも自分の落ち度や、欠点などを考え直すことはしなかった。そして、公子のそういうところ、自分が一番正しくて、みんなは自分の言うことを聞くべきだと、何の躊躇いもなく思っているところこそが、嘉男がつくづくウンザリしているところであった。

 女の家を、遠巻きに見ながら、怒鳴り込んでやろうかと思ったり、家に帰ってから電話を入れてやろうかと思ったりしたが、公子は自分が泣いていることに気付き、弱みを見せるのは嫌だと思った。夫と女のいる前で、自分が泣いているのは、悔しかった。女に馬鹿にされるような気がした。泣くのは向こうだと思った。

 公子は、くるりと踵を返し、自宅の方向へと自転車を漕いだ。

 途中、吉田川にかかる新橋の辺りに来た時、橋の下のほうから、ぼんやりほの白い明かりが見えた気がした。

 ふと気になって、自転車を降り、新橋の上から川面へと目をやった。何の明かりもなかった。踊りのシーズンも終わり、こんなひんやりした夜更けに、川で遊ぶヤツなどいるわけがないと思った時、狭い川原に女の子がいるのが見えた。

 女の子は、もう秋だと言うのに、浴衣を着ていた。川に入り、足を洗っていた。この夜更けに、どこの子かと思い、

「おーい、おまん、どこの子よ?」

と、公子は橋の上から呼びかけた。聞こえないのか、返事は無かった。何度か呼びかけたが、返事は無かった。

 仕方がないので、橋の下へ降りて行き、

「おまん、こんな夜遅うまで外におったらだちかんがな。おうちの人、知っといでるんか」

と声をかけた。

 女の子は、はっとした顔で公子を見てから、

「黙ってきた」

と言った。

「こんな遅う、どして出て来たんよ。危ないがな。この近所の子か。送ってやるに、上がっといで」

公子が言った。

「うちにおらんほうがええんや」

女の子が言うので、公子が聞いた。

「どしてよ?お母さん、心配するがな」

「今、おじさんが来といでるんや」

「おじさん?」

「お母さんの好きなおじさんや。お母さん、おじさんと仲良しやで、いっつも私は仲間はずれなんや」

「なんよ、そんなことか」

「やで、いっつも、一人で踊りに行くんや」

「もう踊りはやっとらんがな」

「そんなことない。さっき踊った」

 ここまでしゃべって、公子は、この子は少し知恵遅れなのか、と思ったが、はきはき話す様子には、そんなところはない。

「どして川になんかおるんよ」

「いっつも、踊った後は川に来るんや。川で足洗って、手ぬぐいで顔拭いてから帰るんや。涼しくなったら帰るんや」

「おまん、もう夜は、そんな浴衣一枚では寒いろ。川の水も冷たいし」

「さっきまで汗かいとったで、寒うない」

 話しながら、公子は女の子の浴衣を見た。まだ小学校の二、三年生といったところか。母親の浴衣を仕立て直したのだろうか、紺地に白抜きの朝顔で、大人が着る様な柄の浴衣だ。赤や黄色といった、子供らしい派手な色は使っていない。

「踊りはもうやっとらんがな。おっかしなこと言っとらんと、早う上がりなれ」

「嫌や。お母さん、私がおらんほうがええんや。帰らん方が」

「そんなこと、あるわけないがな。お母さんはおまんがおらなんだら、心配で眠れんで」

「お母さん、おじさんがおいでる日は、私とは寝ておくれん。おじさんが一緒の時は、私の心配なんかしとくれん。…お母さんは、私よりおじさんのほうが好きなんや」

 急に公子は、この女の子と、自分の気持ちが重なってきた。仲間はずれは、自分も同じだ。

「おまん、そんな格好では寒いで、おばさんの上着、貸してやるに、着なれ」

 公子は、はおっていた上着を脱いで、女の子に着せてやった。こんな小さな子をほったらかしといて、寂しい気持ちにさせるとは、一体、母親はどこのどいつかと、無性に腹が立ってきた。この子の母親を叱り付けてやらなければ、この気持ちは収まらない。

「送ってやるに、自転車に乗りなれ。家はどこよ?」

「まんだ帰らん。今日、おじさんが泊まってくんなら、私が帰っても、お母さんはお帰りも言わん」

「そんなこと、だちかん!お母さんに、おばさんが怒ってやるに、お家はどこなんや」

 女の子はいきなり泣き出した。声を上げて、わあわあと泣き出した。

「お母さん、私のこと、いらんのンや。おらん方がええんや」

公子は困って、膝に乗せて背中を撫でてやった。しばらくすると、泣き止んで、うつらうつらしている。

「おまん、眠いんなら、早う帰らんと。どっかで泊まったら、大騒ぎになるがな」

「嫌や、おじさんおいでるもん。おばさんとこ行く」

眠そうに半開きの目で、女の子が言った。

 それを聴いた瞬間に、自分の夫が、相手の女の子供に、そんな気持ちにさせているような気がして、猛烈に申し訳ないような感情が込み上げてきた。目の前の女の子は、あの女の子供ではないのに。

「そうか、仕方ないな、朝には帰るんやで。今日はおばさんとこにおいで」

 公子は、女の子の下駄を自転車の前籠に入れ、

「眠って落ちんように、ちゃんとおばさんに捕まっとるんやで」

そう言って、自転車の荷台に乗せた。女の子の手は、冷え切ってひんやりしていた。

 自転車を漕いでいる間、女の子は公子にすっかりもたれかかっていた。背中に女の子の体温が伝わってくる。こんな風に、子供たちが小さいうちは、よく自転車に乗せたなぁ、と公子は思った。まだ、ついこの前のことのように思える。女の子の温もりに、慰められるような気持ちになり、愛おしさが膨らんできた。

 公子は、女の子が落ちないように、脇で片方の手を握り、もう片方でハンドルを握り、家へ急いだ。

 家に着き、

「手ぇ、離すで。落ちんようにするんやで」

そう言って手を離すと、女の子の体温が背中から消えた。あ、起きたな、と思って自転車を降りると、妙に自転車が軽い。女の子の姿は消えていた。

 公子は慌てて辺りを探したが、今眠っていた子供が、急にどこかに行くとは思えなかった。公子は今来た道を、自転車を引っ張りながら、また戻って行った。川まで女の子の姿は見当たらなかった。

 川に着くと、新橋の上に、公子が着せてやった上着が落ちていた。さっきまで、自転車の後ろで女の子が着ていたはずだ。

 ここまで戻ってきたということか、と公子は思った。家に帰ったのか、きっとこの近所の子供なのだろう、と。

 翌朝、それにしても、と、やはり心配になった公子は、警察に話だけしておこうと、自転車に乗ろうとして気がついた。籠に女の子の下駄がある。かなり歯の減った小さな下駄だ。随分古い。誰かのお古を履いているのだろうか。

 警察に届けに行く途中、下駄屋の奥さんに会った。公子の自転車の籠に目をやると、

「こらまた古いンなぁ。こんに古い下駄、どしたんよ?」

と言った。

 いつもの公子なら、可哀相な女の子と、ひどい母親のことを、べらべらとしゃべりたてるところだが、なんとなく、女の子のことが気になって、

「川原におった子が忘れてったんよ。どこの子かわからんけど」

というと、 

「なんよ、おまん、夏ごろの話か」

と、下駄屋の奥さんが言った。

「昨日や」

公子が言うと、

「その子、こんに秋になってから、下駄履きで川原になんか来とったんか?この下駄、鼻緒が手ぬぐいみたいなのですげてあるなあ。こんに歯の減ったやつ、ここまでして今の子は履かんろ」

と、下駄を手にとって、まじまじと見ながら奥さんが言った。

「おまん、ついて来たんと違うか」

「付いて?」

「昔、そこが遊郭やったろ。芸者の産んだ子は、寂しい子も多かったで、色んな話聞くでンなあ。金持ちの妾になれる芸者なんか、ほんの一握りやで。年季が明けてから、一人で子供抱えて生きていくのも大変やったはずやでンなぁ。

 まぁ、もしその子が近所の子でも、そこまで古い下駄は、探してまで履かんろ。警察にまで届けてやることもなかろも」

 下駄屋の奥さんは、そう言って去って行った。

 公子は、長いことその場に佇んでいた。

 そうなのだろうか。そう言われてみれば、何か夢のような出来事だったような気もする。お互い、寂しいもの同士、魂が呼応しあったということなのだろうか。もしかしたら、昨日の夜起きたことは、本物の夢だったのかもしれない。

 しかし、公子が女の子に羽織らせた上着は、新橋の上に落ちていた。あれは、確かに新橋まで戻った時に拾い上げて持って帰ったのだ。

 そんな気持ちが、心の中を行ったり来たりしているが、下駄は今、確かに公子の目の前にある。夢ならば、昨夜、背中に感じた温もりは、一体何だったのか。自転車を漕ぎながら、握った小さな手の冷たさは、今も手のひらが覚えている。

 公子は、自転車の籠の中を見つめながら、長いこと立ち止まっていた


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