8話 バイト
――真宮 直哉――
「お会計108円ですー。袋はお付けしておきます?」
「ん」
「はーい、じゃあテープだけ失礼しますねー」
俺はテキパキとレジに受け取った金を飲み込ませて、置かれたペットボトルにぺたりとテープを貼る。
ん、ってなんだよ。言葉でも失ったのか。
「はいお待たせいたしました、レシートのお返しですー。ありがとうございましたー!」
レシートを受け取ったおっさんはそのまま何も言わずに店を出て行った。結局、袋が必要だったのかそうでないのかは分からない。
でも、なにも文句を言わないってことはいらないってことなんだろう。そんなよくわからない客に袋分の経費を使ってやることもない。経費出してるのは俺じゃないけどね。
現在は家の近場のコンビニでバイト中。土日のオフの時間はこうしてせっせとバイトしているのだ。モテた時のことを考えてお金を作っておこうと、中学時代から働き方や気の遣い方なんかを勉強したが……まぁ、金があるのはいいことだ。なにも考えないようにしよう。
複雑な顔をしながらおっさんが消えていった方を眺めていると、スッと俺の後ろを誰かが通る気配がした。
「おつかれ、休憩いきなよ」
俺の耳に刺さるひどく冷たい声。感情のない瞳を俺に向けてくる、ショートカットの似合う彼女の名前は後藤 葉月。彼女は俺の一つ上で、ここでのバイトも一年先輩だ。ていうか、俺はまだ一月目なんだけど。
「あ、どもっす、じゃあお言葉に甘えて」
「はいはい」
心底どうでも良さそうにそのまま自分の業務を始める後藤さん。
まあ、その態度はやっぱり俺の黒歴史に原因があるわけで、彼女はなにも悪くない。でも、せっかくのバイト仲間なのだから少しでもこの態度が軟化するよう頑張らないといけない。
「とはいえなぁ…あのイメージを払拭するには……うんん、やっぱ仕事するしかないよなぁ…」
俺はお昼用に買った弁当を持って、うんうん唸りながら事務所へと入って行く。結局、食べながら考えたがとにかく仕事をするしかない。そんな結論に至った。
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「休憩あがりました」
「は…? 少し早くない?」
そ、そんな戻ってきただけでそんなに嫌そうな顔しないでくださいよ……
俺は膝から崩れ落ちそうな気持ちをなんとか踏みとどまらせ、「はは…」と口元をヒクつかせてなんとか笑みを作った。
「すいませーん」
そんなやり取りをしていると、売り場の方から声がかけられた。俺はすぐさまそちらへつま先を向けて歩き出す。
「はーい、お伺いしますー」
と声をかけつつ向かおうとすると、後藤さんがすっと手で制止してきた。
「真宮くん、まだ一月目でしょ。私がいくよ」
ありゃ、先輩に気を遣わせてしまっただろうか。でも、多分このくらいなら俺にも対応できるはずだ。それに、俺の貴重な経験値にもなる。
「いや、大丈夫っすよ。これも経験なんで。でも、どうにもならなかったら、お願いします」
苦笑いを浮かべつつ後藤さんにそう言うと、彼女は一瞬眉をぴくっと動かしてから、「はぁ」とため息を吐いた。
「まぁ……わかったよ。でも、あんま変なこととか言ったらダメだからね」
「え、ええ…任せてください」
呆れたようなジト目にたじろぎつつ、片腕をあげてそれに返答する。そして俺は改めて呼んできたお客様の元へと向かう。
「お待たせしました。いかがなさいました?」
「ちょっとコピー機の使い方わからなくて…教えてもらえる?」
見たところ50代から60代ほどのおばさん。そりゃあ、最近のコピー機とかは最初の画面から色んなのあるから分からないだろうなぁ…
「はい、かしこまりました。それで、コピー機でやりたいことはなんでしょうか?」
「この携帯の写真をプリントしたいんだけど、どうしたらいいのか…」
ああ…ただのコピーじゃなくてプリントアウトなのか。そりゃあ余計わからないわけだ。しかし、幸いにもスマホなのでこれなら俺でも取り扱いは分かる。
「はは、最近のは色々あって難しいですからね」
「そう! そうなのよ、どうにもあたしにゃ難しくってね…」
「分かります、僕らだって分からないことだらけですから。…えっと、まず、このスマホをこのケーブルに挿して…」
コピー機からぴょこんと伸びているケーブルと受け取ったスマホを接続する。あとはコピー機の指示通り、機器からのプリントアウトを選択していけばいいだけだ。すると、写真を選択する画面に可愛らしい赤ん坊の写真がずらっと並んだ。
「お孫さん…ですか?」
「ええ、今年生まれたんだけどとっても可愛くてついいっぱい撮っちゃったのよ」
「それはそれは…おめでとうございます。それにしても、本当に可愛らしいですね」
お世辞じゃない。泣き顔や笑った顔、どれも眩しく輝いて見える。ぼーっと自分の子供を想像してみたが、好きな人もいなけりゃ彼女もいないので虚しくなってやめた。
「そうでしょ? 本当に、目に入れても痛くないってこのことなのね」
「ははは、そうでしょうね、こんな可愛いお孫さんをお持ちのお客様が羨ましいです」
口はそのおばさんとの談笑に勤しみつつ、手はしっかり動かして、おばさんに指定された範囲までをプリントアウトする設定をする。
しばらく談笑したのち、話のキリの良いところでお金の投入を要求する。
「あ、すみません、設定の方完了致しましたので、あとはお金を入れていただければ機械が勝手にやってくれます」
「あら、本当? とっても助かったわ」
「いえ、また何かあればお気軽にお申し付けください」
最後に俺の渾身の営業スマイルを披露してスッとお辞儀。事務所のマニュアル通り……!
「ふぅ…」
「おつかれ」
綺麗に整った顔に一分の表情も纏わないまま後藤さんが口だけで労ってくれる。そして彼女は、「はぁ」とため息をつくと、髪を耳にかける仕草をしつつ俺から視線を外して言った。
「まぁ……悪くなかったんじゃない?」
その言葉を受けて、俺は少しドキリとした。いや、ちらりと見えたうなじもそうだが、自分のやったことを純粋に後藤さんに褒めてもらえたような気がして嬉しかったからだ。別に女の子だからってわけではない。それが全くないとは言わないが、これがたとえ店長でも男でも嬉しいものだろう。
ちゃんとやればちゃんと結果が付いてくる。俺が学んできたことは間違っていなかった。俄然やる気が出てくる。
「ありがとうございます、後藤さん」
後藤さんはさっきと同じように眉をピクッと動かして「ふん」と言いながらまた自分の業務に戻っていってしまった。俺は肩を竦めつつ、名誉挽回するためにあくまで肩の力は抜きながら仕事に励むのだった。
そしてそのバイトから何度目かのバイトの時、事件は起こる。
別にその日は何か違うことがあった訳ではない。普通に外はカラッと晴れてとても気持ちの良い陽気だった。そう、本当にただの偶然。ただの不運。
「〜〜〜♪」
俺はその時、なんとも呑気に鼻歌を唄いながら資材の補充をしていた。コーヒーのカップを、所定の場所に置こうと手を伸ばしたその時。
―――バンッ!!
と机になにかを叩きつけるような音が店内に鳴り響く。俺は何事かとレジをちらりと覗くと、大柄のおっさんがレジに手をついてなにやらわーわー喚き散らしている。今その矛先が向けられている人はそのおっさんに隠れてよく見えない。
慌ててレジに入ると、そこにいたのは怯えるパートの人達と、背筋をぴんっと伸ばして澄ました顔でそのおっさんに面と向かう後藤さん。
でも、俺はすぐに気付いてしまった。彼女のバイト用の少し油で汚れたジーパンがぶるぶると小刻みに震えているのを。誰が見たって彼女は今凛として立っているが、後藤さんだって一人の女の子なんだと思い直す。
そして俺はずんずんと後藤さんに近づいていき、凄い勢いでまくしたてるおっさんと後藤さんの間にスッと割り込んだ。
「すみません、お客様。いかがなさいましたか?」
なるべく後藤さんとおっさんの間を取るように立つ。
「ああ!? だからよ! なんでねーんだって聞いてんだよ!」
だからってなんだよ。なにがねーんだって。
「ああー、そうですか。それは大変申し訳ございません、当店にそれは置いておりませんのでお引き取りください」
「んだとコラ。テメェ生意気だな、ぶっとばすぞクソガキ」
ふわっ…息クッサ!! なに、こんな真昼間から酒なんて飲んじゃってんのこの人!? しかもすんげー呑んでないか!? 酒は呑んでも呑まれるな、か…肝に命じておこう………
「オラ聞いてんのかよ! なんでねえんだって聞いてんだよ!」
知らねーよ。まずなにがねえんだよ。
でも、この場合はなにかがないことに怒っている場合は少ない。ただ酔った勢いか腹いせで抵抗してこない弱者に鬱憤をぶちまけているだけだ。
それが分かっているから、俺は平然としていられる。
「あー、申し訳ございません。それはご用意できないんですよー」
とりあえずおっさんは何が欲しいのかもよくわからないままぺこぺこと謝りつつ、事務所にいる店長にレジで連絡をとる。こんなのと真面目に張り合っても一生話は平行線だからな。
すると、事務所に通じる扉から驚いたように店長が出てくる。俺は目配せで「こいつです」と伝えると、こくっと頷いて「はいすいませんね、どうしました?」と言ってそのおっさんを外へと連行していった。
あっと言う間に静かになった店内。俺は「ほっ」と息を吐く。
あ、そうだ、後藤さん、大丈―――
先ほどの後藤さんを思い出して、パッと彼女を振り返ると、彼女は顔面を蒼白にして小刻みに震えていた。本当は相当怖かったんだろう。
そんな後藤さんに見兼ねた俺は、周りのパートさん達に、「ごめんなさい、ちょっと休憩もらいます」と一言断って後藤さんの手をなるべく優しく掴んで事務所へ連れて行く。手を握った時、ピクリと跳ねたが、それでも俺の手を振り解こうとしなかったことに安堵した。
事務所の椅子に後藤さんを座らせる。肩は未だにふるふると震え、顔は青ざめている。いつもとは違う、か弱い後藤さんに恐る恐る声をかける。
「怖かった…ですよね」
そんな俺の声に反応したのか、彼女はゆっくりと顔を上げ、俺を睨みつけて言った。
「こ…怖くなんか……ないし……」
その言葉は微塵も説得力なんて伴っておらず、なんなら少し涙目になってきた後藤さんに、俺は思わずふふっと笑ってしまった。
きっと、だからだろう。普段は凍てつくような瞳に温度が宿ったのを見て、俺も少し気が緩んでしまったんだと思う。
気付けば俺は、身体を震わせる後藤さんの頭にそっと手を置いていた。すると後藤さんは目を見開いて口をぎゅっと引き結んでいたが、少しすると、きゅぅーっと身体の力を抜いて、俺の手の感覚に身体を預け始めた。
「………真宮くんのくせに」
「はは……俺ですいません…」
わかる。すごくわかるその気持ち。でも、このまま後藤さんをここに放っておくわけには……っ?
痛い言葉を向けられて思わず苦笑いしていた俺は、あまりに突然のことに反応できなかった。
俺の鼻をくすぐるシャンプーのような甘い匂い。身体にまとわりつく心地よい感触と温度。
「はっ…えっ…」
「ちょっと…ちょっとだけこのまま……」
俺は、なんで、今後藤さんに抱きつかれているんだ……?
気付けば俺の胸には後藤さんがひしっと抱きついてきていた。あまりにも急なことに頭を混乱させていると、俺の胸の真ん中あたりがじんわりと生暖かくなる。そして、ぐすっ…ぐすっ…と後藤さんの泣き声が聞こえてきた。
きっと、相当我慢していたんだろう。泣くまい泣くまいと懸命に耐えて。そんな時にいたのが、こんな俺だったんだから後藤さんも災難だな。でも今は、俺にしか出来ないことをしようと思った。
俺は、静かに俺の胸の中で泣く後藤さんを抱き竦めつつ、優しく頭を撫でた。すると、少し強張っていた彼女の身体はどんどん脱力していき、最後には俺に身体を預けてきた。
ただそれなのに不思議と、俺の気持ちは波一つない海のように穏やかだった。今はとにかく、後藤さんが元気になってほしい。それしか考えられなかったから。
そしてそれは、いつの間にか戻ってきた店長が俺たちを見てニヤニヤしているのに気付くまで続いた。