5話 百衣 美紅
――百衣 美紅――
納得がいかない。何度睨みつけてもその文字は形を変えることも消え去ることもない。不動のものとしてそこに鎮座する90の赤い数字。
もうすでに一ヶ月。数学の授業があるたびに実施される小テストは毎回毎回毎回90点。それに比べ、あの自慢話ばかりで鬱陶しくて鼻につく真宮はいつも唯一の満点者として呼ばれている。
ただ、あんなやつに教えを請うことはできない。いつもいつも私のところに来て「どこがわからなかったん? 俺が教えてやるよ」と急に頼んでもいないことを上から目線で言ってくるあのロクデナシには何があっても聞きたくなんかない。
今日もどうせそうやって私のところや色んな女の子のところにいって「俺が教えてやるよ」と言いながらうざがられるのだろう。
そう思っていたのだが、終わってみれば真宮は大人しく机に突っ伏して眠り始めてしまった。周りもそれを異常だと認識したのか、チラホラと真宮の様子を気にしている人がいる。かくいう私もその異常事態に目を丸くした。でもその時は、今日だけこうなのだろうということで私は納得した。人っていうのはコロコロ気分が変わるものなのだから。
そんなことを考えた日から既に数日が経過した。相変わらず私は堂々とそこに存在する90という数字とにらめっこ。しかし、真宮はあれ以来満点を取ることだけは変わらず、全く周りに絡まなくなった。
(おかしい。絶対におかしい。あんなに積極的に誰彼構わず声をかけていた彼が、あの日以来ずっとあんな。………少し、気になるわね。)
私はこの90から脱却する術を真宮に教授してもらうという不名誉な理由を引っさげ、この疑念を解消するために腰を上げた。
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「で? 教えてくれるの? くれないの?」
私は自分のテスト用紙片手に真宮の前の席に座り込み、大方教えてもらう人間とは思えないような態度で踏ん反り返っていた。いや、分かっている。この態度は間違っていると。でも真宮の前でしおらしく頭を下げるなどいくら積まれてもごめんだ。
すると、真宮は前までの自信たっぷりと言った様相を全く見せず、むしろ私に気圧されたかのようにわたわたとし始めた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ百衣さん。なんでそんなことを俺に聞くんだ。そんなの、他の奴に聞いたらいいだろう」
(な、なに、この反応……まるで前とは別人じゃない…)
鼻に付くような上から目線はなくなり、むしろ自分なんかといった空気と声音を纏わせている。何故そんなに自分を卑下しているのかは分からないが能力があるのは間違いない。
現に、このテストで満点を取り続けているのは、今目の前にいる真宮しかいないのだ。
「馬鹿なことを言わないで。この問題を解けるのは今のところあなたしかいないじゃない」
思わずぶっきらぼうな態度になってしまい、ヤケクソ気味にテスト用紙を真宮に投げて寄越す。
こんなに態度を改めている真宮に対して、少し良くない態度をとってしまったかな…と内心で少し反省した。
当の本人は少し驚いていたが、まじまじとテストを見つめると眉根を寄せて言った。
「90取ってるじゃないか…これのなにを聞くことがあるんだ?」
90を取っている人間が満点を取っている人間に聞くことなんて一つしかないだろうに…もしかすると、だいぶ察しが悪いのかもしれない。だから周りの気持ちも知らずにあの絡み方をしていたと言われたら頷ける。今はしていないのが疑問だが。
「はぁ……この最後の問題、私はいつもこの最後の問題で100点を逃してるの。でもあなたは毎回毎回100点。何かズルしているの? していないならどうして毎回ここが取れるのか教えなさい」
「はぁ……?」
相変わらず自分のプライドが邪魔をして高圧的な態度をとってしまうことに情けなく思いながらも、今更変えられないので敢えて開き直ってよりぐいっと胸を張る。
彼はあっけにとられたように口を開け、再度私のテスト用紙に目を落として首を傾げた。
「いや、これ、教えることなんにもなくないか…」
「は?」
教えることがない。そんなわけがない、だったら私はこれで100の数字とご対面ができるはずだ。やっぱり、この人は私をまだ下に見てバカにしているのでは…
そう思ってつい真宮を睨みつけてしまったが、彼の表情を見てそうではないと悟る。彼は本気で、教えることなんかないと思っているのだ。
「いや、この問題を少し難しく考えすぎだ。もっと肩の力を抜いてやればいい。この途中式だって、ここにいく過程で使うのは公式一つで一発で出せる。最後に使う公式も、形はあってるが使ってるものが違うだけだ。それこそこの公式を使えば簡単に導けるはず」
彼は私の解答に指を指しつつ、どこがどうでどこがどうなればいいのか懇切丁寧に説明し始めた。そして言われて気付く。本当に教えられることなんてない。ただ私が考えすぎて、この問題を難しいものに昇華させているだけだった。
「えっ……えっ……あ、本当だ…」
もう高圧的な態度をとることも忘れて、説明されたところにこくこくと首を振ることしかできなくなっていた。
次第に、こんなに親切に教えてくれている人に対して、あんなひどい態度をした自分がなんだか恥ずかしくて居た堪れなくなってくる。
すると、真宮はそんな私を見て眉尻を下げつつ困ったように頬をかくと、優しく微笑みながら口を開いた。
「えっと…色々言ったけど、別に百衣さんは公式の使い方も合っているし、計算の間違いもない。むしろ正確で、こんなに綺麗にわかりやすく式を書く人も見たことないよ」
「ほ、ほんと…?」
気を遣ってくれているのが丸わかりである。でも、今はその気遣いに少し救われたような気がした。
「本当だよ。あとはこの文をよく読んで、なにを導かなきゃいけないのか考えるだけだ。だから、自信もてよ」
自信もてよ。なんて、今のあなたに言われたくはないわ。と、数刻前の自分ならそう言っていただろう。しかし、私は彼を少し誤解していたのかもしれないと思うと、その言葉はすんなり出てきた。
「うん…ありがとう」
すると彼は、照れ隠しするように私から視線を外して口をもごもごと動かし始めた。
「あー、いや、別に礼なんか言われるほどじゃないっていうか……まぁ、だからさ…次、頑張ろうぜ」
私は、なんだか彼の新しい一面を見れた気がした。
そしてその一面は彼の優しさに溢れていて、そして少し可愛くて……
「………うん、がんばる」
そんな嬉しい気持ちが出てしまったのだろうか。自然と頬が緩んだ。
「あ、ああ…んっと…ちょっと、俺、トイレいくわ…あー、ま、またな」
たどたどしく言葉を紡ぎながらガタガタと席を立つ彼に思わず笑いが漏れる。
「ええ、また、教えてね?」
「あ? ああ…うーん、まぁ、百衣さんが良いって言うならな…」
本当に、別人みたいだ。つい最近まで鼻の下を伸ばして気持ち悪い笑顔で近づいてきた男とは思えないほど、今は優しい人にしか見えない。そしてそんなギャップが面白くて、私はくすくすと声を漏らして笑った。
「さっきも言ったけど、これを教えられるのはあなたしかいないのよ? ふふ、なんだか…本当に変わったわね、真宮くん」
「そ、そうか…って、それはどういう意味だ?」
「さぁ? あまり気にしないで」
少し含んだ言い方をすると、真宮くんは「ん? ん?」と言いながらしきりに首を傾げる。前よりよっぽど親しみやすくなって、少し彼との距離が縮まった気がした。
それが少し嬉しくてくすりと笑うと、真宮くんは頬を染めつつ逃げるように教室を出て行こうとした。
すると、ガラリと開いたドアの向こうからはバッタリと結衣が出てきた。真宮くんはおどおどしながら脇に避け、頭の上に汗が幻視できるほど焦りながらそそくさと教室を出て行ってしまった。
(本当に……ちょっと変わりすぎじゃない? でも、あの真宮くんだったら、ちょっとアリかな…)
私は真宮くんの机に頬杖をつきながら、指先で机の表面をつつーっとなぞって、ふふっと笑みをこぼした。
気付けばもう日間ランキングに載っててびっくりしてます。
今後ともよろしくお願いいたします!
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