11話 好かれた水仙好いた花柳
――真宮 直哉――
心許ない街灯の照らす暗闇の中で、ひたすらにボールを蹴る。目の前に相手がいると想像して、プロ選手ならどうするのか考える。まずは判断力。こういう対面での戦いでは引き出しの多い方が勝つというのは自明だ。
聞こえる自分の息遣いが澄んだ空気の中へ溶けていく。既に止めどなく流れていた汗は、ぽたぽたと顎を伝って滴り、そのまま地面へと吸い込まれていった。そんな中で、俺は俺の世界に没頭する。
なんでこうまでするのか、俺にも分からない。ただ過去の自分を消し去りたいからか、最近の出来事をあまり考えないようにしたいからか…
…雑念が入った。今日はもうこの辺で終わりにしよう。
俺はクールダウンのためゆっくりと歩きつつ服で汗を乱暴に拭った。まだ夏に差し掛かっていない夜の空気は、俺の熱をゆるやかに奪っていく。
俺はその心地良さを全身で感じつつ、疲弊した体を投げ出すようにベンチに座り込んだ。すると、座り込んだ俺の隣から、そんな俺をずっと見守っていてくれた人が俺に声をかけてきた。
「お疲れ様。はい、ドリンクだよ。ちゃんと水分取ってね」
俺は未だに不思議に思っている。どうしてこの人はここにいるんだろうか。
「ああ…えっと、ありがとうございます。花柳先輩」
そう、そこではドリンクを両手で俺に差し出してにっこりと微笑む花柳先輩がいた。
どうしているのかざっくりと説明すると、ここへきていつも通り練習を始めようとしたら、「こんばんは、頑張ってるね」と言って美しい笑顔を浮かべた花柳先輩がいたのだ。本当、冗談じゃなくて。
初めはひどく困惑したが、花柳先輩が「いいからいいから」の一点張りをしてくるので俺は仕方なく折れた。正直、あんな美女に見つめられていると思うと中々落ち着かない。それに、ベンチへ行くとその美人が俺を労いつつお世話してくれるのは、なんだかクるものがある。
一体どうやって俺がここで自主練していると知ったのだろうか。百歩譲ってそれはいいとしても、知ったとして普通はこんな風にわざわざ俺のためだけに来てくれるんだろうか。と俺は素朴な疑問を思い浮かべた。
「あの、花柳先輩」
花柳先輩は俺にドリンクを渡してくれたあとに、カバンからタオルを数枚取り出してそのうちの一枚を俺に手渡しながら俺の声に首を傾げた。先輩のポニーテールが薄明かりの中でふるりと揺れる。
「ん? なに?」
「いや、どうしてここまでしてくれるのかなって…これは部活でもないし、花柳先輩にこんなことしてもらうのもなんだか申し訳ないですよ」
と言うと、花柳先輩は「なんだ、そんなこと?」と言いながらからからと笑った。
「気にしないで、これは私がやりたくてやってるの。ほら、こんなに頑張ってる人を放ってはおけないでしょ?」
「そういうもんですかね…」
「そういうもんだよ。だから、真宮くんは気にせず、私にお世話されてて?」
俺の体を冷やすために、タオルで汗を拭く俺をぱたぱたとうちわを煽ぎながらそんなことを言う先輩に、俺は肩をすくめて「ありがとうございます」とだけ言った。
きっと花柳先輩はこういう人なんだろう。だからあまり自惚れてはいけない。過去の自分の再来を恐れ、必死に自分を戒める。
平穏を保つために静かに瞑目していると、さわ…っと首筋にくすぐったいような感覚が走った。
「ん…?」
と目を開けて見ると、いつのまにか隣に花柳先輩はおらず、俺の真後ろに移動して俺の肩に両手を載せていた。
「花柳先輩? どうしました?」
俺は肩越しに思わず疑問を投げかけた。すると、花柳先輩は少し恥ずかしそうにはにかむと「へへ」という声を漏らした。
「いやね、真宮くん疲れてるかな? と思ってさ。ちょっとマッサージをね、私マッサージするの得意なんだ」
「いや、本当にそんなことまでしてもらわなくていいですよ?」
「いいのいいの、人の厚意は素直に受け取っておくものだよ?」
こてんと首を傾げて微笑む先輩。なにぶん、俺はそんな先輩を直視できない。可愛い。
「そんなこと言われたら、なにも言えないじゃないですか…」
「なにも言わなくていいんだよ。私が真宮くんにこうしてあげたいだけなんだから」
「………ありがとうございます」
「どういたしまして。……痛かったら、それは言ってね?」
と少しお茶目に舌をぺろりと出す先輩に、俺は思わず「ふふっ」と笑うと、先輩は「もう、笑わないでよ」と俺を軽く小突きながらマッサージを開始した。
グニュと先輩の親指が肩と首の間の筋肉の隙間を縫って沈む。心地よい痛みが走り、俺は「ほう」と息を漏らした。その後もグニグニと肩にもたらされる、程よい心地よさに俺は次第に体の力と疲れが抜けていくのを感じた。
「どう? 上手くできてるかな?」
「もちろんですよ…本当に…んっ…上手なんですね」
前を向いていたので先輩の表情は分からなかったが、なんとなく楽しそうにくすくすと笑う声が聞こえた。
「それは良かった。もう少し続けるね」
「ん…ありがとうございます…すごく気持ちいいです…」
そんなこんなで先輩が「はい、おしまい!」と言うまで親指が肩の筋肉をほぐしていく感覚に酔いしれていた。そして離れていく先輩の手がなんだか名残惜しく感じてしまう。
しかし、そんな俺の名残惜しさの残光がまだあるうちに、先輩の手はまたそっと俺の体に触れた。
「…? どうかしました?」
俺はその手の感触に少し心を躍らせつつ、それは表に出さずにあくまで平常心を保って先輩に尋ねた。すると、その触れた手は円をかくように俺の体を撫で回し始めた。急に訪れたその感触とくすぐったさに思わず声が漏れる。
「あ、ごめんね…いや、真宮くんって見た目じゃあんまりわかんなかったけど、すごい筋肉してるなと思ってさ…」
しみじみと言った様子で俺の身体を撫で回す先輩。恥ずかしくて顔から火が出そうだったが、今更振りほどくわけにもいかなかったので仕方なく先輩のされるがままになった。
「まぁ、トレーニングとかは今もしてますしね…あんまりガタイ良くなりたいわけでもないので、ほどほどではありますが」
「ううん、でもすごい。きっと今まで、こうやって努力してきたんでしょ?」
言われて自分の中学3年間を思い出す。思えば、随分と色んなことに手を出してきたな。まあ、それは今となっては実を結ばなかったけれど、悪くない体験だったのだと思う。
「そうですね…あまり自慢みたいなことはもうしたくないんですが…」
過去の過ちから、俺は気まずそうに頬をかきつつそう言うと、先輩はふっと手を離してまた俺の隣にぽすっと座った。
「……じゃあ、さ。私にだけ…真宮くんのお話、聞かせてよ」
こてんと首を傾げ、楽しそうに微笑みながら俺の顔を覗き込んでくる花柳先輩に、俺の心臓は鷲掴みにされてしまった。俺は「ぐっ」と息を詰まらせたが、すぐに気持ちを立て直して微笑む先輩の顔に釘付けになった視線を無理矢理外した。
「俺のことなんて、聞いても仕方ないんじゃ…」
そんなことを言ってみる。でもそれは、多分一番よくない解答だったのだと思う。その言葉を聞いた花柳先輩は俺との座る距離を、ぐいと縮めてきた。
そしてその後、俺は驚きでひゅっと息を飲んだ。それもそのはず、先輩の細い指が俺の指に絡み、そのままきゅっと手を厚く握ってきたのだ。
「せんぱ…!?」
俺は花柳先輩を見ながら驚きの声を上げようとしたが、それを遮るように先輩は口を開いた。
「私はね、真宮くんだから知りたいんだよ。今まで一人で努力して頑張ってきた真宮くんを、私はもっと知りたいの」
真っ直ぐに俺を見つめてくる花柳先輩。その表情には冗談やからかいの色は見えず、純粋にそう思ってくれているのだと分かった。
俺は思わず口をつぐみ、また目を逸らす。そんなことを言われたら、もう拒否なんて出来るわけがない。
「…わかりましたよ。先輩の知りたいことだったら、答えます…」
そう言うと、先輩はくすりと笑みをこぼして言った。
「ありがと、じゃあ、真宮くんの好きなタイプ教えてよ」
「えっ、今そういう話でしたっけ?」
「ん? でも、私の知りたいことなら答えてくれるんでしょ?」
俺は頬がヒクリと引き攣ったのがわかった。さっきまでの先輩の表情には嘘はなかった。そう、さっきまでなら。今では面白がるようなからかうようなそんな色が見える。
俺が言葉に詰まっていると、花柳先輩はにこりと微笑むと「冗談だよ」と言って、俺と手を繋いだまま立ち上がった。
「ほら、そろそろ帰ろ? …もちろん、送ってくれるよね?」
俺は、淡い街灯に照らされて微笑を浮かべる美女を見つつ、なんだか夢見心地な気分で返事をした。
「………もちろんですよ、こんな夜道で先輩みたいな美人を一人にするわけないじゃないですか」
「口がうまいね、真宮くん。でも、ありがと」
「……いや、本気ですよ?」
「……へっ?」
薄明かりで先輩の顔はよく見えなかったが、先輩は俺のその言葉に面食らった顔をしていた。そして、もじもじしながら「……帰ろ」と言ったきり俯いてしまった。
なんかまずいこと言ったかな、と不安になりつつも、さっきより強く固く握ってくる手に少し安堵しながら俺はお姫様をお城まで送り届けた。
別れ際、名残惜しそうに離した手の感触を、俺はその夜、ベッドの中でしみじみと確かめていた。
それとは反対に、花柳 詩織は自分のした大胆な行動を思い出して、浴槽で口からぶくぶくと泡を作っていた。
なろうとノクターンでルートを分ける……予定。
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