10話 偃鼠河に飲めども腹を満たすに過ぎず
──真宮 直哉──
ストローを咥えて中身を吸い上げると、コーヒー牛乳の甘ったるい味が口の中に広がる。その甘さを口の中で咀嚼しながら、俺は今起きている現実からやや目を背けていた。
「そういえば美紅、ついにあの小テストで100点とれたな! なんだか私も嬉しいよ」
「ふふ、ありがとう結衣。でもこれは、真宮くんのおかげなんだよ」
「ええ?こいつの?」
「そう、真宮くんがどこをどう間違ってるのか丁寧に教えてくれたから、私もやっと100点を取れたの」
「へぇ、本当に美紅に教えられるなんて、ちょっと見直したよ真宮」
「あ……うん、どうも……?」
「そういえば、結衣って真宮くんといつのまにそんなに仲良くなったの?」
「えっ? いや、昨日ちょっと、ね。そんなこと言ったら美紅だってさ……」
……いや、やっぱ分かんない。なんで俺の目の前で学年の美女2トップがきゃっきゃと話しながら飯食ってんだ…………?
疑問でぐちゃぐちゃにかき回された脳は、既にキャパオーバーを起こして軽い偏頭痛を引き起こしていた。
こんな冗談みたいな状況の始まりは、大体今から10分前に遡る。
俺はいつも通り一人で昼食を取るべく、あらかじめ買ってきた菓子パンとコーヒー牛乳を並べていた。そして、そんな俺に「よっ」と声をかけてきた人間がいたのだ。
ふと顔を上げてその声の持ち主を見た俺はぶわっと冷や汗を吹き出した。なぜならそこには、うっすらと笑みを浮かべた瑞樹さんがいたからだ。
俺が焦るのも無理はないと思う。昨日は「待て」と言われて『待たない』という選択をして逃げ出したのだから。そして今俺はその瑞樹さんから声をかけられている…これは、土下座案件か……
こうか……? こうか……? と土下座の仕方を考えていると、瑞樹さんはまるで何事もなかったかのように口を開いた。
「今日はお昼、私に付き合ってよ。昨日のお礼もしたいしさ」
お、お礼ね……なにされちゃうのかな……
ぴくぴくと目元を痙攣させる俺を尻目に、俺の目の前の席に腰を下ろす瑞樹さん。俺はいよいよ覚悟した。もう逃げ場はない、そのお礼とやらを甘んじて受けてやろうと。
しかし、俺の思惑は外れ、意外にも彼女はしおらしく俺に頭を下げてきた。
「昨日は…本当にありがとう、マジで助かった」
「……は?」
「……は?」
滞った時間の中で、俺は俺の誤解に気付く。
(え、お礼って言葉通りお礼って意味なの? 俺が怖がらせたお礼って意味じゃなくて?)
それに気付いた俺は昨日の行動を一瞬でフラッシュバックした。そして思う。あれ? なんで俺逃げてんの? と。
俺の視界に映る、怪訝な顔で俺の顔を覗き込む茶髪の美女。俺がこのあとやるべき行動はひとつだった。
「昨日は……逃げてごめん!」
両手を机について額を机に擦り付けんばかりの勢いで頭を下げる。よくよく考えると瑞樹さんに嫌われているって思いが先行して訳の分からない考えをしていた。
喧嘩が強いのだって、ああやってナンパされてる女の子を助けてキラキラした目を向けられたいからキックボクシングとか始めたっていう理由だったのに。俺はそんな野望も忘れ、助けた女の子を恐れてその場を逃げ出すというなんとも情けないことを……グッ……これも黒歴史だ…………
俺は新たに増えた黒歴史を、二度と掘り返さないタイムカプセルに詰めて脳内の奥深くに埋めた。雨降って地固める。そのまま固まって二度と出てくんな。その上から安息という名のコンクリートを敷いて固めてやる。
俺は頭も上げず、ぎゅっと目を瞑って彼女の言葉を待つ。すると、「ぷっ」と吹き出す彼女の声が聞こえた。そんな声に思わず顔を上げると、当然だが瑞樹さんの顔が見えた。
でもその顔は、怒った顔でも、嫌そうな顔でもなく、屈託無く楽しそうに笑う顔だった。そしてそんな笑顔に当てられた俺は、俺の心臓がドクッと跳ねる音を確かに聞いた。
「ぷははっ…本当だよ、なんであそこで逃げちゃうかなぁ」
「ご、ごめん……ちょっと勘違いしててさ……」
「どんな勘違いすれば、私から逃げてっちゃうわけ?」
「ん?」と楽しそうな笑みのまま、俺の机に頬杖をついて顔を近づけてくる瑞樹さん。急にドアップになった綺麗な笑みに俺は思わずたじろいでしまった。
「ああっ……と、いやさ……人の顔蹴り飛ばしちゃったし……怖がられたんじゃないかなーって……」
頭をかきつつ、なんとか瑞樹さんの笑顔が視界に入らないよう目を泳がせながら言った。そんな俺の言葉を受けた瑞樹さんは、少しきょとんとした顔をした後また「ぷすすっ」と吹き出すように笑った。
「真宮ってさ……意外と面白いんだね。私もずっと誤解してたのかもしれないな」
そう言って口元に手を当てて笑う瑞樹さんに、俺は思わず見惚れてしまっていた。そして瑞樹さんは、ひとしきり笑うとまたすっと微笑み直した。
「昨日のあれ…さ。怖いなんて思うわけないじゃん。……真宮、めちゃくちゃカッコよかったよ」
恥ずかしげもなくそんなことを言う瑞樹さんに、俺は顔を真っ赤にして思わず目を逸らしてしまった。こんな顔でどうやって彼女と向き合ったらいいんだと手で顔を押さえていると、追い討ちのように横から透き通った声が聞こえた。
「結衣、私もご飯ご一緒してもいいかな?」
「ん、美紅、もちろんだよ」
…………は?
俺の了承もなしに嬉しそうに俺の隣の席の椅子を引き出してこちらに寄ってくる百衣さん。この二人は対極なようで実は相性が良く、結構仲がいいっていうのは知っていたが…え、ここに俺の了承っていらないの? 聞かれても断れないんだけどさ。……じゃあいい……のか?
そして場面は冒頭に戻り、二人はあたかも当然というような顔でお弁当を広げている。かく言う俺は今朝方買ってきたクリームパンを齧っている。よく見るとコーヒー牛乳にクリームパンと、甘いものばかりだ。昨日のごたごたから疲弊して、無意識に糖分を欲していたのかもしれない。
周りから「それどういう状況なの?」という視線を感じる。そんなの俺が聞きたい。これどういう状況なんだよ。俺が容量不足の頭を抱えていると、俺の食事内容を見かねた百衣さんは声を少し尖らせて言った。
「真宮くん、それだけじゃ栄養全然ないじゃない…ちゃんと食べないとだめよ?」
「ん、そうだぞ、真宮。……仕方ないからほら、これやるよ」
そんなことを言いながら瑞季さんは自分の弁当箱に入っていたブロッコリーを箸でつまんで寄越してきた。そう、箸でつまんでそのまま。
「ん……えっと?」
「いや、皿とかないし、このまま食べてよ」
いや、え? ハードルたっかくね?
あまりの難易度に尻込みする俺に、瑞樹さんは「はぁ」とため息を吐いた。
「もう、焦れったいな。ほら、口開けてよ」
「え……あ、はい……」
なんだかもうよく分からないので言われるがままに口を開けると、瑞樹さんは嬉しそうに笑って「ほら」と俺の口の中にブロッコリーを放り込んだ。
「どうだ? 美味いか?」
俺はもうどこかへ飛んでいきそうな気持ちのままもぐもぐとブロッコリーを咀嚼する。味なんかひとっつも感じない。
「いや……よくわかんない」
「まあ、ブロッコリーだからな」
そんなことを言ってけらけら笑う瑞樹さんには、そういうことじゃないなんて言えなかった。
なんとも気恥ずかしい思いをしつつもぐもぐと残ったブロッコリーを噛んでいると、ふふと百衣さんが笑い声を漏らしながら、どこかのいたずらっ子のような顔になった。その顔を見た俺は本能的に悟ったね。あ、やばいって。
「じゃあ、私のこれもあげる」
そう言って彼女は、卵焼きを一つお箸で摘み上げると「はい、あーん」という声と共に俺に差し出してきた。
(ほらああぁぁやっぱりいいぃぃぃ!!)
すぐわかった。百衣さんは完全に瑞樹さんに便乗して楽しんでいる。おしとやかな人かと思いきや、結構茶目っ気のある人らしい。ひとまず、今発見したいことでは間違いなくなかった。
「ほら、私の手作りだよ?」
なんで余計ハードル上げんのこの人!? もうわけわかんないんだけど!
ふふふといたずらが成功して喜ぶ子供のような顔を見せる百衣さん。俺はその笑顔を見て思った。自分の恥程度でこの笑顔が崩れてしまうなら…甘んじて受けよう……と。
「じゃあ、いただきます……」
「はい、召し上がれ」
あむ、と差し出された卵焼きを頂戴する。そして周りからは殺意の目線を頂戴する。非常に居心地が悪い。味も感じない。うまいんだろうけどこの状況はなんにもうまくない……
「どう? お口にあったかしら」
ここで美味しいと言えない奴は男じゃない。俺はそう思うね。
「いや、すごく……美味しいです」
「ふふ、よかった」
百衣さんとそんなやりとりをしていると、心なしかムスッとしている瑞樹さんが、また自分の弁当箱から食べ物を摘み出して俺に寄越してきた。
「なんか悔しいから……私のも食べてよ」
俺はそんな瑞樹さんを拒むことなんてできなくて、なす術なく口を開けてそれを放り込まれた。
そんな俺たちを百衣さんはくすくすと笑って見守っていた。本当に居心地が悪い。
俺はモテないんだとようやく理解したっていうのに、あんまり勘違いさせないでほしい。じゃなきゃ、またあの黒歴史が蘇ってきてしまうだろうから。俺はもう、必要以上に自惚れたくないんだ。
……でもなんか、ちょっと良かったなぁ。
ルート変えるとは言ったんですが、全く展開とかまとまらないので、更新はしばらく時間をいただくと思います……
あんまり急に舵きってもいい結果にはならないと思うので(๑°ㅁ°๑)
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