愛
「ふわあ~。」
「ねえ、うみ……。たばこは嫌だって。」
「はあ?うるせえよ、がーき。」
「ガキじゃない。俺には折笠悠生っていう立派な名前があるんだ。ちゃんと名前で呼べ」
はいはい、と呆れたような返事をして宇美は1人、ベッドから立つ。今は朝の6時…。宇美の仕事の時間からも、俺の大学の時間からも、まだ随分と時間がある。
「もう仕事行く準備するの?」
「ああ、まあな。いつもより早く出て…、今日こそお前を家に送り届けないとな。」
「……そんなことしなくていい」
「だーめ。ちゃんと顔見せてやんなよ。みんな心配してるぞ」
「……。」
あの家は俺の心をすり減らしていくばかりで、癒しなんて全くない。されてくれない。
「お前が考えてることは大体想像がつく。でもダメだ。ちゃんと自立して、自分の金で飯をくえるようになってからじゃねえと、それは「自立」とは呼べねえんだよ、ガキ。」
「そんなこと…」
「分かってねえな。」
だってもし宇美がいなくなったら?可愛い彼女ができたら?もしかして俺のいない間に女を連れ込むんじゃ…
宇美がいないと今の俺は生きていけない。宇美にまで裏切られたら俺は…、俺は…。
「………わかったよ、宇美が言うなら…家に帰る。」
そう言うと俺の頭を優しく撫でる。見た目はいかにも怖そうなおじさんなのに撫でる手は誰よりも優しく、温かい。
「よし、偉いガキだ」
「ガキは余計だっ!!」
そう叫んで、頭にあった手を掴みがぶりと噛みついてやる。宇美の手のゴツゴツした感触が歯に触れる。あまり強く噛んだ覚えはないが力加減を誤り、少し血が滲んでしまっていた。
「いってえっ!!!」
当然宇美は痛がり、歯形がついている腕を眺めたが、視線を俺に戻す。その雰囲気がかなり悪いものだと気付いたが、寝転がり布団を被っている身動きの取りづらい状況、そして力の入りにくい下半身…。すでに逃げ遅れたということを悟った。
「随分と色気のないキスマークだなあ?」
「い、いや…、だって宇美が、ガキガキって言うからで、そのっ…つい、条件反射…っていうことだからさあ…、ね?」
「ごちゃごちゃうるせえよ、悠生。ほら、またこっち帰ってきたらうんと大人なキスマークの付け方…、教えてやるよ。」
朝から極上に色気のある雰囲気を溢れさせておきながら、俺の上に覆い被さり、軽くおでこにキスを落とすとさっさと着替えに行ってしまった。寝室で1人、心が昂ぶり放心状態だったが、ふと大事なことを思い出す。
「宇美ーーっ!!俺の世話してくれ!!!
体が全く動かないんだ、着替え手伝ってくれよおおお」
……。返ってきたのは静寂だけだ。
自分も寝不足でしんどい、それぐらいは自分でやれ。
と言う宇美の姿が脳に浮かぶ。
ちゃんと行為の後も労れよ。後も含めて行為なんだぞ。
簡単な朝ごはんをコンビニで済ませ、宇美の運転する車の助手席に着く。ここから30分も経たない内に、ドライブは終わるだろう。ここでは家での饒舌さが嘘のように2人とも口を開かない。いや、開けないのだ。いつもそうだ。
だが今日は少し違った。車が目的地に近くなり、静かな空気が打ち破られた。ポップな洋楽が車内を彩り始めようとする。あまり詳しくない自分でも聞いたことがある曲だ。
「……なんか、不倫してるみたいだな。」
「え?」
「男が、人妻を家の近くへ送り届ける。その家には女を愛している夫が…みたいな?」
「宇美が、俺の不倫相手―――」
「冗談だ、忘れろ。」
笑って誤魔化したつもりなのかもしれないが、朝日に照らされた宇美の顔はよく見えた。
なんでそんな顔するんだよ…、宇美。
やけにキャッチーな音楽が煩わしく感じる。選曲が、雰囲気にこだわりを持つ宇美らしくない。
「この曲はな、ある映画で使われた曲なんだよ。まあ、かなり大人な内容だし…、宇美には早いと思うけどな?今度一緒に見るか」
「うん!絶対だよ?約束」
「今度」がある。次また宇美の部屋に行くことが出来る。それだけで今は十分だ。
いつも公園の前にいつも通り車は止まる。
降りるときは振り返らず、真っ直ぐ前を向いて進むだけ。車の走り去る音は、宇美の「今度一緒に見るか」という言葉だけがループ再生されていて聞こえない。
ここから家までの距離は徒歩20分。きっと宇美はこの近くに家があるとずっと思っている。それは俺が最初に「この近くに家がある」と言ったからなわけで。
見知らぬ車から自分の子供が出てきて何のお咎めもないとは思えないし、なにより宇美との時間を胸にとどめておくための時間だ。
今回は宇美の部屋で2泊過ごした。なにより練習していたカレーを上手く作れて、宇美にも美味しいと言って貰えたことが1番幸せだったな。
次は何を作ろうか。やっぱり愛情たっぷりのオムライスかな?リクエストを聞いておけば良かったか?いや、これは何を作るか分からないワクワク感がいいんだよ、きっと。