はじまり
3月30日。
あれは母の誕生日。
桜が満開の日曜日だった。
ケーキを携え主人と、車で1時間の私の実家へ向かった。
キーキー軋る古い鉄の門を開け、ドアをノックする。
実家には呼び鈴がない。
訪問者は必ずあの軋る門を開けなければ、この家の主には会えないことになっていた。
「その方が面倒くさくなくていいのよ。」
母はいとも簡単にそう言い、私が結婚してこの家を出た後も、何も変わることはなかった。
玄関で主人と私を出迎えた母が、いらっしゃいの次にこう言った。
「お父さんね、金木犀の枝を滅茶苦茶に切っちゃったのよ。可哀想に、丸坊主だよ。」
この家は南側に大きなマンションが建ち、あまり日が当たらない。
土地目一杯に家が建っているので、庭と呼べる物はなく、東西南北に、人一人がやっと通れる位の狭い隙間が空いているだけだった。
北側の隙間に、前の住人が植えた濃いピンク色の花が咲く椿が大きく育っていた。
その横に、ここに来たばかりの時に、母と二人で植えた金木犀があった。
北側にも家がぴったり建っていたので、ほとんど日が当たらず、朝、東からの日が当たるだけの場所だった。
そのせいで、この金木犀は未だに満開に花を咲かせたことはない。
しかし、去年からちらほらと花を咲かせていた。
まだ靴を脱ぐ前だったので、そのまま覗いてみる。
かの金木犀がほどんど葉を残さず、やたらコンパクトになっていた。
無理矢理折ったような枝もある。
これは・・
枝を切り詰めたにしては切りすぎだ。
「ノコギリとか、ハサミでムキになって切ってて。」
いつの間にか後ろに来ていた母が言う。
父は、あまり自分から何かをするタイプでは無い。
まして、枝が邪魔だったから切る、など。
それなら、その横の椿の方がかなり大きくなっているし、枝も張りだしている。
切るなら、そちらを切るだろう。
この家は日が当たらないせいで、春でもかなり寒い。
バツの悪そうな顔をした父が、コタツのいつもの場所に座っていた。
「なんで、そんなことしたの?」
少し不思議な気持ちで父に尋ねた。
「それがいいと思ったんだよ!」
やはり、バツが悪そうに答える父。
そう言ったあと、小さな声で、
「・・・もう、しない。」
なんだか、すごい違和感を感じた。
今から考えると、そのときから父の異常な行動が始まっていたのかもしれない。
母の誕生日を祝う最中、父が言った。
「首の所にしこりがあるんだよ。」
父は近所にかかりつけの内科があった。
そこの先生と仲も良かった。
「先生に相談してみた?」
「まだ。今度行ったとき、診てもらうよ。」
そのときはあまり何かを深く考えたわけではなかった。
首のしこり。
あまりいい兆候ではない。
そう聞いたときに、父方の親戚の顔を思い浮かべたが、癌を患った者はこのとき一人もいなかった。
それで余計に何かを考えることはなかったと思う。
かなり夜も更けてから、実家を後にした。
満開の桜が並ぶ大きな通りで、主人が珍しく青信号に気付かず、後ろの車にクラクションを鳴らされた。
大きく道路に迫り出す桜を見ていて、信号に気がつかなかったのかと言うと、
「誕生日なのに、お母さんにみんなやらせちゃったなぁと思って。」
母は、「座ってて」と言われて座っているような人ではなかった。
どんどん自分で動いて、誰かに手伝ってもらう方が煩わしいというタイプだった。
それでも、
「そうだね。お母さん、かえって疲れたね。」
桜が綺麗な夜だった。
2ヶ月後、母から電話があった。
受話器から聞こえるその声は、困惑しているわけでもなく、涙声でもなかった。
ただ、淡々と、母は私に言った。
「お父さんが、壊れちゃった。」