中編
「私は君が助けた猫なんかじゃあない。君が助けられなかった猫さ」
「…」
「どうしたんだい?何か心当たりでもあるのかい?」
「…とりあえず。屋上に行きましょう。流石に周りの目も気になってきたので」
「むぅ、確かに。じゃあ案内しよう。こっちだ」
そう言うと彼女はさも自分の庭を駆けるかのように屋上へ向かう階段を駆け上っていった。
階段を上った先にあったのは机の墓場だった。
僕らが先程まで頬杖をついていたそれとはまるで違う、傷がつき黒く汚れた四足動物がそこにはいた。
生気を失った彼らは屋上へと続く扉を施錠しようとはせず、僕らがその扉を潜る一瞬をただひたすらに見つめるばかりだった。
「ここが屋上だ。よく来ているからな。詳しいんだ」
強い風が髪を揺らす。風下の方を見ると桃色の桜が青い空をひらひらと舞っていた。
「何で屋上が開いてるんですか?普通は固く閉められているものだと思っていたんですが」
「吹奏楽部が練習のために利用しているんだ。もっとも、ここが今開いているのは朝練の時に使った部員の閉め忘れだと思うが」
あはは、と笑う彼女の後ろ姿を僕はじっと見つめていた。
「…何か心当たりがあるんだろう?言ってごらんよ」
視線を感じ取ったかのように振り向かれ少し驚いてしまう。
風に揺らぐ長い髪に目を奪われながら僕はあの時のことを思い出していた。
「…僕が小学生の時、猫を助けられなかった、猫を殺してしまったことがあります」
「そうかそうか、それは気になるなぁ。先輩へ聞かせてもらうことはできるかな?」
僕は「はい」と頷く。近くにあったベンチにゆっくりと腰掛ける彼女はまるで今から話す全てを知っているかのようだった。
小学五年生の夏。僕達は一匹の猫を拾った。
僕と当時の友達、二人でいつもみたく変則しりとりなんてやりながら河川敷を歩いていると、そいつは橋の下にみかんの箱と共に座っていた。
毛並みは悪かったが、銀の毛をした綺麗な猫だった。
相談の結果、銀子と名付け秘密基地で飼うことにした。
僕らはすぐに引き取り手を探そうとはしなかった。
銀子と僕ら二人、そんな非日常を誰かに教えることなんて勿体ないと思っていた。
少ないお小遣いを切り崩して近くのスーパーでキャットフードを買うのも、 そのせいで流行りのトレーディングカードを買えないのも、僕らには全く苦じゃなかった。
今思うとあの日々は周りよりも早い青春だったな、と思う。ただその時は、非日常を生み出し続けるその銀の毛に子供なりにただひたすら魅了されていた。
僕らの軍資金が無くなって銀子に餌を買ってやれなくなった時、僕らは大人に相談することにした。
まずはお互い親に「うちで飼ってもいいか」と談判をした。
僕の家は諸々の事情で駄目だった。友達の家は厳しい家庭だったこともあり聞く耳を持ってもらえなかった。
僕らの放課後は秘密基地で銀子と遊ぶ日々から、銀子を抱えて校区内の家を訪ねて回る日々へと様変わりした。
夏の暑さに身を焼きながら毎日訪問を繰り返した。でも、誰一人家に迎え入れようとはしなかった。
大人は冷たいと思った。きっと面倒事に巻き込まれたくないから適当にあしらっているのだとそう思った。
みんなが学校に置いている荷物を少しずつ持ち帰り始めたある日、いつもの基地に向かうとそこに銀子はいなかった。
そこにあったのは銀子の形をした猫の遺体だった。
誰が銀子をやったかは分からなかった。ただ僕らの中は怒りよりも、深海より深い悲しさと悔しさでいっぱいだった。
「君が家で猫を飼えなかった事情っていうのは何だったんだい?」
一通り話を聞き終えた彼女は、補習中の生徒のようにそう尋ねてきた。
「僕が家で猫を飼えなかったのは、僕自身が猫アレルギーだったからです。外で軽く触る程度ならくしゃみが出るくらいで大丈夫だったんですが、一度両手で長い間抱えていたことがあって、その時に酷い咳き込み方をしてからは銀子を抱きかかえる役目は友達が担ってました」
「そうか…」
彼女はゆっくりとベンチから立ち上がると、柵に手を掛けこう続けた。
「さっきも言った通りその猫、銀子は私だ。君達が私の世話をしてくれたことも克明に覚えている。実際、私の記憶と君の話は違わなかった。君は私のことを信じるかい?」
「…正直な話、僕も突然のこと過ぎてよくわかっていません。でも、もし先輩が銀子だったらそれは素直にとても嬉しいです」
あの日々は間違いなく僕の青春だった。姿が変わっていたとしても、もう会えないと思っていた青春の架け橋にもし会えたとしたなら、それはどれほど幸福なことだろうか。
「まぁ、信じるも信じないも私の中ではどうでもいいんだ。…私が何を言いに来たかわかるかい?」
「あ、あの時はありがとう…ですか?」
「うさぎ当番だ」
そうだった。完全に忘れていた。雰囲気にほだされて恥ずかしいことを言ってしまった。
「さっきからうさぎ当番って…それ僕じゃなきゃ駄目ですか?早急に教室に帰って弁明したいのですが」
「くう…何だ貴様は!私はあの銀子だぞ!銀でもふもふの銀子だ!」
「そんなにもふもふではなかったですね」
「失礼な奴め!」と僕を指さすその姿に、まるで銀子の面影は感じられなかった。でも、
「やっぱり可愛いな、銀子は」
ふと口を突いて出た言葉はあの頃の自分に戻ったようで、忘れかけていた青春を取り戻すことができたみたいだった。